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 結局、いつも私の邪魔をするのは弱虫な私自身だった。
 昔も今も変わらない。折角ユキや沖矢のおかげで強くなれたと思っていても、どこかで大きく立ち塞がるのは慎也や他の悪意ではなく私なのだ。沖矢が――彼が触れることを拒んだのは、私だ。それを恐れてしまった、自分の心だ。

 ――傷ついただろうか。
 彼は優しい人だから。切り替えの早い男だから。きっと次に会ったときには「何のことやら」と笑ってくれるだろう。彼の心が傷ついていないと良いと願う。いっそのこと、私のことを取るに足らない女だと、そう嘲っていてくれたら、それで良い。
 
「駄目だ、いったん忘れよう……」

 今はそちらに集中すべきじゃない。面接試験を終えたら、改めて彼に謝りに行こう。いや、その前にメールで一度断っておこうか。携帯を握りしめて考え込んでいたら、背後からクラクションの音が響いた。人気の少ない路地であったから、恐らく私のことかとは思う。ハっと振り返って体を端に寄せた。


 最初は灯りが眩くてよく見えなかったものの、黒塗りの車が私の横に止まると、目立つ容姿に一目で目を奪われた。プラチナブロンドが波打つ。左ハンドルの運転席から、夜に際立つプラム色の唇が微笑んだ。
「……マリアさん?」
「ハァイ、プリンセス。こんばんは」
 その姿に、ギクリとした。ユキの母親である道城のことが脳裏に浮かんだのだ。ユキのあのコラムブックの内容が確かだとすれば、彼女は――その、研究所の職員のような立場なのだろうか。にわかには信じがたい、例の体が縮んでしまう薬。とてもじゃないが表向きの薬品会社とは思えない。
 
 じり、と足元を後ずらせた。

 何より――沖矢が、彼女のことを警戒していた。信頼における彼の行動が、私に警戒心を抱かせる。この間のマリアの話はとても嘘とは思えなかったし、一見悪いようには見えないものの、信用することはできない。
 そうだとしたら、安室は一体何者なのだろうか。益々悪い人間には見えないものの、その研究チームの関係者。
 思考を巡らせながら美しい爪先を見つめていたら、彼女はフっと眉を下げて笑いながら細い煙草を一本咥えた。

「ずいぶんな顔ねえ。泣いているみたいだから声を掛けたのに」
「……あ」
「ふふ、悪い男にフラれた?」

 煙草の香りが残る指先が伸びて、私の涙の跡が残っている頬を掠めていく。その手つきは、確かに優しく、こちらに危害を加えるようには感じなかった。
 戸惑う。沖矢やユキのことは信じている。もちろん、彼女とどちらを信じるかと天秤にかけたら答えは一目瞭然だった。

「かわいそうに。悲しそうな顔をしているもの」
「あ、いえ……これは……」
「気にしないほうが良いわ。今日はちょっと聞きたいことがあって」

 乗る?と彼女に助手席を指されたけれど、私は首を振って断った。車と徒歩なのだから、逃げ切ることはできないかもしれないが、いざとなればブロック塀を乗り越えることくらいできるかもしれない。マリアはそれ以上言及することなく、「そう」と軽く相槌を打つと話を続けた。


「――私ね、貴方の彼について聞きたいのよ」


 一瞬、頭が真っ白になった。それからマリアは軽く笑い声を上げてから、窓に腕をついて灰を道路に落とす。
「彼って……」
「ほら、あの大学院生の。名前は確か、沖矢昴――とか」
「沖矢……」
 小さく喉を鳴らす。声にならないまま、口の形が「どうして」と紡いだ。声に出さなかったのではなくて、上手く言葉にならなかったのだ。それを、口にしてはいけないと警戒音が頭に響く。サイレンのようでもあり、ブザーのような音だった。

「ミチシロが持っていたあの暗号――解いたのは貴方だそうじゃない」
「……そうです。私です」

 本当は沖矢の力を借りたけれど、今は彼の話題から逸れるべきだと思った。私とユキに関りがあることは、既に知られていることだ。別に構わない。眉を吊り上げて告げれば、彼女は「でもねえ」と煙を燻らせた。

