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――あの日を境に、思うことがある。
 あの日≠ニは、沖矢が私にある誓いをたてた日であり、私が沖矢にある誓いをたてた日だ。私は、沖矢のヒーローになることを。沖矢は――。


『でも、誓おう。君が僕の前にヒーローとして立つ限り、君の背中を守ると。そして、もしすべてが白日のもとに晒されたとき――もう一度、君とはじめよう』

 そう、誓ってくれた日。本当に綺麗な笑みを浮かべてくれたことを、鮮明に思い出せる。美しい翡翠の瞳には優しさが滲み、口角がゆるっと自然に微笑んだ。少しだけ気恥ずかしさを含んだような、大人びた微笑み。

 嬉しかったし、私もその時から初めて、彼の背を追うのではなく対等に立てているような気になったのだ。心なしか、その日から彼も私との距離が縮んだ気がする。それは精神的にも――身体的にも。

 そう、距離が近い。最初は勘違いかと思ったのだが、近頃ようやく確信した。いや、そもそもキスをしたじゃないかと言われればそうなのだけど。私はついっと目の前にあるグリーンアイから目を逸らした。

「……あの、近いです……」

 ――とは言っても、ここまで露骨ではなかった!
 もしかして私のことを少しくらい、大切に想ってくれていれば良いなあと、そう思っていたのだけど。私は目の前にある端正な顔立ちから逃げるように私との間に面接練習用の下書きを挟んだ。そもそもどうして、ソファの隣に腰かけているのだろうか。いつもだったら、目の前にテーブルを挟んで向かい側に座るのに。
「ああ、すみません。ちょっと観たいテレビがありまして……」
「さっきから全然観てないじゃないですか。日本負けてますよ」
 目の前で繰り広げられるアメフトの試合は、とっくに盛り上げ所を過ぎ去っており、沖矢はわざとらしく「おや」と残念がった。

 言っておくが、私は沖矢のことが好きだ。人として、尊敬できる大切な相手として、恋愛として。彼のことを好きである自覚がある。だからプレゼントなんてされれば浮かれてしまうし、近い距離を詰められていることに嫌気が差しているわけではないのだ。

 ただ、彼が何を考えてこうなっているかが読めないし、ひたすらに恥ずかしい。こんなことならもっとベースメイク整えてこれば良かった。毛穴とか目立ってないかな。
 自己PRの原稿を見直すフリをして、ちらっと隣にいる沖矢の姿を見上げた。私に指摘されて、ようやく目の前の試合に目を向けたらしく、彼は興味深そうに日本が劣勢の中継試合をまじまじと眺めていた。

「……あ」

 私もふと中継に目を向けたとき、見覚えのある姿が映った。客席の、割かし前方に、つい先日知り合ったばかりの青年が映っている。熱狂的というわけではなさそうだったが、拳を握って応援する姿が一瞬テレビカメラに切り取られていた。「杉本くんだ」と呟くと、沖矢がはたと視線をこちらに向ける。

「先日の。ご学友でしょうか」
「知り合ったばっかりなんですけどね。あれ、ここ関係者席ですよね」
「ほら、彼じゃないでしょうか。杉本選手、アメフトの日本選抜メンバーですよ」

 彼が人差し指を画面の中の、一際体の大きな選手へ向けた。メットで顔は見えないが、確かにテレビ画面には杉本、と表示されていた。成程、体つきがしっかりしているのは血筋もあるのか。
 意外な同級生の一面に、紅茶を口にしながら画面を眺めていた。我ながら、中々美味しく淹れれたと思う。有希子が買ってきてくれたフォートナム&メイソンのものだ。

「てっきり、百花さんがナンパでもされて困っているのかと」

 急に突拍子もないことを言われて、私は折角の紅茶を少しカップに吐き戻してしまった。
「ナ、ナンパ? 私が……!?」
 口の端を拭いながら聞き返すと、沖矢は多分私の驚いた表情を見てフっと可笑しそうに笑う。大きな手のひらで口元を押さえながら、クククと喉を鳴らした。

