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 一瞬、先ほどの沖矢のワザとらしいほどに柔らかな表情が脳裏に過ぎった。
 ああ、こんなことならば、あの時嫌がっても最後までしてほしいと強請っておけば良かった。もっと抱きしめてほしいと、キスだってしてほしいと――貴方のことが知りたいと、強欲になれば良かった。
 
 この数秒で、私は頭の中をフルに回転させ、どうにか沖矢へ最後のコールを送る方法を考えていた。遠くへ逃げて欲しい。そして、彼が穏やかに暮らしてくれると良い。その為に――どうか。撃たれたとしても、最後にこの携帯のコールだけでもできたらと画策していたら、口元を塞いだ大きな手のひらがゆっくりと離れていく。フ、と安堵したように頭上で吐息が零れて、不思議に思って振り向いた。

「……? あの」

 そこに立っていたのは、ダウンのフードを深く被った男だった。表情を険しくしてその表情を覗き込んで、私はアっと声を零しそうになり、男が再び――今度は先ほどよりも柔い力加減で口を塞ぐ。男が口元に人差し指を立てて私に確認するように首を傾げた。私はコクコクと何度か頷き、暫くすると彼が手を離した。

 コートの隙間から、見覚えのあるブロンドが揺れる。マリアのものより、少し黄味を掛けたような蜂蜜色だ。フードをちらっと持ち上げると、褐色の肌と普段は微笑んで垂れた目じりが現れた。

 私が何か言うよりも早く、彼は声を潜めてチラリと背後を一瞥する。

「良いですか。何も聞かず、このまま路地を真っすぐに進んで。その先にある古い煙草屋に、知り合いを待たせています。彼の車に乗りなさい」
「……あの、でもあの人は沖矢さんを」
「――何も聞かず」

 安室は、言い聞かせるように私に繰り返した。信じても良いのだろうか、少し気がかりはあったものの、今は彼に頼るほかないように思えた。安室は一向に足を進めない私に、小さくため息をつく。

「ポアロの時にも思っていましたけど、相当頑固な人ですね」

 一度呆れたように笑うと、彼は私を近くの通気口の傍に座らせると「待っていて」と彼の着ていた黒いダウンをかぶせた。コツコツと足音が響く。暫くすると、何言か言葉を交わす声が聞こえた。安室と――女性の声は、恐らくマリアのものだと思って良さそうだ。


「ベルモット――こんな街中で会うなんて、何の気まぐれですか」
「あら、それを言うならそっちこそ」
「僕は一応、お仕事なのでね。もしかして、例の件についてでしょうか」
「……詮索は身を滅ぼすわよ、バーボン」
「どうも。探り屋の性分が疼いてしまって……痛くない腹を探られるのが嫌なら、妙な行動は慎んだほうが良いとは思いますが」


 ややあって、ヒールの音が遠ざかっていく。それから数分、安室の気配も姿もなく、ようやく鼓動の音が落ち着き肌寒さを感じ始めた頃、安室は座り込んだ私を覗き込んだ。「もう良いですよ」と笑う彼に、私はダウンを返しながら不安げに尋ねた。

「安室さん……その、マリアさんは――」
「すみませんが、詳しくは説明できません。それをしたら、君を彼女のもとへ連れて行かなければいけない」

 私は大人しく頷いた。それでいて安室が私を助けてくれたのならば、やっぱり彼は味方だと信じても良い気がする。先ほど「沖矢が」と口にしたとき、安室は全てを察しているように驚きもせず話を聞いていたから。

「あの男のことなら、心配しなくても良い」
「でも」
「銃弾で頭を撃ちぬいても死なない男です。君は君のことを考えて」

 私は静かに頷いて、彼の指示通りに路地を歩いた。彼らは一体何者なのだろう。安室も沖矢も、ユキの薬のことを知っているのだろうか。様々な憶測が頭の中を渦巻いたけれど、私はそれでも沖矢のことが気がかりだった。

 安室はシルバーの乗用車に私を乗せると、私に忠告するように改めて視線を合わせ、いつもより些か険しい表情を浮かべる。
「彼に君の護衛をさせます。大丈夫、きっとあちらも君には手を出してこないはずだから」
 そう告げて、ちらりと運転席に視線を送る。ハンドルを握っているのは見覚えのない、生真面目そうな男だった。

