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「あ、安室さん。お疲れ様です!」

 軽い足取りで扉を押し開けた姿に、小さく会釈をした。にこやかに挨拶をすれば、彼女も弾むように笑う。常よりも少しスポーティな服装は、恐らくここに来る前に噂の道場に通っていたからだろう。
 初めて見た時よりも少し伸びた髪を上で結い上げると、喫茶店のロゴが印字されたエプロンを着ける。以前より、やや顔回りがスッキリとしただろうか。ニットの隙間から、くっきりとした鎖骨が覗いた。きらりと光るシンプルなピンクゴールドのネックレスは、以前は着けていなかったものだった。つい亜麻色の髪を連想してしまう色に、嫌な予感がしたので、事情は聞かない。

「お、高槻さん〜! こっちー!」
「いやいや、先にこっちの注文頼むよ」

 彼女がフロアに入ったことを目に留めた常連が、手を振って高槻を呼びつけた。穏やかそうな顔つきが、嫌がることもなく「はい」と駆け寄っていく。――俺は少しだけ間をおいて、高槻を呼び止めた。くるりと振り向くと、ポニーテイルがつられて揺れる。

「すみません、あちらのお客様のデザートをお願いしても良いですか。こっちは僕がやっておくので」
「……はい。でも、あのお客様……」
「あとで伺いますと言っておいてください」

 高槻が少し歯切れ悪く言わんとすることは分かっている。窓際に座っている女子高生は、所謂安室目当て≠ニいうやつで、シフトに入る日だけを目ざとく来店する客たちだ。苦笑いを浮かべれば、彼女はそれ以上踏み込むこともなく、何度か頷いて踵を返した。
 俺が注文票を持って、愛想笑いを浮かべながら注文を取りに行けば、高槻を呼びつけた男性客は露骨に肩を落とす。
「なんだ、安室の兄ちゃんかよ」
「あはは、ひどいなあ。せっかく燻製生ハムをトッピングしようと思っていたのですが」
「いやいや! まさか。嬉しいよ」
 ばんばん、と強い力で肩が叩かれる。些か強引で昔気質な男だが、根が悪い人ではない。少々、女性に加減がないだけだ。ランチセットを注文票に書き込むと、キッチンへと踵を返した。

 キッチンで洗い物をしていた梓が、好奇心の強そうな少し吊った目つきを、チラリとこちらに向けた。そしてまるで漫画のように手で口を隠しながら、すすすと近づき、囁いた。
「百花ちゃん、最近美人になりましたよね。常連さんからの人気もバッチシです」
「……そうですね。良いじゃないですか、美女が二人」
「JKがいるときに世辞はやめてください!」
 びしっと手を立てて目の前に出され、俺は苦く笑う。
 あまり人の美醜にこだわるほうではないが、梓はこのあたりでは有名なポアロの看板娘だ。美女と称しても問題ないだろう。クッキリとした目鼻立ち、少し強気そうな顔をしているものの、上向きの口角と華奢な肩。彼女目当ての男性客も多く、それほど謙遜することもないが――。まあ、そういったことに気づかない根っからの天然さも、恐らく彼女の魅力だろう。

 俺は、窓際の客のもとにパフェを運ぶ後ろ姿に目を遣る。
 確かに、高槻は最近目に見えて男性からの人気が高くなった。梓とはまた少し異なった雰囲気に、先ほどのような強気な男が多いような気がする。ちょうど、ここ一週間くらいのことだろうか。なかなかシフトが被らないので、気づいたのはつい一昨日のことだったが。

 梓は「最近美人になった」と言うが、そうではない。
 第一、高槻はもとより顔のパーツ自体整っているほうだ。確かにパーツごとには小ぶりで、悪い言い方をすれば地味とも取れたかもしれないが、目鼻立ちがキチンとあるべき場所に置かれているような整い方をしていた。
 ならば何が変わったかと言われると、よく笑うようになった。
 今までもふとした拍子にふわっと、そよ風が通るような笑みを浮かべる子だった。しかし、その笑顔が少し明るくなった。微笑むような笑い方が、歯を見せて口を大きくして笑うようになった。敢えて下世話な言い方をするなら、愛嬌がでた。

 ――何があったのかは、分からない。
 ただのバイト仲間が知る必要はないだろう。自信がついたのか、吹っ切れたのか――どことなく、そういった雰囲気だ。そして、もう一つ。

「百花ちゃん、可愛くなったねー。好きな人でもできた?」
「えっ……と、そういうわけでは……」

 苦笑して首を振る彼女の、耳の、目じりの赤いことといったら。
 恋をすると女は変わるだなんて迷信があるが、あながち間違いでもないのかもしれない。健康的な肌の色だが、朱が差すとピンクがかった肌は対照的に白く見える。その様子を見ていたら、ますます腹立たしく思えてきた。何しろ、相手が相手である。

