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 私が思い当たったもの――それは、ポケベルだった。
 数字を暗号のように組み合わせて、ショートメッセージを送れる商品だ。私はいつだったか、彼女と作ったポケベル表を携帯から探した。X、Y、Z――そして、ピリオド。本棚の順番と、綺麗に重なる。

 だとしたら、あの数字の羅列はポケベルの並びになっているのだろうか。私がコラムブックを捲ると、ふと、大きな手が私の視界を遮った。私はきょとんとして、その手を辿るように視線を持ち上げる。沖矢が、黙りこくってこちらを見ている。「沖矢さん」、彼を呼ぶと、スイッチの入った人形のようにピクリと眉が動く。
「あ、いえ……」
 彼はどこか歯切れ悪く、コラムブックを見遣った。そして、もう一度こちらに視線を向ける。

「――これを読んだ後も、忘れないでくれ。僕は、君と交わした誓いを、知っていることを」

 ――彼は、その内容を知っているかのような口ぶりで告げた。まさか、今の一瞬で読み取ったのだろうか。私は少しばかり怪訝に思いながら、小さく頷いた。胸がざわざわとする。心の表面を、柔いものが不規則に撫ぜていくようだ。

 私は彼と共に、数字と表を基にして内容を書き写し始めた。




 ――道城ユキの手記。

『 この手紙を読んでいるということは、私は既にこの世にいないのでしょう――というのは、一回やってみたかった口上です。私の名前は道城ユキ、今から私の身の上を、少しだけお話させてください。

 私の名前は本名ではありません。私の母は、実の母でもありません。
 私の母――ミチシロは、とある薬の研究チームの一員。私はその被験者の家族の一人です。家族は死にました。体内から検出されない薬というものを人間の被験者として飲んで、大金と引き換えに命を落としました。

 私も、その薬を飲みました。ミチシロが、飲ませました。
 しかし、何が悪かったのか、良かったのか――私は死にませんでした。当時、十一歳の子どもです。今でも強く覚えています。燃えるような熱さ、胸の痛み、息切れ。死ぬのだと思って目を閉じて、起きると体が縮んでいました。しかも、まだほんの小さな赤ん坊。意識だけはあるのに、せいぜいハイハイがやっとの体になっていました。

 ミチシロは、そんな私に罪悪感が生まれたのでしょう。
 最初こそ実験動物を見るように世話をしていましたが、そのうち、彼女の瞳に慈愛が宿っていくのを、子どもながらに感じていました。ミチシロは、私を連れ出しました。

 どうやら、誰か協力者がいたらしく、私はそれから道城ユキになりました。
 ミチシロは、私に記憶があることを気づいていたのか、気づきたくなかったのか。普通の女の子として、私を育てました。良き母でした。愛に深く、よく笑う人でした。この人が本当に、私の両親を殺したのか、判断がつかないくらい。

 私は本来、この世にいてはいけない人間です。
 道城ユキという少女は存在しないし、毒殺されたはずの人間は生きていてはいけない。ミチシロが、何度もそう説得されているのを知っています。私の体にあるだろう『抗体』は、存在してはいけないものだと、何度も何度も責め立てられていたのを、知っています。

 ミチシロが平和に暮らすために、私はいてはいけない。
 きっといつか、私の存在を知った誰かが、私を殺す。死ぬのが怖くないわけじゃないけど、私はあの毒薬を飲んだ時に死んでいるのです。
 だけど、私が死んだその時に、本当の私を知る人がいないのは寂しいので、こうして文にしてみました。
 (昔の私は、小説なんてこれっぽっちも読まなかったのだけど、文字が読めるぶん幼少期から色々な本に目を通していたら、ハマっちゃったの。工藤優作。彼は天才! 死ぬ前には会ってみたいな。)

 ミチシロのことを恨んではいません。彼女は私の第二の母でした。たとえ私を連れ出したことが、育てたことが、彼女のエゴだとしても、私は幸せでした。ユキという名前が、好きでした。

 この本を読んでいるあなたへ。
 もし、ミチシロがいるのなら、私の死を気に病むことのないよう伝えてください。彼女は死をもっても償えない罪を犯しました。訴えるなとは、恨むなとは言いません。ただ、私は後悔をしているわけじゃないと、伝えてください。彼女を救ってあげて欲しい。お願いです。



 最後に。
 この暗号を解いたということは、私の想いが最後まで変わっていなければ。あなたに伝えたいことがあります。もし心当たりがなければ、読み飛ばしてください。

 黙っていてごめんね。あなたの呼んでくれたユキという名前が、本当に好きだった。
 あなたはよく、私を羨ましいと、そうなりたいと言うけれど、私はあなたに助けられてきました。私の存在はあってはならないと、何度も言われてきた。言われるのを見てきた。それが口外されたら、ミチシロも責任を持って死ななければならないと。

 なら、死のうかな、どうしようかな。
 せめて自分で、苦しくないような死に方を選ぼうかな。そう思ってきた。
 それでも生きていたのは、あなたのおかげです。あなたがユキ、って呼ぶから。私を必要だと言ってくれるから、私はずっと生きていたの。小さい時にあなたが、ユキはヒーローみたいだねって言ったから、私はずっと誰かのヒーローであろうと生きてきたの。
 そんな私だから、あなたのことは誰よりもよく知っているのよ。

 あなたは、優しい人。人の痛みを自分の痛みにできる人。
 あなたは、賢い人。人の変化を機敏に察することができる人。
 あなたは、強い人。あなたが思うよりも、ずっとずっと、強い人。

 世界の誰もが、あなた自身が、あなたを信じなくても、私が信じている。だから、胸を張って、前を見て。

 私がいつか、いなくなっても、前を見てね。遠く遠く、向こうを見るの。
 誰かのヒーローじゃなくて良い、あなたのヒーローになって。

 ああ、呼びたいな。あなたの名前を、呼びたい。
 でも、もし誰かほかの人が読んだ時のことを考えて、ここには記さないわ。
 だから、この文を読んだら思い出して。私があなたを呼ぶ声を。いっぱい、いっぱい、私に名前を呼ばせてね。


 あなたの親友』




「――ユキ……」

 零れた涙が、書き写していた私の手元の文字を滲ませた。
 駄目だ、泣かないと決めていたけれど、彼女の声が頭を過ぎる。『百花』、明るい表情が私を呼ぶ。「ユキ、ユキ」何度も彼女の名前を呼んだ。

 どうして、助けを求めなかったのだろう。
 たとえ慎也の出来事が、彼女の死とは関係なくても、死ぬかもしれないと彼女が弱音を吐いたことは一度もなかった。彼女はすべて分かっていたのだ。そんなこと、理解はしている。けれど、感情だけが置いてけぼりになっていた。

 どうして、助けてって言わなかったの。
 どんな気持ちでこの暗号を作ったの。
 どうやって、暗い夜を一人過ごしていたの。

「……ッ、ユキ……」

 あの夜で、ユキのことで泣くのは終わりにしようと思っていた。沖矢の隣で泣きじゃくった日、もう前を向いていこうと思っていたのに。そんな風に言われたら、立ち止まってしまう。振り向いてしまう。
 大丈夫、もう、前を向けるから。彼女がいなくても、自信を持って生きていくから。
 だから、今だけは――。今だけは。

「良いですよ」

 水たまりに落ちた水滴のように、その言葉がストンと心の奥へ落ちた。波紋が広がる。溢れる涙は、もう止めなかった。几帳面に書かれた数字も、私のメモと同じように滲んでいる。目の前に、ユキがいるような気がした。きっと、彼女も私を呼びながら――同じように、泣いていたように思う。