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 今日は、以前のように妙な気を遣うことはない。気合ばっちり、百パーセント彼に褒めてもらいたいという気持ちで服を選び化粧をした。昨日は少し高いパックもしたし、沖矢の容姿にはとても及ばないが隣に並んでも恥ずかしくはないはずだ。というか、一番恥ずかしいのは彼にじいと、あの全てを見透かすような視線で見つめられることなのだが。肌の調子も良いし、今日は毛穴も大丈夫のはず――。

 ぺたり。頬を押さえながら鏡の中の自分の姿を見つめた。なるべく大人っぽく、この季節にしてはやや薄めのボルドーのワンピース。普段ならばあまり選ばない色合いではあったが、今日ばかりはその鮮やかな色が勇気を与えてくれるような気がする。
 待ち合わせの時間まであと三十分もあるというのに、忙しなく鏡を見つめたり服の解れを切ったりと部屋の中を往来していた。そんなことで時間が過ぎ去り十五分前。スマートフォンが鳴る。私は慌ててそれを手に取った。

「お、おはようございます!」
『はい、おはようございます。エントランスにいますから、準備ができたら……』
「もう大丈夫です、今から行きますね」

 私は仕上げに、去年ユキから誕生日プレゼントで貰った香水を軽く手首に馴染ませた。私の好きなラベンダーベースの香りだ。煌びやかな瓶を軽くつついて「いってきます」と挨拶をすると、ショートブーツにつま先を通した。


 エントランスに出ると、スマートフォンを片手に沖矢が車へ体を凭れさせているのが見えた。黒いシャツに、グレーのセットアップ。それも、最近の若者が着るようなオーバーサイズのものではなく、きっちりと体のシルエットが窺えるようなジャケットだ。膝を曲げても尚余りある長い脚が、すらりとスマートにパンツを履きこなしていた。

 私は一度首元のペンダントトップを、まじないのように一度撫でてから彼のほうへ駆け寄った。沖矢が、スマートフォンの画面からふとこちらを見上げる。煙草の香りに織り交ざって、ムスクの香りが鼻を擽った。

「すみません、いつもありがとうございます」
「いえ、お気になさらず。映画まで少しありますが、ランチは?」
「ぜ、ぜひ……」

 なんだかいつもの彼とは少し異なる印象に、固くなって応えたら、沖矢が苦笑いを浮かべて助手席の扉を開けた。いつも二十代にしては大人びているとは思っていたが、今日の彼は一段と色っぽく見える。まだ昼間だと言うのに、ふわっと揺れる亜麻色に透ける木漏れ日がイルミネーションに見えるほどだ。

 どぎまぎしながら車に乗り込んだら、彼も運転席へと座り込む。きゅっと手のひらを握ったままの私の頬に、ふと彼の乾いた指先が掠めた。驚いて、反射的に声を零したら沖矢はツン、と軽く私の鼻先に人差し指を落とす。「沖矢さん?」、尋ねながら、寄せられた指が気になって視線を落とす。低い声がクク、と笑った。

「寄り目になってる」
「え、あ!! 今のわざとやりませんでした?」
「どうでしょう……」

 肩を竦めてから、彼は前へ向き直りシートベルトに手を掛ける。沖矢がそう笑うものだから、私もほんのり笑ってしまう。先ほどまでカチコチと固まっていた体の力が、柔く解けるような感覚があった。

「……ふふ」

 小さくほくそ笑むように笑ったら、沖矢がハンドルを持ちながらチラリとこちらを一瞥する。
「何か楽しいことでも?」
「いえ。前映画に行ったときのことを思い出しちゃって……」
「ああ、パンフレットはどうでした」
「すっごく良かったんです。監督の映像美というか、ああそういう考えで撮影してたんだっていうのが伝わって……」
 沖矢があれもこれも興味深そうにうなずくものだから、彼が案内してくれた店につくまでついつい映画の内容を熱弁してしまった。私が我に返って謝ったときには、沖矢は笑いながら「楽しんでもらえたなら何よりだ」と言うだけだった。
 しまったと思った。元々映画が好きということもあって、こういうことは一度語り出すと中々収集がつかなくなってしまう。一応自覚はあるのだけど、自制ができないのだ。ユキもユキで相当ミステリーオタクだったけれど、私もよく彼女に笑われたものである。

