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 瞼を、薄く灯りが刺す。目覚ましが耳をつんざいた。もう何度目の目覚ましだろうか、眉間に深く皺を寄せて寝返りを打ち、携帯を手探りした。シーツを掻き分けて、ようやく手に入れた携帯を何度もタップしていたら、アラームが止まる。
 険しく顔を上げて、その日付を見て――私は飛び起きた。画面には予定の欄に『警察学校 面接試験』と表示されている。そんな馬鹿な、私は慌てて上半身を起こす。サイドテーブルの上には、水と一緒に小さなメモが貼られていた。几帳面な文字は、見覚えがある。バイトのシフトを出す時に――安室の文字だ。すぐ分かった。

「……行かなきゃ」

 私は着替えを済ませてから、急いで家を飛び出した。
 メモの内容には、手荒なことをして申し訳なかったということと、安室や沖矢のことは忘れ自分の夢を追ってほしいと記されていた。大丈夫、面接試験は午後からだ。
 私は走って、沖矢のもとを訪ねた。何度インターフォンを押しても誰も出なくて、カーテンは閉め切られている。諦めてポアロに向かえば、梓が驚いたように私を出迎えた。

「どうしたの? 今日は大事な試験の日だったんじゃ……」
「あのっ、安室さんって……」
「あ……実はね」

 梓は言いづらそうに頬に手を当てると、彼が昨日づけでポアロを辞めたことを告げた。声を失ったまま梓を見つめていると、彼女は何か勘違いをしたのだろう。優しい人だから、慌てて両手を振りながら弁明を続けた。

「何か、切羽詰まった感じで……。本当に、多分何かあったんだと思うの。だから別に除け者にしてたとかじゃないのよ」
「大丈夫です、ありがとうございます……。ちなみに、どこに行かれたとか――知らないですよね」
「さあ……。あ、ごめんね。私安室さんがいない分今日の買い出し行ってこなくちゃ」

 ランチの仕込みしなくちゃいけないからと申し訳なさそうに断る梓に、私は軽く笑いながら会釈をした。そしてポアロを後にした私は、行き場をなくしたまま家に向かって歩き出すしかなかった。

 ――沖矢のもとへ行きたい。

 それが邪魔だとは分かっていても、彼を一人にしたくない。一人で、すべてを背負わないでほしい。私に何かがあっても、それは彼のせいではなく、私の選んだ道なのだと伝えたい。

 このまま彼が知らないところで傷つくくらいなら、私も一緒に傷を負いたかった。私も、彼が傷つけば辛いのだと知ってほしい。彼のところに行きたい。駆けつけていきたい。――だけど、どうすれば良いのだろうか。彼への道の手がかりは何一つなかった。

 手がかりと言えば、マリアの存在くらいだ。けれど私は彼女がどこの誰なのかは知らない。この間、安室は彼女をベルモットと呼んでいた。そう思えば、あれが本名なのかも定かではなかった。

「……どうしよう」

 私は大きく息をついて、その場に座り込んだ。髪の毛をぐしゃっと丸めて、兎に角沖矢の手がかりがないか思考を巡らせた。有希子は――連絡先が分からない。駄目だ。何か、何かないだろうか。

 考えて、考えて――しかし、諦めざるを得ないくらい、私は彼のことを知らなかった。工藤邸には車も置いてあったので、ナンバーを追うこともできない。このことを知っているのは、安室しか知らない。

 諦めなければいけない。その結論に辿り着いた瞬間、私はその口惜しさに涙を滲ませた。どうしよう。もしも沖矢が、ユキのようになってしまったら、どうしよう。一人で、誰かを傷つけないために――。

 視界が揺らぐ。はら、と涙がアスファルトに落ちていく。
 ――これで良かったのかもしれない。安室が言う通り、沖矢は賢く優秀な男であって、私がいることが弱味になる。私はこのまま、夢を目指して面接を受けに行けば良い。それがあるべき姿なのかもしれない。

