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 ミステリー映画には決して興味がないわけじゃない。ただ、どちらかといえばホラー映画や恋愛映画の人間の表情≠ェ豊かなもののほうが共感しやすくて好きだった。それでもユキがよく観に行きたいと誘ったので、そこまで鈍いほうでもないとは思う。

「……」

 ただ、今回は日本最大のミステリー超大作とも銘打たれた正真正銘本格長編ミステリー映画であり、確かに俳優の演技力は高く話も面白いのだが、端的に言うと話が長かった。先ほど食べた高級肉がお腹に溜まって、私の眠気を誘っている。
 ――分かっている。
 さすがに、私も自分から誘ったデートで自分が途中で寝ることが最低な行為だと自覚している。だからこうして、必死に大きなスクリーンと睨めっこしているわけだ。謎解きはまだ半ば。主人公たちはようやく集めた証拠品を分析し、第一発見者のアリバイが崩れたところだった。

「……すみません、ちょっと」

 私は小声で沖矢に耳打ちすると、席を立ちそそくさと手洗いへ向かった。館内から打って変わった眩い灯りに、ようやくのこと眠気が和らいだ。私はフウ、と小さく息をついてから鏡を見つめる。暗いから気づかれていないと思うけれど、眠そうな顔をしてはいないだろうか。いつもよりラメをたっぷりつかった目元の崩れを直しながら、何度か表情筋を動かす。

「うん。大丈夫」

 時計を見ると、ちょうど一時間が経過したあたりだった。長い映画だとしても、恐らく三時間程度か。別に映画の内容がつまらなかったわけではないので(寧ろ、演出は好ましい――)、あの語り口が終われば耐えれるはず――。鏡の前でぐっと拳を作って気合を入れなおし、元の座席まで戻った。

『違う、これは首吊りじゃない……毒殺だ!』

 スクリーンの灯りが、高い鼻筋を照らす。
 レンズの奥がよく見えなかったが、頬杖をついた頭がゆらっと揺れた。私はパチパチとその姿に目を瞬き、立ち尽くしてしまった。背後の席からの咳払いで、慌てて席につき、そっと沖矢の顔を覗き込んだ。

 ――寝てる?

 すう、と穏やかな吐息が、薄く開いた口元から零れる。私は小さく口元を笑ませて、スクリーンに向きなおした。良かった。どうやらこの睡魔に襲われていたのは私だけではなかったようだ。そういえば、以前も転寝をしていたっけか。ほっと息をついて、私は背もたれに体重を掛けた。ならば、少しくらい目を閉じても構わないだろうか。
 私はピチョンピチョンと水音が響くのをBGMに、小さく欠伸を零した。目を休めたくてそっと瞼を閉じたのが、その時の最後の記憶だ。



「――百花さん」


 とん、と肩を叩かれて意識が戻る。私がハっと瞼を開けると、柔いライトの灯りが寝起きの視界を眩ませた。沖矢は苦笑いして「行きましょう」と手を差し出してくれる。どうやら、映画は終わってしまったらしい。幾人かのスタッフが床の清掃を始めている。
 かっと顔が熱くなって、それから血の気が一気に引いた。
 私は情けなく眉尻を下げながら、彼に頭を下げる。沖矢は差し出した手でそっと私の腕を引いた。情けなかった。ふらっと力なく彼に引かれるまま、カーペットの上を歩く。

「本当にごめんなさい……私から誘ったのに……」

 申し訳なくて、自分への失望感がすごくて、ひたすらに頭を下げていたら、沖矢がフっと笑った。嫌われたら嫌だなあと思っていた。けれど笑われるとは予想していなくて、私が顔を上げると沖矢はニコと口元を柔く微笑ませる。

「いえいえ。面白かったですね、特にあの、首吊りではなく毒殺だと気づくあたりとか……」
「あ……っと。え?? どうして……」

 私はジっと彼の顔を見上げた。それから、少し考える。
 間違いなく、私が席に戻ったときに映画の中の人物が喋っていた台詞だ。しかしその時たしかに沖矢は寝こけていたはずで。――彼は先ほど転寝の時、頬杖をついていた。普通、それなりに長い時間頬杖をついていたら頬に多少なりと跡がつくのではないだろうか。