 そして一度頷こうとして――はたとそれを止めた。どうして、マリアが私に手を出してこないと断言するのだろうか。

 今日の彼らの会話を聞く限り、マリアは納得がいっていないような態度をしていた。普通に考えれば、安室がいない時に再び姿を現すと思っても良いのではないだろうか。なら、どうして私に手を出してこない。どうして――。


「沖矢さん、もしかしてあの人の所にいくつもりなんですか」


 私は顔を上げて、安室の瞳を見つめた。グレーの瞳が、僅かに揺れる。表情さえ動かさなかったものの、その僅かな沈黙が肯定とも思えた。

「沖矢さんに、このことを伝えに行くんですね」
「……先ほども言いましたが、断じて簡単にくたばる男ではありません。君よりもずっと強く、憎らしいほど賢く、優秀な男です」
「――すみません。助けてくれてありがとうございました。私、やっぱり行きます」

 私を取引の条件に加えないように手を引かせる、単純な方法だ。その取引先である沖矢自身が、自ら応じれば良い。その結論に辿りついた瞬間、私は居てもたってもいられず安室に頭を下げて車を降りようとした。安室の手が、私の肩を掴む。

「駄目だ、行かせるわけにはいきません」
「……すみません。本当に――あの、私分かってるんです。足を引っ張ることだって、危ないことだって、知ってます。でも行きたいんです……行かせてください」

 あんな小さな拳銃一つに、拳はぐっしょりと汗を握っている。安室が言うように、きっと沖矢は強く賢い男だろう。知っている。気づいていた、分かっていた。マリアの話が真実なら、きっと暮らす世界の常識さえ異なるのだろうとも思う。

「聞いてください、あの男なら本当に心配はいらない。僕が保証します。本当に口惜しいことですが、きっと何喰わぬ顔で全てを済ませてきます」
「でも――でも!!」
「……っ分からないのか! 君が関わることで、あの男の弱点を晒しているようなものなんだ! さっき、それを痛感したでしょう!!」

 いつもの穏やかな姿とは真逆の、激しい炎のような叱咤に、私は息を呑んだ。彼はぐっと篭めた力を緩めると、少し気まずそうに視線を逸らした。

「それに、君がもし、万が一命を落とせば――それこそ一生の傷だ。僕も、沖矢昴も、道城ユキも――それを望んではいないと思います」
「ユキは……」

 ユキは、どう思うだろう。言葉を荒げた安室は「すみません」と小さく謝罪をして、私の肩から手を離す。折角生き延びた命を、こうして誰かのために投げ出すことを――ユキはやはり望まないだろうか。足を引っ張ると、邪魔になるとは分かっていて、飛び出していくことは愚かだろうか。沖矢の言うように、無意味な神風だろうか。


『そんなこと言われたら、悲しいじゃん』

 雷鳴の音。背筋を伸ばして、あっけらかんと笑った彼女の顔が過ぎる。強い子だった。賢い子だった。私が助けてあげられることは、今思い返しても少なかっただろう。
 ――今になって思えば、ユキは本当に慎也のことが好きだったのだ。愚かな部分を見つめても、憎しみが溢れても、彼のことを愛して、助けてあげたかったのだと思う。その理由はきっと――私を助けたことと、同じなのかもしれない。ミチシロを愛した想いと、同じだったのかも、しれない。

 強くとも、賢くとも、罪に塗れていようと、愚かだろうと――。
 
「人に助けを求めるのは、いけないことでしょうか」
「――はい?」
「あの人は、確かに強くて賢いかもしれません。安室さんの言う通り禄な人間ではないかもしれないし、もしかしたら人殺しみたいな……そんな罪を持っている人かもしれません。でも、けれど、私は……最後まで、あの人の傍にいたい! あの人の前に、立っていたいです!」

 ぎゅうと強くペンダントトップを握りしめた。私は今一度「ごめんなさい」と深く謝罪をして、彼の脇を擦り抜けた。危険だって良い。どうなったって良い。貴方がもう二度と、あんな泣き出しそうな夜を迎えない世界でありたい。傍にいたい。


「……まったく、本当に頑固者だ」


 ぐるっと視界が引っ繰り返って、夜空が見えた。体がふわりと浮かんだ感覚に、安室の声色だけが響いている。――「僕も人のことは言えなかったかもな」、と。その声を最後に、私の意識がゆらりと揺れて薄れていった。