 その苛立ちを消化するついでに、ニヤニヤとした笑みに揶揄われた高槻の肩を軽く引く。驚いたように、長いまつげの隙間から控えめな目つきがこちらを見上げる。
「お、まさか職場結婚か!」
「そうだったら良かったんですがね……さ、仕事中なのでお借りします」
 触れた先から、彼女が欠かさずにトレーニングしていることが伝わる。決して華奢とは言えないが、しっかりとバランス良く鍛えているようだ。内心、彼女の努力に感心しながら、その背を軽く促す。

「すみません、仕事溜まってました?」
「……いえ。こちらこそ勝手なことをしました」
「ちょっとだけ、帰れなくて困ってたので……ありがとうございます」
 
 眉がへにゃりと下がって、高槻は笑った。
 俺はその笑みに軽く首を振り、時計を見る。シフトの終了を告げる分針に、フロアを見渡した。仕込みはしたし、洗い物は梓がしている。注文も、今のままなら滞りはないだろう。たかがバイトなのだから、と思うが、キッチリとしないと気が済まないのは最早性分だ。

 軽くて荷物を纏めて、エプロンをロッカーに仕舞う。梓と高槻に向かって「お先です」と頭を下げれば、彼女たちも和やかに挨拶を返した。背を向けた時に、ぱしっと服を掴まれる感覚があった。はて、と振り向くと、高槻がセーターを摘まむようにしている。

「安室さん、忘れ物です」

 にかっと、明るくなった笑みがスマートフォンを差し出した。礼を述べて、今度こそ踵を返す。

 駐車場へと歩きながら、スマートフォンを仕舞ったポケットを軽く叩き、息をつく。――俺としたことが、まさか携帯を忘れるとは。しかも、こちら側の。危なかったな、と独り言ちていると、ちょうどバイブの振動を感じた。

「はい、こちらバーボン」
『Hi,Bourbon. 例のあの子……あなたの言う通り、もう死んでるみたいね』
「おや。ようやく信じてくれましたか」
『ミチシロから連絡があったわ。それで裏も取れたってわけ』

 通話用のイヤフォンをつけながら、俺はぴくりと眉を動かした。
 ミチシロとは、ベルモットが探し回っていた研究員の一人だ。なんでも、極秘の薬に抗体を持った子を連れ出したのだとか。気にかかるのは、上には逃げた組織の一員を追うとしか報告していないこと。秘密の多い女ではあるが、知られたくないことがあるのだろうか。

 しかし、数年間音信不通であった研究員が、今になって――。その疑問に答えるように、ふと近頃吹っ切れたような笑みを浮かべる彼女のことを思い出した。何か、あったのだろうか。そう考えながら、軽く口角を持ち上げる。

「貴女の憂いが晴れたなら何より。それにしても、たかが小娘一人に随分な執着だ」
『たかが小娘に滅ぼされた国もあるってことよ。ああ、あのPrincessによろしく』

 ぶつ、と通信が途切れる音。散々こき使ったくせに、こちらからの詮索には耳も貸さないとは。分かってはいるが横暴なものだ。

 まあ、高槻から興味が逸れたのなら良かった。
 彼女がミチシロの連れ出した子と幼馴染であったのは、本当にただの偶然だが――。こちらとしても、罪もない一般人を巻き込むつもりはない。

 高槻のことを気に掛けているのには自覚がある。
 時折梓が鋭いようなことを言うが、まったくもってその通りだ。つい、高槻の行動には目が向いてしまうし、危うい姿を見かけると安室らしくなく、髪をグシャグシャに掻き乱したくなる。
 恋愛感情があるわけじゃあない。
 確かに魅力的な人だが、そういう目で見たことはなかった。たぶん、向こうも俺のことをそういった風には見ていない。
 ならば何故かと問われると、彼女の生きることに対しての不器用さを、昔の自分に重ねてしまうからだ。我ながら自信家ではあるし、性格は似ても似つかないのだけれど。真っすぐに生きようとする素直さを、自分の夢に葛藤する青臭さを――。いつかの俺と、ヒロの姿に重ねてしまうからだ。

「……ふぅ」

 俺は一つため息をついた。
 願わくば、彼女の未来が明るくあるよう。唯一無二の人を亡くした時、前を向くことが如何に難しいかを知っている。笑う彼女の姿を見ていると、過去の自分を救われたような錯覚に陥る。
「なんであんな奴の恋路を応援しないといけないんだか」
 ぽつんと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく車の中に落ちていった。
 肩を軽く回すと、こきこき、と音が鳴る。愛車のハンドルを握った。いっそのこと、彼女が泣いて出勤してきたら、遠慮なくストレートでもかましてやるものを。一方的に芽生えた親心(――兄心か?)に自分自身で苦笑を零した。

 さあ、仕事の時間だ。