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 繰り返される同じ音に、私は深く考え込んだ。風が冷たく髪を撫でつけていく。日差しはこの季節にしては暖かで、冷えた体を優しく包んだ。穏やかな気候だというのに、今の私にとってはその木のさざめき一つすら邪魔で、できるだけ情報をその音だけにしたくてゆっくりと瞼を落とした。

 二回、八回、三回、三回、八回、一回――。

 何度数えても、その音の回数は変わることがない。きっと何か意味があるはず。私に送った物だとすれば、私にしか分からないものが。
 考え始めてから三十分は経っただろうか。コナンも私の隣で考えてはくれているが、同じように深く考え込んだままだ。その間も、音は変わることなく繰り返されている。彼が一体どんな気持ちでそれを繰り返しているのか、気持ちばかりが急いてしまう。早く、早く気づいてあげないと。早く、彼が何を示しているのか。じゃないと、過去のユキのようになってしまうのではないかと。


「あれ、音が変わった……」


 コナンが呟いた。今まで規則的に打っていた音が、ふと変わった。二回、一回、六回。
「ニ、イチ、ロク……」
 先ほどよりも音がゆったりとスピードを落とした。私の思考を落ち着けさせるような、優しい音だ。そうだ。落ち着くんだ。

 沖矢が言っていた。解かせる気のある暗号には、何らかの鍵が存在していると。今彼が暗号にして送っているのは、きっと近くにいるマリアや彼女の仲間に聞かれることを隠したいからだ。声や行動では、それを抑制されてしまうのだろう。
 だから、彼らが万一にも気づくような暗号ではいけない。こちらにいるのが、コナンだと分かっているのなら――彼が言うように、私だと分かっているのなら。鍵はこちら側にあるはずだ。

『だから、これは百花さんに宛てた暗号だよ』

 ――本当に?
 本当に、私に宛てられたものなのか。私でなくて、やはりコナンへのものではないのだろうか。考えても鍵など浮かばない。第一私は彼から所在を聞いてもおらず、聞いていたのはコナンのほうだ。

『僕は彼女を庇うために来たわけではありませんから』

 沖矢は、私を庇うために訪れたわけではないと話していた。私の予想とも、安室の言っていたこととも異なる。なら、どうして危険を承知でここを訪れたのだろう。沖矢には本当に関係のないことなのに。彼ほどの人ならば、どうせならあのまま海外へ行ってしまえば身も隠せたかもしれない。

 あの言葉は、嘘じゃない。嘘には聞こえなかった。

 庇うというよりも、どこか自信に満ちた――。まるで、こちら側に聴かせるようにも思えたかもしれない。

「ニ、イチ、ロク……」

 駄目だ、自信を失うな! 私が解くと決めたのだから、最後まで考えるんだ。きっとどこかに鍵があるはずだ。もしかしたら私しか知らないような――……?

「……216じゃない。02106……?」

 以前も沖矢と、今のように謎解きをしたことがある。数字の羅列を思い出した。もし私の予想が正しいのなら、間に正しくゼロを挟むことができれば、メッセージを読み取ることができる。ポケベルだ。ユキのコラムブックを解いたときの、暗号の解き方。私と彼だけが知る、ユキからの鍵。

「……待ってる」
「待ってる?」
「02106! 待ってる、って意味……多分、そうだと思う!」

 きっと、私が焦っていることを察して彼はそう打ったのだ。
 私は慌ててもう片方の暗号を考えた。コナンに「ペンと紙持ってる?」と尋ねると、彼はメモ帳とボールペンを手渡してくれた。そこに数字を羅列させる。問題はどこでゼロを挟むかだ。ゼロは音にはならないから。

「最初にゼロだとヲから始まっちゃうから、アルファベット……? なら、二八はアルファベットのHだから……」

 二桁になるように、間にゼロを挟み込む。何度か書き直しながら、頭の中にある早見表と比べた。


「28、30、38、10……。H、O、M、E」
「ホーム……家?」


 コナンも私のメモ帳を覗き込み、首を傾いだ。私も同じように首を傾げてその単語を眺める。家って、何が。そんな疑問が頭を過ぎったからだ。けれど、すぐに思い立った。鍵は私に託されていた。ならばメッセージも私に向けられたもののはずだ。