「……もしかして、寝てませんでした?」

 私はぐるっと彼の行く手を阻むように立ちはだかり、彼に疑心の視線を送る。すると沖矢は指を口元に当て、少しだけはぐらかすように視線を泳がせる。それから私を捉えて、「ご名答」と笑ったのだ。

「そうでもしないと、寝ないでしょう。君は……」
「寝なくて良かったんです! 映画、沖矢さんと観たかったのに……」
「どうせ映画なんて、そのうち家でも観れます」
「そうじゃなくて……。前も狸寝入りしてましたよね? 私もう沖矢さんが寝てても信じません」

 彼の見事なまでの寝る演技に騙されたのは、ついこの間ぶりだ。確かにその前寝顔を見た時も、癖のない寝方をするとは思っていたが、目を閉じていたら本当に寝ているかどうか見分けがつかないのだ。
 私がそう言ってつい、と顔を逸らすと、沖矢は可笑しそうにクックッ、と笑いながら、謝罪の気持ちの篭らない声で「すみません」と言う。

「てっきりお疲れなのかと思って……良かれと思ったんですが、それは謝りましょう」
「う……。いえ、まず私がつまらなそうにしてたのが問題ですよね。すみません」

 そう素直に謝られると、私も気まずくて謝るしかなかった。そもそも、眠たそうにしていた私を見て、きっと彼なりの良心だったのだ。そう考えたら心が痛んだ。私が持ってきたチケットなのに――。それでも彼が楽しめたのなら、それだけの価値はあったと思おう。沖矢は入り口でパンフレットを一つ購入した。私はさすがに三分の一ほどしか見ていないので買わなかったけれど、それだけ気に入った映画だったのだろう。

 その後、多少の買い物を済ませて帰路につく。暫く気分がさえないまま、私は車に乗り込んだ。なんというか、沖矢は気分を害していないのは分かるのだが、罪悪感と自責が圧し掛かるのだ。「私ってなんでいつもこうなんだろう」と、過去のデート失敗例が頭に過ぎっていってしまう。

「……百花さん」
「はい……」

 呼ばれた声に振り返れば、彼は手に持ったパンフレットの入った袋を私のほうへ差し出す。私はえ、と声を固くして、ぶんぶんと首を振った。

「そんな、受け取れません。私本当に、最後まで観てないし……」
「ええ。知っています。それからそのパンフレットを観てしまっては折角の映画がつまらなくもあるでしょう」

 沖矢はまるで見透かした風に頷くと、私の指先をとって、中指の爪先に小さくキスを落とした。外国の人がやるみたいな、スムーズで気障なキスだった。

「百花さんが映画を最後まで観たいということも分かりました。眠ったらもちろん起こしましょう」
「は、はあ……それは本当にすみません……」
「今度は、しっかり起こしますから。良いでしょうか?」

 ニコリ、と彼は再び袋をこちらに押し付ける。私の頭の中に『今度』という言葉が反響した。今度、今度――今度! 嬉しくて、顔色がぱっと色づくのは沖矢からも気づいてしまったかもしれない。


「僕と、二人で」


 それは、私が先日彼を映画に誘った時の文句だ。嬉しい。勇気を出して、彼を誘って良かった。私は自然と緩んだ頬のままに微笑んで、「喜んで」と頷いた。――プロポーズを受けたかのような言い草をしてしまったが、たかが映画の誘いである。その通りだ。

 だけど、嬉しい!
 たかが映画の一度や二度。周りからはそう言われるかもしれないけれど、その一つ一つを彼と知っていけるのが嬉しい。沖矢の気障ったらしい所も、少し人間らしいような弱さも、好きだ。新しい一面が見えるたびに、そんなところも好きなのだと心から溢れてしまう。

 私も、彼が改めて全てを打ち明けてくれるというのなら、この想いを言葉に変えよう。その日には、どうか彼が穏やかに転寝できる世界になっていると良い。魘されることもなく、ついコクリコクリと船を漕いでしまうような、そんな世界を――私は守っていきたいと思うのだ。警察学校の面接まで、あと少し。私は先ほど唇の落ちた指先を見つめて、きゅうと愛おしくそれを握った。