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「はい、こんな感じでどうでしょう?」

 店員がにこやかに大きな鏡で後ろ姿を映して見せる。面接がもう間近に迫っているということもあり、色の落ちてきていた髪色を暗くしにきたのだ。ついでにトリートメントもお願いしたので、手触りが良い。さらりと頬を擽る髪を耳に掛け、私はいつもの道のりを歩いた。


 警察学校の面接試験は明後日に控えている。今日は目前の、最後の木曜日なのだ。
 ここまで良くしてくれたお礼にと、沖矢と有希子へお礼の菓子も買った。本当はペンダントのお礼も兼ねてもう少し良いものをあげたかったのだけど、それは無事に合格を果たしてからにしようと決めている。

 彼を訪ねると、小さな欠伸を零しながら沖矢が出迎えてくれた。少し、寝不足だろうか。目の下が常に増して隈を濃くしている。
 いつも通り客間に通され、菓子を渡せば、沖矢は「気を遣わなくても良いのに」と笑いながらも受け取ってくれた。一応、彼も食べられるよう甘くない種類を選別したつもりだ。以前は好みでもない茶葉を渡してしまったから、少しでも気に入ってもらえると嬉しいのだが。

「明後日、でしたか。上手くいくと良いですね」
「あはは……もう少しリラックスできる方法があれば良かったんですが」
「リラックス、ね。苦手そうだ」

 肩を竦める彼の言う通り、こういった試験は私の苦手分野だ。元々気が小さいことは自覚していたし、威圧的な雰囲気があるとつい思ったことが言葉にできない。よく客はみんなカボチャに思えなんていうが、人をカボチャに変換するなんて無理があるのではないだろうか。
 温い紅茶を口にしながら(カップが冷たかったので、恐らく温めなかったのだ。この間教えたのに――たぶん、面倒くさがったのだと思う)、そんな考えをそのままに言葉にしたら、沖矢は笑いながらソファに深く腰を掛け、足を組んだ。

「確かにカボチャと頭じゃずいぶん違いますよね」
「でしょう? あんな怖い顔見て、カボチャだなんて思えないです」
「なら、もっと手頃なものに例えてみては? 想像しやすいもので」

 確かに理には適っていたけれど、考えてもそんな代用品は思い浮かばない。私は考えた末に、「沖矢さんならどうでしょう?」と尋ねてみた。沖矢はうーん、と唸ると苦笑いを浮かべる。

「すみません、僕はあまり緊張しない性質だったので……参考にならないと思います」
「ふふ、でも分かるかも。沖矢さんがガチガチに緊張してるところ想像できないですもん」

 穏やかな物腰に関わらず、彼にはどこか人の視線を集めるような雰囲気があった。例えばその立ち姿一つであっても、背筋が伸び、元々大きな体格がより一層増して見える。そんな零れ出るほどの自信が、彼からは感じ取れた。
「変なこと聞いてごめんなさい」
 私が軽く首を振ると、沖矢は下唇を物寂しそうに撫でてから「ああ」と思い出したように切り出した。

「でも、一つだけありますよ。僕も昔、目上の人と話す時にやってたこと」
「へえ……カボチャ、じゃないんですよね。どういうことです?」
「憎い相手のことを、全員照準つきで眺めていました。生意気なことを言われたら引き金を引いてやると何度思ったことか……」

 さも良いアイディアだと微笑んだ彼に、私はケラケラと笑ってしまった。確かに、良い考えかもしれない。自分が命を握っている人間が何を言おうが、鼻で笑い飛ばせるだろう。そうしてみようかな、なんて冗談交じりに言うと、沖矢は割かし真面目な表情で「つける場所はここがおすすめです」と目と目の間あたりを指した。冗談なのか実体験なのか、イマイチ掴みづらいところである。

 それから少しだけ他愛ない話をした。
 恐らく、沖矢自身も私の緊張を解こうとしてくれているのが分かる。時折冗談を織り交ぜたり、なるべく縁起の良い言葉を使っていたり――。そういった心づかいが溢れているのが、私は嬉しかった。
 最近は沖矢と話していると、時が経つのが十秒ほどにも感じるし、十時間にも感じる。気が付けば午後の六時を報せる鐘が、大きな柱時計から響いた。私はハっとして、今日はもう帰ろうかと腰を上げた。

「すみません、本当に長い間ありがとうございました……。あとは、もうちょっと。がんばってみます」

 頭を深々と下げて、私の脳裏には警察官を志すと決めてから、その後のことまで。走馬灯のように駆け巡ったその思い出に、やや名残惜しさを感じてしまうのは傲慢だろうか。

「……ユキのあの日の想いを、伝えてくれてありがとう。本当に、ありがとうございました」

 おかげで、私は自分の意思でここからの道を歩んでいける。それだけは、確信できるのだ。私はさらっと流れていく髪を撫でつけながら頭を上げた。満足げに微笑んでから踵を返そうとしたら、沖矢が私の腕を掴んだ。力強くはない。殆ど添えるだけの手のひらだった。