「ええ、勿論。間違っていましたか?」
「全然違います! 本当に……」

 強く否定してから、自分が大きな声を出してしまったことに恥じて、もう一度小さく「違いますから」と否定した。
「すみません。少し揶揄いすぎました」
「あ、いえ……。だ、だから近いです」
 レンズの奥で、ちらりと色素の薄い虹彩が煌めく。私がさっと顔を逸らしたら、流れた髪を器用に耳に掛けていく。私の物よりずっと大きな指先が、耳の縁を掠めた。冷たい。その冷たい体温に、尚更ドキドキとしてしまう。

 でも、この想いを彼に伝えることはタブーのように思えた。
 どうしてそう考えるのかは、分からない。私が夢半ばだからだろうか。もっと、彼のことを知りたいと思っているからだろうか。この気持ちを溢れさせてしまったら、折角近づいた距離が離れてしまうのではと危惧していた。

 私がぎゅっと肩を縮こまらせて膝を見つめていると、体温が離れていく。添えられた体温がなくなって、それに吊られるように彼のほうを振り向くと、振り向いた頬に手のひらが触れた。顔をくっと引き上げられて、唇に体温がじわりと広がる。

 眼鏡のフレームが、私の鼻頭に当たってカチャリとずれた。その感触に薄っすらと目を開けると、何故だか彼の方がそれを鬱陶しそうに眉間に浅く皺を刻んでいる。
 彼も薄く瞼を持ち上げて、視線が合ってしまった。頬が熱くなる。その瞳が意地悪そうに、少しだけ微笑んだ。

 少しだけ唇が離れる。動かせばチョンっと触れてしまうような距離で、沖矢は小さく笑いを零して囁いた。
「……目を開けるのは、マナー違反ですよ」
「……ご、ごめんなさい」
 私も同じように声色を小さくして謝ったら、沖矢は再び笑いながら、もう一度唇を重ねた。それからもう一度、もう一度とキスをしたけれど、互いに好きだとは言わなかった。何となく、彼がそう告げない理由は分かるような気がする。それでも良いと思えてしまうほど、私の胸は彼への好意で満ちていた。

 ようやく彼が立ち上がったとき、私の顔はすっかり茹でられたように赤くなっていたと思う。口の中に広がった苦みが、確かに彼の唇と触れていたことを実感させる。

「紅茶、おかわりは?」
「沖矢さんが淹れるんですか」
「……いけませんか」

 いけないことはないけれど、私はソファから立ち上がる。「私も手伝います」と声を掛けたら、沖矢は「是非」と穏やかに笑う。彼が淹れると、有名ブランドの紅茶も形無しで、紅茶色のお湯が出来上がってしまう。そんな紅茶も、私は好きだけれど、少しだけ茶葉を贈ってくれた家主に申し訳ない。

「茶葉入れすぎですよ」
「味が濃いほうが好きで」
「別に葉っぱ多くなくても大丈夫ですから……。コーヒーにしましょうか?」

 紅茶、あんまり好きじゃないのに。
 私のものを淹れるついでだと思ったのだろうが、苦笑いしながらカップを受け取ると、沖矢は軽く肩を竦めてキッチンの壁に背を凭れさせた。私が目を丸くしてその様子を振り返ったら、彼は可笑しそうに笑いながら私を見守る。

「いえ、キッチンでは君のほうが上ですね」
「――じゃあ、言うこと聞いてくれます?」
「おやおや……。良いですよ。どちらまで運びますか、レディ」

 すっと本物の執事みたいに腰を折った姿に、私もまた声を上げて笑った。しかしながら、その様が中々に格好良く見えてしまうのは彼のスタイルの賜物である。私の分の紅茶と、彼の分のコーヒーをロボットのようにトレイを持ったまま立ち尽くす彼に渡せば、彼はゆっくりと私の歩調に合わせて歩みを進めた。

 好きだなあ。そんな一歩さえ、香りさえ、彼のことを好きだと思わされる。できたらずっと、こんな時間が続けば良いと――そんなことさえ考えるのだ。