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「――おばさん!」

 道城の姿を見つけたのは、もう日もだいぶ傾き、空のまばらな雲が目立つようになったころだった。彼女は、泣いていた。ユキの墓の前で、たぶん、ずっと泣いていた。私の姿をその視線の中にいれると、彼女はへたりこんだ頭を何度も下げた。
 私は、カバンから取り出したユキのコラムブックを、彼女に見せた。それがユキの願いなのだから。道城が直接見て取れるようにしなかったのは、きっとユキのなかでも、彼女への想いは複雑だったのかもしれない。
 その暗号と、彼女の想いを伝えると、道城はこれ以上零れないだろうというまで零れていた涙の粒を大きくした。ユキによく似た瞳が、瞬くたびに大粒の雫を押し出していく。血は繋がっていないと分かっても、やはり似ていた。

 ユキが彼女を恨んでいないというならば、私から何か言うのは門違いだ。
 だって、私は彼女の告白がなければ、本当の実母と実子だと思っていた。それほどに、彼女たちは親子だった。きっと、実の子と変わりない愛を注いでいたに違いない。

 彼女は最後に、私の首もとに指先を触れた。
 まだ新しいうっ血の痕は、触れられると僅かに痛む。少しだけ、肩が震えた。道城はそれを感じ取ってか、すぐに指を引っ込める。――「ごめんなさい」、彼女は震える声で告げた。


 なんだか、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
 悪いことは悪で、良いことは正義。そうやって割り切れたらどんなに良いことだろうか。悪だけを恨めたのなら、この気持ちも晴れるのかもしれない。
 ただ、道城とユキの関係は、勧善懲悪というわけにはいかない。確かに、道城の犯した罪の重さだけを量れば彼女は悪だった。けれど、ユキにとっての幸せとは――。彼女が捕まって罰を受けることなのだろうか。

 もやもやとする。けれど、これで良かったような気もする。
 帰りの車の中、どうやらそれが表情に出ていたらしい私を見て、沖矢は静かに語りかけた。

「人の答えが一つであるわけはないんです。それで良いと思いますよ」
「……沖矢さんって、本当に見透かしてるみたい」
「まさか。言ったでしょう、見るのではなく観察すると」
「今の、観察関係ありますか」

 つい、クスクスと笑い声を零すと、沖矢も軽く肩を揺らした。車の走行音、遠くで踏切が鳴る音。それを聞いていると、襲い掛かる眠気が瞼を重くした。恥ずかしいことだが、泣き疲れたかもしれない。子どもじゃああるまいし。しかし、こくんと船を漕ぐ頭に目を覚ます――ということを幾度と繰り返しているのを、たぶん沖矢もすでに気づいていた。

「どうぞ、おやすみ」

 私の意識が遠くなる寸前に、遠くでそう囁いた声が聞こえたような気がする。優しく、語り掛けるような口調だった。





 重たい瞼を持ち上げる。周囲はすっかり暗さを深くしていて、暗闇に視界が慣れ始めた頃、ようやく沖矢の車で寝こけてしまったことを思い出す。――しまった、イビキとかかいてなかったかな。ぱっと体を起こそうとしたら、足元にジャケットが落ちる。沖矢が今日一日、羽織っていたものだ。
 運転席を一瞥すると、どうやら沖矢も穏やかに寝息をたてているようだった。ジャケットをなくしたニットは、彼の広い肩のラインをよく浮きだたせている。
 足元に落ちたジャケットを拾い、そっと手繰り寄せた。私が寝ていたのを見て、掛けてくれたのだろうか。彼の匂いが鼻をくすぐって、今日一日、変動し続けた心が落ち着いていくのが分かる。彼の枕やシーツより、出掛ける時に羽織る所為か香水の匂いが強い。率直に、良い匂いだ。

「……へへ」

 私は零れる笑みを隠しもせず、もう一度口元までそれを被った。温かい。
 最初は遠慮したけれど、沖矢と一緒に行って良かったと心から思う。彼がいなければ、きっと辿り着けなかっただろうことが沢山ある。もしかしたら、最初道城と別れた後、感情のままに彼女を追っていたかもしれない。

 沖矢はそう呼ばれるのを罪悪感があると言うが、やっぱり私の心のなかでは、彼は私のヒーローだった。だからこそ、彼を守ろう。私にできることがあるのなら、支えになろう。ヒーローと呼ばれる人たちが、ユキのような人たちが――助けを求めたときに、応える人がいる世界でいよう。