「可笑しいと思わない?」
「……何がでしょう」
「だって、ミチシロがユキと名付けたあの子……。あの子のことを知ってしまったんでしょう、貴方達。彼女が、薬を飲んだこと……」

 警戒しながら答えを探していると、マリアは笑って手を軽く振った。

「やあね。そのくらいでどうこうしようなんて思わないわよ。言っとくけど、そんなに暇じゃないの。貴方はユキと親友だったんでしょう、だから彼女のこと、納得したんじゃない?」
「……はい。正直、そう思っても良いくらいには、ユキは大人びていたし落ち着いた子だったから」

 恐る恐る頷けば、日本人らしからぬ彫りの深い顔立ちが笑った。艶やかと言う言葉がしっくりくるような笑みは、街灯の灯りをスポットライトのように浴びて、さながら映画の一幕のようでもあった。


「じゃあ、彼はどう? どうして、さして親しくもない小娘の暗号の、突拍子もないミステリーのような内容を――そんなすんなり受け入れることができたのかしら」


 ――それは、と口にして、私は続きが思い浮かばなかった。
 確かにその通りだ。あの時、彼はまるでその内容を先読みしているかのようだった。薬を飲んで体が縮むなんて小説のような出来事を、真剣に取り合ってくれたのには――理由があるのだろうか。

「彼が本当の大学院生かなんて――調べたら案外すんなり分かるものよ」
「私、何も知りません」
「馬鹿ねえ。貴方が知るかどうかはどうでも良いの」

 煙草がアスファルトの上に放られた。こちらに降りかかる灰を避けて顔をあげると、シルバーの輝きが反射した。まるで玩具のような大きさの拳銃が、するっと目前に突きつけられる。その華奢な手つきにもよく似合う、小型のものだった。
「一緒に来てくれれば、それでね」
 そう口角を持ち上げたマリアに、私は周囲を見回した。人気はない。しかし、その車に乗ってはいけないと、それだけは確かに分かる。

 そして、彼女の瞳には、やはり殺気というものが存在しないことも。

 分かる。彼女は私を殺そうとはしていない。誰かが人を殺そうとしているときの、あの目じゃない。この銃はただの脅しだ。それはもしかしたら、道城のことが関係しているのかもしれない。
 
 その瞬間だった、ただでさえ狭い路地を塞いでいたせいか、住民らしい乗用車がクラクションを鳴らす音がした。私は、彼女の車のボンネットに飛び乗る。それを踏み台にして向かい側のブロック塀のほうへ足を踏み切った。

 コンクリートに脛が擦り切れたけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。小型の拳銃だ。さすがにこの石塀を貫く威力はないはずだ。ただ、惜しむらくは暗くて周囲が見えず、この辺りの入り組んだ地形に詳しくないことだった。鉢合わせてしまったら意味がない。しかし、このまま住宅を巻き込むのは得策じゃないはずだ。

 兎に角、今はマリアも車を置いてこちらを追うはずだ。その僅かな時間に、できるだけ遠くに逃げなくてはいけない。

 ――そうでないと、沖矢さんが危ない。

 彼女が私をつれていくと行ったのは、きっと交換条件につける為だ。秘密がバレようが構わないと言っていた。彼女が狙うのは私ではなく、沖矢のほうだ。ならば、私は逃げ切らなくては。沖矢だけであれば、頭も切れるし、何より体術も優れているのを知っている。きっと私より上手く逃げることができるはずだ。

 私は住宅を抜け、なるべく遠くへとひたすら走った。大丈夫、まだ走れる! 息が切れるくらいで止まっている暇はない。兎に角、遠くへ。遠くへ。
 ようやく商店街の街灯を目にしたとき、私は沖矢へ警告だけでも注げようと思った。携帯を取り出して、沖矢にコールを掛けようとした時だ。一瞬、街灯の灯りに影が差した。

「……ッ」

 振り返る間もなく、口元が塞がれる。マリアの華奢な指とは違う。彼女の仲間だろうか。そのまま細い路地裏へ引き摺られて、私は足をバタバタと暴れさせた。その抵抗も虚しく、月明かりは無常なまでに雲に包まれていた。