「いえ、以前も言ったと思うのですが、僕はそういうのを聞くのが好きなんですよ」

 そう話しながら、彼はシートベルトを外し、煙草を一本取り出した。吸っても良いかと尋ねるように煙草を見せられて、私は「どうぞ」と短く返事をする。煙草、ご飯の前に吸って食欲とかなくなったりしないのだろうか。それともそのお陰で引き締まった体が造れているのか――。

 彼はフィルターを軽く食み、先端に煙を灯すと小さく窓を開けて白い煙を外へ吐き出していく。

「元々、お喋りが得意なほうではなくて……。本当なら一日黙っていても良いくらいです」
「……そうですか? いつもどちらかというと喋るほうって感じがします」
「本来は、ですよ。だから、そうやって楽しそうにしているところを見るほうが性に合っている」

 ――私、そんなに楽しそうだったか。子どもを見守るような台詞は少しネックだったものの、そう言ってくれるのなら良かった。

「……以前話した彼女も、そんな人だった」

 沖矢が、懐かしむようにゆっくりと息を吸い込んで、煙と共に言葉を零していく。――意外だった。つい先日出会った青年の忠告を思い出した。けれど、嫌とは思わなかった。寧ろ、彼自身がそう切り出したことを、少しだけ嬉しくも思う。

「よく、話す人だったんですね」
「ああ。本当によく話す人でした」
「何が好きだったんですか」
「化粧品やら服のブランドやら……僕にはとんと分からないことでも、楽しそうに語っていた。話していることは分からなくても、そういう話を聞くのが好きでした」

 灰皿にまだ長い煙草の先端を擦りつけると、彼はもう一本煙草を取り出した。勿体ない吸い方をするなあ、と他人事のように、頭のどこかで彼を観察していた。

 彼は真新しい煙草の煙を窓の外へとふかし、自嘲気味に笑った。

「なんてことを君に言うなんて……最悪な男でしょうか」

 零れた言葉は疑問形ではなく、私に確かめるような言い草だ。否定はしなかったけれど、私もその髪に触れて小さく笑う。

「……実は、私ね。今沖矢さんが話してくれたことに、嬉しいって思っちゃったんです。貴方が苦しいだろう過去の話をしているのに、喜んでしまったんですよ」

 私はゆっくりとその眼鏡のツルに手を掛けて、表情を隠すような眼鏡を片手に収めた。その眦に、軽く唇を落とす。泣いてなどいなかったけれど――。沖矢が私にそんな話をするのは、心の叫びにも思えたからだった。

「最悪な女でしょう?」

 そう言って笑うと、沖矢の瞼が薄っすらと持ち上がる。日差しを浴びると、その瞳は尚更に透き通って見える。綺麗だった。鼻先へ、頬へ、唇へ、柔らかくキスをした。彼に大丈夫だと伝えたかった。

 彼から離れようとしたら、大きな手が私の指先を掴む。沖矢の高い鼻筋が手の甲にすりっと擦りつき、指先にキスを落とす。赤ん坊の手を握るような、ふわふわとした力加減は擽ったい。

 それから彼と視線を合わせて、二人して同じタイミングで破顔した。

 理由は一つ。私にもよく分かっている。チラリと、目の前にある看板を見遣る。黒い看板には、白の筆で描いたような文字が小じゃれて並んでいた。

「私たち、焼肉屋の前で何やってるんでしょう……?」
「まだ高級店であったことを誇るべきでは」
「チェーンでも高級店でも一緒ですよ! だって、焼き肉ですよ?」

 ふふふ、とかみ殺したように笑ったら、沖矢も私と顔を見合わせて腹を抱えていた。ああ、お腹が空いたなあ。私たちは声を上げてひとしきり笑い終えると、ようやくのこと車から降りた。清々しい空気だが、少しだけあの煙たさが恋しいとも思ってしまった。