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 沖矢の力になりたくて――なんて意地を張ってはいるものの、事実アンドレの強面にはガチガチと力が入ってしまっていて、それを思わずコナンが苦笑いで慰めてくれたくらいだ。沖矢は本当に何者なのだろう。彼の正体へ近づけば近づくほど、その予想は遠ざかっていく。

 アンドレは少し山道を越えて、どうにも馴染みのある道を走っていく。いや、馴染みがあるというか、見覚えがあるに決まっているのだ。その道のりは紛れもなく、私が実家に帰るときに通う道であったからだ。途中まで、やっぱり送り返されるのではと危惧していたのだが、車が停まったのは私が思う場所より、ほんの僅かにズレた一軒家だった。――ユキの家だ。

「……なんで」

 私はゆっくりとその家を見上げる。
 幼い頃から何度も訪れた家だ。この間は、奇しくも良い思い出とは言えないものになってしまったものの、私にとってはひどく思い入れの強い場所であった。道城の手入れによって、ユキが亡くなったときからこれっぽっちも変わらない景観が、ついこの間のことのように幼い頃を思い返させる。

「そっか……。あの人は、ユキと沖矢さんに何か関係があると思っているから……?」
「きっと、この場所に誰か人を張らせているって考えたんだと思う。前、一緒に来た事があるんだよね。きっと場所や間取りは覚えていただろうし、昴さんにとっては都合が良かったと思うよ」

 私が車を降りようとすると、コナンの小さな手が私の腕を引いた。「待って」と強い口調が私を叱咤する。

「確かに連れてくとは言ったけど、無謀な行動は昴さんもお姉さんも危険に晒すよ」
「あ……うん。分かった。コナンくんの言うことを聞くから」
「ありがとう。とりあえず様子を見て、作戦を立てよう」

 素直に頷くと、コナンは大人びたように微笑んだ。確かに、今までのように考えなしに突っ込んだりすることで万一にも沖矢が危険に晒されることは望んでいない。(同じくして、今まで私が相当考えなしだったことを自覚し、些か反省した――)
 アンドレは少し離れた場所に車を停め、それからコナンと一緒に周囲の確認をした。どこからどう見ても、アンドレはあまりにこの片田舎では悪く浮いてしまうので、私たち二人に発信機を取付けその統制を取ってもらっている。

「電気は点いていないみたいだけど……」
「――でも、窓は開いているのにカーテンは閉まってる。周りの音は聞きたいけど、視線を避けているんじゃないかな。昴さんならきっとそうすると思う」
「沖矢さんって、本当に一体何者なの……?」

 そこに気が付くコナンもコナンだが、沖矢も沖矢である。カーテンを閉め切るなんて、よく映画に出てくる特殊部隊が射撃を避けているみたいだ。周囲に車や人の気配はない。開いた窓から声や音も零れてはこなかった。
 
「……人がいる」

 コナンは険しい顔をして、考え込むように窓を見つめていた。人、というのは沖矢のことではないのだろうか。私は彼の視線を追うように、窓のちょうど下あたりを見つめた。穴――。いや、穴というよりは窪み。私は自らの足元と見比べて、確信した。多分、ヒールの沈んだ跡だ。

 道城のものではない――はずだ。
 彼女が窓から出入りする必要はないし、こんな尖ったピンヒールを履くような人ではなかった。誰かが、玄関ではなく窓からこの家に侵入した。その人物が誰なのかは、察しがつく。やっぱり、彼女は沖矢のことを。

「ねえ、あのマリアさん……は、悪い人?」
「――……そうだね」

 コナンの言葉には、どこか含みがあった。そう頷いてから、「昴さんに危害を加えるかって言う言い方なら、悪い人になると思う」と付け足す。彼は頭を持ち上げて、カーテンのそよぐ二階を見上げた。

「問題は、どうやって中に入るかだけど……。まずは沖矢さんが今どういう状況なのか知らないといけないね」
「確かに。立ち位置とかが分からないまま入ったら危ないかも……」

 コナンは懐から取り出した小さなボタンのようなものを、サスペンダーをパチンコのように引っ張って二階へと飛ばした。弧を描いて窓の中に吸い込まれていく小石のようなシルエットに小首をかしげていたら、コナンが私の手を引いた。戸惑うままの私に「良いから」と言い聞かせられる。

