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 目の前に座る少年と、隣に座る青年がにらみ合うこと十数分は経ったか。
 何やらボソボソと会話をしてはいるものの、聞こえるキーワードはよく分からないものばかりで頭に入ってこない。組織がどうとか、シンイチがどうとか――。思わず他人事のようにぼんやりと座り呆けていたら、少年がゆっくりこちらを見上げた。

「コナンくん、だったよね」
「うん。久しぶり……」

 彼は細い脚を気まずそうにブラブラとさせて、まだ温かな湯呑を両手で包んだ。もしかして、毛利小五郎に何かを依頼するつもりなのだろうか。だとしたら、今は留守なのでは――。そう思っていたら、青年は私の肩を軽く掴んでコナンへ向き直った。

「なあ、そこを何とか……。危ないのはこの姉ちゃんもよく分かってるさ」
「でも、昴さんとの約束だから……」

 そのあどけない口調から昴という単語が飛び出た瞬間、私はハっと顔を持ち上げてコナンを見た。もしかして、彼が言っている協力者とは毛利小五郎ではなくコナンのことなのだろうか。確かに、沖矢とは知り合いであったように見えたけれど、まさかこんな小さな少年に――私を遠ざけるような危険な居場所を知らせたというのか。
 僅かに信じがたく、その大きな瞳をジっと見つめた。彼はゆっくりと湯呑をテーブルへ置くと、私に言い聞かせるような、沖矢によく似た口調で私の名前を呼んだ。

「誤魔化さずに言うけれど、昴さんは貴方を守る為に行く場所を隠したんだ」
「……分かってる。でも、危ないってことは、沖矢さんも危ないんでしょう? 私に沖矢さんを守ることは出来るか分からないけど、あの人が傷つくのなら、私もその傍で一緒に傷を負いたいの。関係ないところで、ただ悔んでいたくはないの」

 少年にしては大人びた視線が、私を真っすぐに捉えている。その視線が私の感情を素直にしてくれる。彼になら、何を話しても良いような――そんな気になったのだ。ちらりと隣の青年の瞳を見遣れば、彼は肩を軽く竦めて笑った。私の好きにしろと、促しているようだった。
 私は彼の態度に背を押されるようにして、コナンに向かいしっかりと頭を下げた。慌てたように幼い声がそれを止める。


「お願い。確かに沖矢さんは優秀な人で、一人で傷を背負うことも厭わないような人かもしれないけれど。私が嫌なの。私が、助けたいの! それが沖矢さんの願いでなくても良い。私が彼を助けたいと思うことに、これ以上理由も根拠もないの……」

 何か知っているなら、お願い。
 私よりも何周りか小さな体に必死に頭を下げた。コナンはフウ、と重たくため息をつくと「分かったよ」と渋るように頷いた。


「ただ、約束して。昴さんは、これが終わってもあの家に戻ることはないと思う。もしかしたらこの先何年――ううん、もう姿を見せることはないかもしれない。それでも、もう昴さんのことを探さないであげて。あの人を助けると思って、お願い」

 コナンは眉間に浅く皺を寄せて、難しそうな顔をしながら私にそう話した。もう、姿を見せることは――。以前、沖矢は暫く海外に出向くと話していた。それと何か関係があるのか。もしかしたら、それ以上に難しい理由があるのか。
 彼は一体何者なのだろうか。私が彼を探したら困ることがあるような――何か特殊な立場なのだろうか。
 疑問こそ湧いたが、私はコナンの言葉に直ぐ頷いた。沖矢が無事だと確認できるならそれで構わなかった。会いたいけれど、彼が一人傷つくのを放っておくよりもずっとずっとマシだ。

「ありがとう」
「このことも、他の人には話さないよ……絶対。約束する」
「うん。ごめんね、無理言って……」
「言ってるのは私のほうだから」

 気にしないで、と首をゆるく振ると、コナンはぴょんっとソファから飛び降りた。誰やらに連絡を取っているようだ。私はその様子を傍から見て、彼が電話を終える前に欠伸をしていた青年へ礼を述べた。

