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 私は、工藤邸の前に立ち竦んでいた――。
 手には二枚のチケットが握りしめられている。近頃沖矢が優しいのを良いことに、彼も楽しめそうなミステリーものの邦画の前売りを買ってしまった。選んでいる時も買った時も割かし浮かれてポヤポヤとした思考で済んでいたのに、いざ誘おうとした家を目前に怖気づいてしまった。

 私の頭の中で、二つの思考が競り合っている。
 一つは、最近は確かに良い雰囲気だし大丈夫だと励ますプラス思考。
 一つは、彼は大人の男性なのでもしかしたらそんなつもりはないのでは――なんて勘繰ってしまうマイナス思考。いや、けれど彼はそんな風に人の想いを振り回すような男ではないはずだ。最初に会ったときも、私に勘違いさせないようにと言っていた。そう思いながらも、生まれてこの方こんな風に自分から追いかけようとする恋愛をしたことがなくてついつい自信が挫けてしまうのだ。

 うろうろと大きな門扉の前を彷徨っていると、「あの」と背後から声が掛かった。私は絵に描いたようにビクっと肩を大きく跳ねさせて振り返る。ぴらっと、前売り券が目の前に差し出されていた。間違いなく私が持っていたものだ。慌てて手元を見下ろせば、チケットが一枚しかないではないか。

「わっ、す、すみません……」
「いえいえ。たまたま通りかかっただけなんで……」

 ひらひらっと手を振った青年に、私は目いっぱい頭を下げた。この辺りでは学ランの学校をあまり見ないので、珍しいなと思う。悪戯っぽい目つきと、ふわっと寝ぐせのような癖毛が目につく。

「お姉さん、ここの家の人?」
「あ、ううん。ちょっと用事があって……」
「デートのお誘いならやめといたほうが良いぜ」

 青年はちらっとチケットを一瞥して、欠伸を零しながら大きな屋敷を見上げた。私ははてと首を傾げる。もしかして、沖矢の知り合いなのだろうか。「どうして」とチケットを受け取りながら理由を尋ねると、彼はその癖毛をガシガシと掻いて「どうしてって」と口籠る。

「そりゃあ、だってよぉ……」

 ぽり、とまだあどけないような表情が口元をひん曲げた。それから、何かを誤魔化すようにヘラっと笑う。

「あんな推理オタク、良いことなんてないぜ。綺麗な人だし他を当たった方が……」
「私は、そういうところも知的で好きだけど……」
「ち、知的ね」

 彼は苦笑いを浮かべてから、ハァと大きくため息をついて、こちらにヒソリと口を寄せた。ひそひそとこそばゆい声が耳元で囁く。

「女がいんだよ。女」
「女……」
「そう。だから止めといたほうが……って」

 ぱちんと丸くした瞳から、ぽろっと涙が零れた。それは決して「騙したな」とか、そういう想いで流れたわけではない。正直、彼に大切な人がいたことは知っていた。それが未だに忘れられないことだって、余程愛していたことだって、何となく分かっている。
 その理解はできていたのだが、改めて聞いてしまって感情だけが先走った。自分でも気づかないうちに零れた涙が、たった一粒頬を伝って、青年はギョっとして私を見つめた。

 そのあと何度も謝ってくれた。やっぱり勘違いだったかもとか、いやでも心変わりもあるかもだとか。その言葉の全てが心の篭っていない上辺だけであることが伝わるのは、目の前の彼が優しい青年である証拠だろう。私も涙が零れたのはその一粒だけで、それを拭って必死に首を振った。「大丈夫だから」と笑うけれど、どうやら心根の優しい青年はそれだけでは引き下がれなかったらしい。

「それ、貸してみ」

 彼は私のチケットを指さす。握りしめたまま固まった私に、彼は「良いから」と促した。されるがままにチケットを二枚とも手渡すと、ビリっと空を割くような音がした。私は慌ててその手を止めようとしたが、紙ぺらは真っ二つになってはらりとアスファルトへ舞っていく。
「な……」
 はらっと地面に落ちていく前売り券を、衝撃のまま見つめていた。確かにやめといたほうが――なんて忠告されたばかりだが、そこまでしなくても。なんだか、私の心まで破かれたような気持ちだ。いや、正直、ここでウジウジしていた自分が悪いのだと、諦めるような想いすら湧いた。