 そのままユキの家から少し離れた裏山まで、コナンは私の手を引いた。ちょうど、この辺りの親族の墓場がある。ユキの墓も、この辺りの一部だ。坂道があるので、コナンと私の足では辿り着くのに些か時間を要した。

 彼は近くの駐車用ブロックに腰を掛けて、眼鏡を外した。私に聴かせるように、それを手に持つ。どうやら、レコーダーのような類のものなのだろう。――悪くいえば盗聴器か。多少ノイズが混じっているものの、スピーカーの向こう側からはよく知る男女の声がした。


『貴方も強情ねえ。言っておくけど、分かるのよ。これでも同じ技術の持ち主だから……』
『さあ、何のことやら』
『そう言って、彼是一日その体勢じゃない』
『このまま身動きを取れば、お仲間が黙っていないと思いまして』

 私はコナンと目を見合わせ、頷いた。どうやら、沖矢とマリアが一緒にいることは確実のようだ。そして、彼が何やら身動きの取れない状況にあることも。

『あら、そんなことまで分かっているのね。流石――と言うべきかしら』
『それは……謙遜すべきかな』
『でも妙ねえ。そこまでの切れ者がのこのこ此処に戻ってくるなんて……』

 女の声が怪しく笑った。そんな声に、沖矢の吐息のような笑い声が混じった。私に向けられた物とは異なる、嘲るような――自信に満ちた笑い声だった。

『やはり、彼女を傷つけたくない一心と捉えていいのかしら』
『……いえ? そんなこと、一言も』
「……え」

 私は彼の言葉に被せるように、声を零した。沖矢は先ほどの、強気な言葉尻のまま続けた。きっと今安全な状況とは言えないだろう。この間突きつけられた、冷たい銃口を思い返す。そうとは思えないほど、彼は穏やかで、悠々と語っている。


『僕は彼女を庇うために来たわけではありませんから』


 ざざ、とノイズが入る。マリアが訝し気に、しかし『ハッタリを』と呟いたのが聞こえた。――沖矢の言葉は、嘘じゃない。何故だかそう確信できる。根拠は、ない。ただ――あの日の、沖矢の誓いが。私がヒーローでいる限り背を支えるという彼の誓いが、私に確信を持たせてくれる。

『まあ良いわ。どのみち、貴方にはその正体を明かしてもらって、消すつもりだから』
『ああ……昨日来た、あの怖い彼のことですか?』
『それまで精々、動かないでいることね。頭を貫かれたくなければね……』

 コツン、コツン、とヒールが鳴る音がする。部屋を出ていったかは分からない。扉の音はしなかった。しかし、会話はひとまず終わったようだ。私はその音を、神経を研ぎ澄ませて聴きながら考えた。
 すると、先ほどのヒールとは別のノイズのような――違う。マイクを手でたたくような音がした。ブツ、ブツッ、と、まるで盗聴器に直接ぶつかるような音だ。

「昴さん、盗聴器に気づいたんだ」
「じゃあこれ、沖矢さんが……」

 規則的な音、何度か連続して、そのあと空白を空けてもう一度。

「何の音だろう?」
「モールス信号……じゃない。なんだろう。百花さん、分かる?」

 私はふるふると首を振った。何だろう――。よく聞いていると、その音は何度も同じ回数を繰り返している。きっと何か意図があって叩いていることは分かる。ただ、どうやって解読したら良いのかは分からない。コナンが、私のほうを強い意志を篭めた瞳で見上げた。

「さっきの昴さんの言葉――きっと、百花さんが自分を追ってきたことを分かってたんじゃないかな?」
「……私が」
「うん。きっと、そういう人だって……分かってたんだと思う。だから、これは百花さんに宛てた暗号だよ」

 ――ユキが、そうだったように。私に託されたのなら、私は。もう一度、音に耳を澄ませる。 二回、八回、三回、三回、八回、一回――。繰り返されるのはその音の数。私に向けられたメッセージ。ならば、私が解かないと! 他の誰でもなく、私が。