 沖矢はレンズの向こうの瞳を僅かに揺らして、コツン、と私の額にその冷たい額を合わせる。私の呼吸と、彼の鼓動の音だけが鼓膜を揺らした。


「……実は、この家を出ようと思っています」


 平坦に、静かに、彼はそう語った。
 私は驚いて沖矢を見上げようとしたけれど、そっと腕を掴んだ手に力が入って、それを咎めた。――驚いたけれど、彼がそんなことを見通せず、適当に今度という言葉を吐いたとは思えなかった。だから、寂しさよりも驚きが勝ったのだ。沖矢は小さく笑う。

「少し海外へ出向くつもりです。元々ここは卒業までの借家でしたしね……」
「また、帰ってくるんですか」
「ええ、勿論。ただそれがいつになるかは分からないので――」
「私、絶対に待ってます。貴方のヒーローになれるように、ずっと待ってますから」

 食い下がるように言葉を紡いだら、沖矢がやっぱり可笑しそうにフっと息を零した。力が抜けた拍子に顔を上げる。彼の唇がそっと私の目じりに触れる。言葉にはしないけれど、「泣くな」と訴えているようだ。

 好きだ、心が泣きだしそうに叫んでいる。

 名残惜しそうな唇は、もう一度今度は頬へ、今度は唇へと降りていく。いつ出ていくのとか、どこへ行くのとか、聞けば良かったのに聞けなかった。彼の性格ならば、きっと告げずに出ていくことだってできたはずだ。それでも私に伝えてくれたのは、きっとそれだけの想いを持ってくれていると、そう信じたかった。だから、聞けなかった。

 そんな私の叫びを吸い込むように、唇が重なった。少しばかり力強いキスを交わして、親指が頬を摩る。輪郭を唇がなぞって、鎖骨の間にあるペンダントトップに彼が口づけを落とした。

 薄い虹彩が、熱を持って私を見上げた。
 私はじわっと浮かんだ涙を、薄く零す。彼の指がそれをすっと拭っていった。

「……なんで、そんな急に言うんですか」

 そんな言葉を、言いたかったんじゃない。もっと可愛げのあることを言えば良いのに。沖矢はサラサラと流れる髪を撫でて、ただ一言「すみません」と謝った。頬を撫でた両手が、私の背中に回る。唇は、服の隙間を広げて胸元へ落ちていく。力の抜ける体を、その大きな手が支えた。

「ずるい……」
「失礼、狡い男なんですよ。だから言ったんだ、上っ面だけの優しい男に入れ込むなと」

 ドクドクと、心臓がはち切れそうなほど鳴り響いている。たぶん、沖矢にもその音は聞こえていただろう。沖矢はゆっくり眼鏡を外すと、「まあ、もう遅いですが」と笑った。阻むものを失くした瞳は、獰猛な肉食動物のようにゆっくりと瞼を持ち上げ、こちらを観察している。

 満更ではなかった。彼のことが好きだったし、もうすぐ会えなくなるならその前に刻んでほしいと願った。次に会ったときに、体のすべてで彼のことを覚えていたい。できることなら、その声で好きだという言葉を聞きたい。

 するっと、スカートの中に大きな手が潜り込んだ瞬間だった。

 背中にざわっと鳥肌が立ち、私は心臓がドクドクと五月蠅く鳴るのを感じた。先ほどまでとは違う、不規則に、歪に、鼓動が鳴った。

『そんなビクビクしてっからさあ、こういうことされるんだろ』
『ごめん、ごめんなさい! やだ、やだ……』
『は……? 俺のことを否定すんの……見下してんじゃねえよ』

 ――なんで、なんであの時のことを思い出す。
 私はもうとっくに振り切ったはずなのに。あの人と沖矢に、似たものなんてないはずだ。想いのすべても異なるのに、どうして、体が震えるの。私は、彼のことが好きなのに――。

 沖矢が、優しく笑った。手が、唇がそっと離れていく。私は違うのだと叫びたかったけれど、声が上手く出ない。後悔の念だけが、頭の中を占めていく。私は泣きそうになるのを堪えながら、鼻を啜って玄関を飛び出した。外は暗くて、開いた襟元に吹き付ける風が身を凍えさせる。


 外に踏み出して明るすぎる街灯を見上げたときに、ようやく涙が零れた。あれほど私が救うと言って、彼を好きだと思っていたのに、受け入れられなかったのは私の方だった。拒んだのは沖矢じゃなくて、紛れもなく私だった。そう思ったら、もう一粒大きな涙が頬を伝った。