「家……私の、家!!」


 私はそう言い切ると、立ち上がってバランスを崩しながら坂道を駆け下る。コナンが私を引き留めるように声を上げたけれど、今度は止まることができなかった。ひたすらに走って、走って、喉が乾いてヒリついた。

 私の家は、ユキの家と橋を挟んで向かい側にある。コナンが盗聴器を飛ばしたのは二階だった。位置的に、ユキの部屋だ。知っている。私の部屋から、彼女の部屋がよく見えることを。何度も何度も、その部屋から彼女の部屋の灯りを眺めたことを。

 それは例えば――もしも、銃器のようなもので狙われていれば真っすぐ向かい合うことができることも。

 私は自宅の勝手口の窓から家の中に入る。この場所はいつも窓が開いている。物騒だから締めてと言うのだけど、両親はもし鍵を忘れた時のために――なんて呑気にしていた。だから、いつも開いている。

 靴をその場に置き、足音を潜めて階段を昇る。馴染んだ部屋に踏み入ろうとすると、部屋の中から足音が聞こえた。恐らく向こう側にいる人物は靴を履いたままなのだ。私の部屋はフローリングだから、その音が大きく響いた。

 ぐっと扉を押し開く。
 扉の向こう側に気配を感じたので、いっそ扉を思い切り当てることができれば――。私はそんな思いで勢いよく扉を向こう側へ押し出す。影が目の前を過ぎった。予想は当たってくれたのか、ゴンっと鈍い音がすぐ傍から響いた。

 一瞬怯んで後ずさった腹に、私は道場で習った型を思い出しながら拳を叩きこんだ。しかし、どうやら衣服の中に何か着こんでいたのだろう。全く拳は入らずに、そのまま男らしい腕が私の体を羽交い絞めにする。

「いっ……」

 その腕の力の強さには顔が歪んだが、力量差がある時の戦い方は、蘭から沢山教えてもらった。腕を掴んで自分の顎が当たるように位置を調整する。首が締まってしまわないためだ。鳩尾は駄目だった。なら――!

 私は拳をなるべく素早く、背後に立つ男の鼻面へと振り上げた。一瞬で良い。怯んで力が抜けれくれれば。先ほども扉はきっと顔に当たっていたはずだ。がんっと恐らく鼻だろう位置に裏拳が当たる。腕に噛みつき、力が抜けた男のふくらはぎに足を掛けた。ぐるっと足を払うようにして、緩んだ腕から離れた時――。重たい足音が聞こえた。コナンのものではない。まさかと一瞬扉に意識が向いた。その視線を逸らした一瞬で、離れたはずの男が拳を振り上げるのが視界に入った。


「頭を下げて!!」


 反射的に、私はその場にしゃがみ込んだ。
 重々しい足音がフローリングに踏み込み、そのまま潔いほどのストレートが私の頭上を通り過ぎる。まともに見えていなかった外人らしい目の前の男は、ふらふらと目を白く剥いて背後に向かって倒れ込んでしまった。私の扉や裏拳なんて比にならないほど重たい一撃は、もしかしたら鼻の骨くらい折れてしまったかもと思わせる。

 ゆっくり息を整えて立ち上がると、人相の悪い表情が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「あの子と別々に行動するのが見えたので、心配で……」
「あ……ありがとう。助かりました」

 怖がらせないようにと思ったのだろうか。がしがしと男にしては長い髪を掻きながら、アンドレは腰を屈めて私の体を立ち直らせた。ようやくのことコナンがぱたぱたと軽い足音で駆けつけて、私の名前を呼ぶ。

「もう……ビックリしたあ……」
「ごめん、カっとなっちゃって……」
「百花さんって意外とそういうところあるよね」

 コナンははーっと重たくため息をつくと、苦く笑った。その表情は、やっぱり子どもらしからぬように見える。私は一度ゆっくり息をつくと、部屋の窓へ向かう。自分の部屋には見合わないライフルが立てられていることに、おぞましさを感じる。ぐっと息を呑み、カーテンを開けてユキの部屋を見た。揺れるカーテンの向こう側と目があったような気がする。


『――了解した』


 コナンの持つスピーカーから、沖矢の淡々とした声が響いていた。