 それでも、私がなりたかったのはそんなヒーローではなかった。
 大切な人を盾にしてしまうような、そんなヒーローになりたいわけじゃなかった。

 口惜しい。私が足手まといになってしまう現実も、彼のもとへいけないという結論も。何かあったらどうしよう。それがないことを、ただ願うしかないのだろうか。願って待っているしか。

 ぽつぽつと大きくなっていく染みを見送った。他人事のように、涙が溢れてくるのを無心で見つめていた。別の人の体を、私の視点から見ているようだった。


「ワン、ツー……」


 影が落ちる。こつんと歩み寄る足音。ぽんっと目の前に赤いバラが咲いた。

「スリー!」

 私はそのバラを見つめたまま、ぱちぱちと瞬く。一瞬引っ込んだ涙が、余韻で一粒だけぽろっと零れていった。私はその鮮やかさに目を奪われて、声もでないままシルエットを見上げる。

「また泣いんのか、オネーサン」
「……君」
「よっぽど悪い男に惚れたんだなあ」

 けらけらと、悪戯っぽく笑うと学生服の袖が私の頬を軽く拭った。年下にこんな気を遣わせてしまって――慌てて自分で涙の跡を拭う。すとん、と隣に腰を下ろした青年は、まるで私に話して見ろとでも言いたげに眉を片方持ち上げた。

 私は詳しい話は避けながら、ぽつぽつと沖矢のことを話した。彼のことを追うすべがないことを話すと、青年は少しだけ黙りこくって考えるそぶりを見せる。

「……それって、あの家にいた……あの眼鏡の人?」
「あ、うん。そういえば……沖矢さんの知り合い? なんだよね」
「いやー……一方的に知ってるだけっつうか……ハハ、あのこえー兄ちゃんな」

 彼は「でも」「そうか……」と何度となく呟いてから、立ち上がってこちらへ手を差し伸べた。

「何とかできるかもしれないぜ」
「……え」
「多分、ソイツの協力者を知ってるからな……」

 言うなり彼は、私の手をぐっと掴んだ。驚いて、よろけ気味に立ち上がると、青年はキョトンとしながら「行かねえの」と尋ねる。

「い、行く!」
「だろ? まあ、任せとけ……」
「でも、どうして……。この間のチケットも、そんなに親切にしてくれるの」

 本当に、ついこの間すれ違っただけの関係なのだ。決して私が何かをしてあげたわけでも、親しいわけでもない。私は彼が手招く方へと走り出しながら尋ねると、青年はポリポリと頬を掻いた。


「そりゃあ……まあ、泣いている奴を放っておく理由はねーだろ」


 その言葉に、私は瞬いて、ユキの笑顔を思い返した。それから静かに頷く。私が頷いた姿を見て、青年もまた笑いながら「だろ」と肩を竦めた。そんな気丈な姿が少しだけ、ユキに重なって見えた。





「ここって……」

 私は怪訝に青年を見返す。途中で見知った道だとは思ったが、今朝来たばかりの通い慣れた道だ。私は彼の好意を申し訳なく思いながらも、安室はもうここにはいないのだと言い出そうとした。そこは紛れもなく、喫茶ポアロと書かれた喫茶店の目前だったからだ。

「ごめん、あの……」

 そう振り返ったとき、ぎょっと目を見開く。先ほどまでふわっとした癖毛をしていた青年だったはずなのに、気が付けば髪型はもう少し固そうな髪質へ変わっている。服装も、いつのまにやら学ランだったはずなのに紺色のブレザーになっていた。

 彼は深緑のネクタイを締めなおすと、こつこつとポアロ横にある階段を昇り始めた。ここの二階、と言えば、確か毛利探偵事務所だ。安室が探偵助手として出入りしているとは聞いていたけれど。ノックの音に顔を出した少年には見覚えがある。そうか、確かあの時も毛利小五郎と一緒にいたような気がする。彼らは面識があるのか。

 少年は眼鏡の奥の瞳を驚いたように丸く見開いて、私と青年の顔を何度も見比べていた。青年がクククとかみ殺したように笑っていたのを横で聞いて、不謹慎ながら「悪戯っ子」という印象を抱いたのだ。