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 ふう、と白い息を浮かべる。マフラーを引き寄せて、駆け足で舎内に入った。警察学校の面接試験まであと少しというところだが、生憎今日は大学の講義が入っている。テストがないのは助かるものの、日々の出席が大きな講義であるから、最後まで真面目に通うしかないのだ。

「バイト何時からだっけ……」

 すいっとスマートフォンの画面に指を滑らせて、予定を確認している時、どさっと隣の座席に荷物を置く気配があった。てっきり、構内の友人かと思って視線を上げたが、視界に入ったのは見知らぬ青年であった。私はぱっと顔を伏せて「すみません」と焦る。体の大きな、少々ぶっきらぼうな青年だ。同級生だろうか。彼は軽く首を振ってから隣に腰を下ろした。
 まあ、別に友人の席を取っていたわけでもないので、何となしに席を横にズラした。だって、初対面の人と真隣の席だと少し気まずく思えたのだ。だけれど、彼は私がズラした分こちらに詰めてきて、私はつい眉を顰めて青年を見上げてしまった。

「あ、いや、すんません……」

 は、と不器用そうな一重が私を捉えた。なんというか、今まで関わったことのないタイプの青年で、見た目は体育会系をそのまま形にしたようだった。ニット帽を取ると、ちくちくとした単発の頭が晒される。もっさりとしたダウンを脱ぐと、白いTシャツが――Tシャツ! 私はそれに目を剥いて、それからプっと噴き出してしまった。


「ふふ、あはは……すみません……あははっ!」


 この季節に、ダウンの下に半そでのTシャツ!
 いや、分かっている。何を着ようが彼の自由である。そんなことは重々分かっているのだが、どうにもツボに入ってしまって、それから暫く笑い転げてしまった。カラカラと笑い声が響いて、ようやくのこと収まると、ぶっきらぼうな顔は少しだけ眉を和らげていた。彼は少しだけ恥ずかしそうにして荷物を広げると、気恥ずかしそうに「高槻さん?」と呼びかけた。

「……ごめんなさい、知り合いだっけ?」
「いや、その……ポアロでバイトしてるだろ。オレ、搬入のバイトしてっから……」
「そうなんだ。ごめん、業者さんって帽子被ってるから顔が分かってなくて」
「別に」

 彼はそう無愛想な声色で言ったものの、表情は小さく笑みを描いていた。あまり馴染みのないタイプの男だったけれど、見た目に反して案外素直な物言いに、悪い印象はなかった。隣になったからにはその後も何となく会話を続けていると、何と彼も警察学校を受けている最中というではないか。その一言で、すっかり警戒心が解けてしまい、講義が始まるまで彼と話を続けていた。

 青年は杉本と名乗った。絵に描いたような実直な男で、だけど案外頑固ではなく、話しやすい。大きなバックパックを持っていたのに、その中に講義用の教科書もルーズリーフもレジュメも筆記用具すら入っておらず、立ち尽くした様子に更に笑ってしまった。私は笑いながら、彼にルーズリーフと教科書のコピー、ボールペンを貸した。彼は申し訳なさそうにしながら、私の細く華奢なデザインのボールペンを無骨な手で使っていた。


 講義が終わり、出欠表代わりの簡易レポートを提出しにいこうと席を立った時、携帯が鳴った。荷物を纏めながら電話に出ると、梓からだ。電話の向こうではガヤガヤとざわめきが聞こえる。どうやら店内からかけているようだった。

「どうかしましたか?」
『ごっめん! 実はおつりがなくなっちゃって、お店私しかいないから銀行に行ってくれる人探してるんだけど……安室さんは忙しいみたいで電話でなくって』
「うわぁ、カフェタイムですもんね。私走って両替してきます! そのまま行きますから」
『本当? ありがとう〜。気を付けて来てね』

 はい、と返事をすると、私はさっさと荷物を詰めてマフラーを巻きなおし、プリントを籠の中にひらっと入れてから、構内を走った。道場とランニングのおかげで、体力はだいぶついている。冬の空気は走ると冷たかったけれど、澄んでいてどこか心地よい。はっはと、浮かぶ白い息もどこか小気味良く、嫌な気持ちはしなかった。