「本当にありがとう……。おかげで、何とか手がかりが掴めそう」
「いや、良いよ。だからもう道端で泣くのだけは勘弁な」
「それは……ごめんなさい……」

 今更ながら、二十を越えてあんな公道でボロボロと泣いているところを思い返すと羞恥でどうにかなってしまいそうだ。私が気まずく額を掻くと、青年はニヒ、と歯を見せて笑った。

「まあ、アンタの言葉を、きっとアイツは気に入ると思ったのさ」
「え……?」
「彼を助けるのに、理由も根拠もないって」
「あ……。あはは、あれは受け売りみたいなもので……」

 ――そういえば、誰の受け売りなんだっけ。
 最初にそれを聞いたのはいつだったか。沖矢か、ユキか――。いや、確か、人を殺す本当の理由なんてないと。

『人を助けるのに理由なんていらないよ。助けることができたなら、良いんじゃないかな』
「……まさか」

 あの時はまさかと信じられなかったものだが、今のコナンには少しだけ納得ができる気がした。少年にしては大人びた喋り口も、沖矢の秘密を聞いているのも――。それは、もしかして、コナンがユキと同じように。

「……」
「百花さん、行こう」

 私は口元に手を置いて考えながら、コナンのほうを見遣った。
 そう考えたら、沖矢がユキの正体を知って疑念を抱かなかったのも納得できる。じゃあ、やっぱりあの時、私を助けてくれたのは。あの時、ユキの真相を解いてくれたのは――。私がその姿を見下げていたら、コナンは視線を感じたのかキョトンとして大きな瞳をこちらに向けて首を傾げた。

「どうかしたの?」

 私はそう尋ねかける少年に、一度微笑んだ。
 だとしたら、ずいぶんと小さな探偵である。ただ、不思議とそれがしっくりとくる。だから、沖矢も私がそのことについて尋ねたとき、それを隠そうとしたのだ。ユキと同じならば、命を狙われる可能性がることはユキからの情報にもあったから。「そっか」、私は今も尚私の手を引こうとする小さな手を見て一度目を閉じた。


「――ううん、何でもない」


 なら、黙っていよう。
 このことは私が、死ぬその時まで持っていこう。それが僅かにでも、彼の手助けに――恩返しになれば良い。そう思いながら、私たちは青年と別れて毛利探偵事務所を出た。青年は最後まで、少し悪戯っぽく笑いながら私に手を振っていた。彼にも、また会う機会があれば何らか返せるものがあれば良いと思いながら。




 コナンが私の手を引いて向かった先には、一台の車が停まっていた。車には詳しくないが、このあたりではあまり見ないような大きなボディはよく手入れが行き届いていることが一目で分かった。近くまで駆け寄ると、その車に見劣りしないような大柄な男が顔を出した。

「ごめんね、無理言って……」
「いや。赤井さんがコッチにも無断で潜入したのには、上からも調査して引き戻すように言われていたからね……。その調子だと、君は知っていたのかい?」
「……うん。結構キツく言われてたけど」

 彼はあまり良いとは言えない人相で私を一瞥して、「彼女は」とコナンに尋ねかけた。
「……その、今回の……」
「ああ、例の。初めまして、ミス。男くさい車で申し訳ないが」
 どうやら、コナンの更に協力者――と言ったところだろうか。コナンや先ほどの青年とは異なり、明らかに堅気ではない雰囲気が漂っていて、私はゴクっと喉を鳴らしながら後部座席に乗り込んだ。

「アンドレです」
「……高槻百花です。その、沖矢さんとは」
「オキヤ……」

 大きな手と軽く握手を交わしてから沖矢との関係を尋ねようとしたら、彼はまるで初めて聞いたかのように片言で名前を繰り返す。その後コナンの小さな咳払いと共に、「ああ、オキヤ! そうそう、オキヤさんですね」と慌ただしく手を打ったのだった。