 彼は破り去った紙くずを丁寧に手のひらに乗せる。そしてもう片手の中指を親指をぴったりとくっつけて、パチっと弾いた。音が、三度鳴る。

「ワン、ツー、スリー」

 スリー、のタイミングで三度目の指が鳴らされて、トンっとチケットが乗った手のひらを指した。

「……あれ、チケット」
「ご覧あれ」

 手のひらのチケットは、いつのまにか破れ目をなくしていた。それどころか、私が握っていた皺まで綺麗にピンと伸びている。――何、どういうこと。パチパチと目を何度も瞬いていたら、そのチケットを差し出される。ご覧あれという言葉通り、そのチケットを受け取ろうとしたら、ポンっと小さい煙と共に目の前に小さな花が咲いた。

「わっ……」
「種も仕掛けもございませ〜ん」
「あ、ありがとう!!」

 小さな紫の花が添えられたチケットを改めて受け取ると、彼はむず痒そうに、しかしニヒっと悪戯っぽく笑った。

「こっちこそ悪かったよ。見ず知らずのお姉さんに妙なこと言って」
「ううん……ありがとう。なんかこれ見てたら勇気出てきたかも」

 どうせあのまま門の前に立ち尽くしていただけでは、事は進まなかったのだ。彼が(どうやってかは知らないが――)飾ってくれたチケットは、不思議と私の背を押した。私はそれをそっと胸に抱いて、目の前の青年に笑いかけた。

「私は大丈夫。本当にありがとう」

 もう一度頭を深く下げ、私はくるりと大きな門扉へ踵を返した。インターフォンに指を当てる。恐る恐るとそれを押すと、馴染んだ声色が「はい」と尋ね返した。「高槻ですけど」、名乗れば、ややあって玄関が開く。

「……ン?」

 背後の青年が、何やら呟いたような気もするが、今はそんなことは良いのだ。私はすたすたと沖矢の元までそのチケットを持って歩み寄る。ストライプのシャツが、スタイルの良さを際立たせる。

 私はもじもじとする気持ちを叱咤して、彼に前売り券を差し出した。レンズの奥で、彼視線を落とす。


「……あの、もう一回! 映画……行きませんか?」


 それは、彼と初めて行った映画とは何もかも違う。
 私が誘っているのは、決して何かのお礼だとかそういう建前ではない。私と彼はもう初対面でもない。それに、私は彼のことが好きだ。好きだから、振り向いてほしいと願ったうえで誘っているのだ。

 だからこそ、怖かった。もしかして騙されているのかもなんて、迷ってしまった。花が僅かに香った。そんなわけないのに、と私は小さく微笑んだ。沖矢は言ってくれたじゃないか。これから先どれだけ嘘をついても、隠しごとをしても――。私の背を支えてくれていると。その誠実さを騙しているだなんて、そんな言い草に辿り着いた自分が嫌になる。

「良かったら、私と、二人で」

 恥ずかしさに、少しだけ負けそうになるのを堪えて、私は彼の顔をそっと見上げた。沖矢は少しだけ間を置いて、いつものように口元に笑みを湛える。

「ミステリーものは、不得手と言っていませんでしたか?」
「……まあ、どちらかというとっていうだけであって……。その、ちょっと眠くはなりますけど……」
「く、クク……。喜んで、百花さん」

 彼は口元を押さえて顔を背けながら頷いた。ひとしきり笑ったかと思えば、その洋館の扉を大きく開ける。

「良かったら、上がっていきますか?」

 手招かれるまま、私は大きく頷いて彼の元へ駆け寄った。沖矢はさも挨拶かのように、頬に小さく口づけを落とす。思わず「ヒッ」と息を呑んでしまい、沖矢は殊更可笑しそうに笑ったのだ。