「すみません、じゃあお先に失礼します」
「はーい。今日はありがとう。お疲れ様〜」

 店内の清掃を済ませると、私は鞄を持って店を後にしようとした。ちょうどそのとき、白い息が目の前を染める。きょとんとして、ハアハアと息を切らす大きな体を見下げた。紛れもなく、今日の昼会ったばかりの青年だった。「杉本くん?」私が驚いて首を傾げると、彼は此方に向かってずいっと何かを差し出す。


「……ボールペン」


 私が貸したボールペンだ。呟けば、彼はこくりと深く頷いた。
「ごめ、ん。高槻さん、この曜日しか講義でなかったから……」
「知ってたの?」
「……まあ」
 ありがとうとボールペンを受け取ると、彼はぼりぼりと項を掻いて、ポアロの看板を一瞥した。

「今日は、上がり?」
「うん。今から帰るところ……」
「そ……」

 そのあと微妙な間があった。彼ももう用は済んだはずなのに、引き際が分からなくなったのか足を前にも後ろにも踏み出さないし、私も彼が完全に帰路を塞ぐ形になっていて立ち竦んでしまっていた。えっと、とボールペンを握りしめたまま無愛想な表情を見上げた時、体がふっと後ろへ引かれた。

 よく馴染んだ香りが鼻を擽る。知っている、煙草の匂い。
 
「バイト上がりですか? 車はありませんが、良ければ送ります」
「沖矢さん! こっちのほう来るの珍しいですね」

 背後に立つ沖矢を、ほぼ仰ぎ見る形で見上げた。大きな手が私の肩を支えている。こうして見ると、沖矢は本当に体格が良いのだと思う。杉本と比べても、身長はトントンといった所だが、その肩幅や身の厚さは寧ろ沖矢のほうが勝っているかもしれない。

 正直に言うと彼に惚れているものだから、そんな些細なことにすら胸がキュンと締め付けられているわけだが――何とか表情に出さないよう堪えながら、私は杉本に向き直った。

「ボールペンありがとう。また来週」

 そう告げて、私はくるっと踵を返す。私の後に少し遅れて、沖矢の大きな革靴の音がついてきた。それがどうしようもなく嬉しい。沖矢はコツコツとゆったりした歩調で歩くが、私と歩く速さはほぼ変わらない。私は彼の姿を見て思い出して、慌てて首元をなぞった。


「そうだ。ペンダントありがとうございます……その、すごく嬉しいです」


 彼の髪色を思わせる、ピンクゴールドのチェーンが首元に下がっている。彼からの合格祝い(――ちなみに、一次試験――)だとは分かっていたが、安くはないだろうことは誰が見てもそうだろう。嬉しい。ものすごく嬉しいし、何ならあれから肌身離さずつけているほど大切にしていたが、少々申し訳なさもあった。大学院生って、そんなにお金を持っているものなのだろうか。普段バイトをしている様子もないので、それが尚更気がかりだ。

「いえ、僕の気持ちですから。……それに――」

 沖矢の足音が止まる。私はそれに気づいて振り返った。私のマンションの、二本前の路地。彼はするっと私の首元のマフラーを外した。冷たい外気が肌に触れる。ふと、大人っぽい沖矢の表情が微笑んだ。


「よく似合うと思ったのでね」


 彼の見た目の割には節くれだった人差し指が、私の鎖骨あたりからするりとペンダントチェーンと首の間に差し込まれる。冷たく乾燥した指の感触。彼は人差し指を、クイっと曲げるようにしてそれを軽く引っ張った。自然と私の体も、少し前のめりになる。
 ゆっくりと、沖矢はペンダントトップに唇を落とした。薄く開いた色素の薄い瞳が、ちらりと私のことを見上げる。悪戯っぽく、片側の口角が持ち上がった。


「……あ、え……っと、あのっ……!」


 ぶわっと血の気が全て首から上に昇っていくのがよく分かる。耳から、首から、鼻先から、全部が熱かった。今すぐに走ってマンションまで行きたかったけれど、ペンダントトップを引く指先が人質のようになっていて、視線だけをウロチョロさせるしかなかった。沖矢は、意地悪そうに喉を軽く鳴らす。――嬉しいと恥ずかしいを天秤に掛けて、完全に羞恥心に傾いた心は、火が灯ったように熱くドロドロに溶けている。