 まだ残る温もりを抱き寄せて、私はゆっくりと瞼を閉じる。
 もう少しくらい、一緒にいても罰は当たらないだろうか。私の体温が移った助手席のシートに体を委ねた。


「――……フ」


 耳を擽った、ほんの小さな囁きだった。
 私は思わずジャケットを剥ぎ取り、体を勢いよく起こす。さすがに何度も聞いていたから、馴染みがある。今のは間違いなく沖矢の声だった。鼻から吐息と共に抜けるような声。私が沖矢のほうを向くと、顔を車窓のほうに向けたその口元が、わずかに持ち上がる。
 ――お、起きてる!
 愕然として、私は顔を熱くした。彼は私の様子を見てもいないのに、感じ取ったようにクックック、と体を揺らす。

「失礼、あんまりに気持ちよさそうで……」

 そう笑う沖矢に、慌ててジャケットを突き返す。「ありがとうございました!」なんて、やや粗雑な礼を咎めることもなく、彼も「はい」とにこやかに頷いた。彼の匂いは、どこか浮世離れした彼を現実に留めるような気がして、鼻を掠めると、思わず嗅いでしまう。――それはどこの変態の台詞だ。私は自分の思考にツッコミを入れた。

「合格のお祝いはまた今度にしましょうか」
「……そう、ですね。もう暗いですし」
「おや、残念がってはくれない?」

 その色素の薄い瞳が、片方だけパチンと覗いた。私は少しだけ心臓が跳ねたのを隠すように、「もちろん残念ですよ」と、いつもより少し素っ気なく返事をしてしまった。
「なら、今夜にでも」
 沖矢は冗談めかして笑う。私はそれにあははと空笑いを返した。本心は、それはもう落ち込んでいる。仕方のないことだが、何せそのひと時を楽しみにバイトをしていたのだから。

 ちょうどその時、携帯が通知音を報せた。
 どうやら、連絡は道城からだ。たった一言のメッセージは、携帯の通知欄に浮かんでいる。「ごめんなさい。ありがとう」――それだけ。これから彼女はどうするのだろうか。それは、彼女の心次第だ。
 自首するのも、このまま暮らすのも、元の研究員に戻るのも。ただ、ユキの想いと、彼女と過ごした日々が、少しでも残ってくれればと心から願う。

 私が携帯を見て、僅かに頬を緩ませていると、沖矢も目の前で少し口角を上げた。それが、嬉しかった。その表情を見ていると、私のしていることを、彼が認めてくれているような気がする。

「さあ、今日はもう遅い。気を付けて帰りなさい」
「あはは、家ここですもん」
「家に帰ったら、首をしっかり冷やして。跡が残っては大変だ」

 喉は枯れていないから、内側は大丈夫でしょうけど、と沖矢は付け足す。私はその言葉に頷いて、助手席の扉を開けた。少々、名残惜しい。
 車を降りて、軽く会釈をすると、沖矢も同じように少し目を伏せ頭を下げた。次に会うのは、来週の木曜日だ。彼が会いに来ても良いと言ってくれたのだから、言葉に甘えよう。
「おやすみなさい」
 にこりと笑うと、彼も僅かに笑った。
 エンジンの音が遠ざかっていくのを、私はマンションのエントラスから見送る。丸っこい車のフォルムが見えなくなってから、ようやく踵を返した。

 ――ユキに言ったら、どう思うかなあ。
 彼女が、私の恋愛に賛同したことはあまりない。というのも私は殆ど押しに弱いタイプで、良く言えば尽くす人間だった。悪く言えば、使いっ走りなのだ。『あんなの、信じらんない! DVよ、DV』と自分のことのように憤っていた姿を思い出す。
 沖矢だったら、もしかしたら、ユキも気に入るかもしれない。ミステリー好きだし、今度会いに行ったら、そのことも報告してみようか。

 部屋に戻ると、沖矢に言われた通りまずは首の跡を冷やそうと思った。冷やすには遅くなってしまったから、痣にはなるだろうけど。首の内側に違和感や痛みはないから、見た目ほどは大したことがないのかもしれない。

 濡れタオルで首を冷やそうとしたとき、首元に少し違和感があった。
 今日はバイトがあったので、ベージュのプルオーバーパーカーだ。そのフードの上あたりに、何か擦れるような感覚がある。試しに指で触れてみると、冷たかった。私は思わずそれを辿るように指でなぞる。鎖骨の間あたりに、固い無機質なものがある。


 ばたばたと洗面台に向かった。
 少し水垢のついた鏡を覗く。パーカーの内側に――煌めくラインがあった。ピンクゴールドの、華奢なチェーン。トップ部分には、小さく細やかなオパールがチラチラと光った。

『なら、今夜にでも』

 私はその言葉の意図に気づいた瞬間、やられた! と思った。ペンダントトップを握りしめて、悔しそうにする鏡の中の自分の顔は、真っ赤に染まっている。