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 沖矢の声が響いたと思えば、カーテンから透けたシルエットが動いた気配があった。スピーカーの向こうから物音がする。その後、がんっと鼓膜を破るような銃声は――向かいの家から直接響き、少し遅れてスピーカーから同じように反響した。

『へえ、やっぱりただの大学院生じゃないでしょう。そんなもの隠し持ってたのね』
『……まあ、護身用にね』
『護身用に持つには物騒なんじゃない?』

 私たちはハラハラと、部屋の窓から向こう側を覗きその会話を聞いていた。時折女の苦し気な声色がするあたり、形成は沖矢が優位だと思って良いのだろうか。ここからだと、カーテンに遮られて僅かなシルエットのみが窺えるので、ひどくもどかしい。今すぐ大丈夫かと尋ねたいけれど、ここからじゃ声は届かないだろう。

 その後、ざざっと大きなノイズがして、スピーカーからは音が消えた。どうやら盗聴器そのものが故障したのか、破壊されたのか。コナンやアンドレの顔色を見上げれば、決して悪い風ではなかったので、恐らく破壊したのは沖矢なのだろう。

 アンドレは腰をあげると、伸びた男を捕縛し始めた。コナンもコナンで、何やら誰かと連絡を取っているようで、私はまだドクドクと鳴る鼓動を感じながらユキの家を眺めていた。銃声はこの辺りに大きく響き渡ったから、そのうち人が集まってくるだろうか。家族が留守にしていて助かった。

 ――これで、沖矢さんとも会えなくなるのか。

 そう思うと、当然とは言え寂しい気持ちはある。けれど、誇らしくもあった。あのメッセージが私に向けられていたこと。私が来るはずだと、彼が信じていたこと。その期待に僅かでも応えることができたこと。
 
「邪魔って思ってたわけじゃなかったんだね」

 良かった。以前、家に来るなと突き放された時に感じた無力感をようやく拭うことができた気がする。あの時のように、一人項垂れる彼を見るのはもう御免だ。本当に、良かった。

「……?」

 そう、安心したはずなのに。ホ、と息をした口から、吐息が零れることはなかった。ドクドクと、鼓動は嫌な脈を打ち続ける。私は胸元に手を当てながらその妙な早鳴りに首を傾ぐ。不整脈にでもなってしまったみたいな、奇妙な感覚だ。
 何か、まだ不安が残っているような気がする。心に靄がかかったように気分が晴れない。どうしてだろう。沖矢がひとまず無事だったのだから、それで良かったはずだ。

 ふと、道城のことが気に掛かった。

 そもそも彼女の家だというのに、その姿が見当たらない。車はあるから、家を越したわけではなさそうだ。彼女たちと関わりたくないから、姿を隠したのだろうか。やけに胸騒ぎがした。道城はユキのことを愛していた。恐らく自分の身以上に、彼女のことを娘として見ていたことだろう。
 私があの手帳を持って行ったときにも、『あの子が浮かばれない』と口にしていた道城のことだ。そうでなかったら、とっくにユキの命はマリアたちのいる何らかの集団へ手渡されていただろうから。

 嫌な予感がする。胸がざわっと粟立つようで、脳裏にユキの死に顔が過ぎった。血色を失った顔や、虚ろな瞳、冷たく固くなる指先。

 なんで、今そんなことを思い出すのだ。
 沖矢は助かったじゃないか。現に、コナンやアンドレだってこんなに落ち着きはらっていて――。きっと最近物騒なことばかり立て続けに起こったから、神経質になっていたのだ。そう、大丈夫。別に何てことないはずだ。

 それでも私の視線は、彼のいるはずの部屋から逸らすことができなかった。
 悪い虫の知らせのような、妙な予感がずっと胸をざわめかせている。ドクッドクッ、と血が巡る音が頭を占める。それに混じって、僅かな電子音が――。いや、聞こえるわけがない。

 タイマーのような音が、鼓動の奥から聞こえている。

 ここからユキの家まで、橋を挟んで何メートルあると思っているんだ。まさか、あったとしても私の家のはずじゃないか。爆弾、なんて。おぞましい単語が過ぎるのは可笑しいのだ。

 
 瞬きを忘れた瞳が乾く。ゆっくりと視線を持ち上げて、私は息を呑んだ。ちょうど窓の死角、桟のすぐ真下あたりに、今まで知っているユキの部屋には見覚えがないものを見た。ここからではそれがフェイクなのかどうか、確かめるほど鮮明には見えなかった。けれど、私の体はそれを確認する前に動いていた。

 体を動かす私と、第三者のようにそれを傍観する頭の中の私がいる。

 頭の中の私は、「やっぱりカっとしやすいんだから」と私を見て呆れているような気がした。コナンたちが私を呼ぶ声さえ、鮮明に聞こえていた。けれど、体は止まらない。窓を越えて、二階から足場もない駐車場へ飛び出した。


「いっ……」


 着いた足が鈍く痛む。妙な方向に足が曲がったせいで、苦痛に顔が歪んだ。それでも私は足を叱咤させて走った。「沖矢さん!」思い切りその部屋に届くように叫ぶ。たった一本の橋がひどく長い。足の痛みすら、次第に感じなくなってきた。

 道城は、彼女のいた痕跡ごとつながりを消したかったのだ。ユキを、ただの一人の女の子として。自分の一人の娘として終わらせてやりたかったのだと思う。

 きっと道城も沖矢のように、マリアたちが、ここに戻ってくるのを見越していた。私の両親もここから離してくれたのだろう。

 でも、駄目だ。だってあそこには沖矢がいる。駄目、駄目――そんなの、駄目!
 行かないで、置いて行ってしまわないで。もう二度と姿を見せなくたって良いから、いなくなってしまわないで。

「沖矢さん……ッ!!」

 駆けあがった階段の先で、私はその姿を視界に捉えた。その一瞬の隙をついたのだろう、マリアの手が何かを取り出す。痛む足を踏み出して、彼女と沖矢の間に飛び込んだ。これが足を動かせる最後の一歩だと自分でも自覚できた。

「――やめろっ!」

 がなるような叫びは、沖矢のものだった。
 狭間に差し出した腕に、先ほどとは異なる刺すような痛みが走った。マリアはすぐ驚いたように手を離して「貴方」と身を引く。美しいと形容しても余りあるほどの顔立ちに傷が走っている。沖矢が、やったのだろうか。

 カラン、転がった音に視線を持ち上げると、僅かに液体を零した注射器が見えた。ぼんやりとした視界で、腕の痛みの理由を察する。


「――百花……さん……」

 
 ぽつん、と零すように沖矢が名前を呼ぶ。その一言が嬉しかった。良かった、彼に名前を呼んでもらえて。私は僅かに腕の痺れを感じながら、沖矢のほうへ視線を向ける。

「沖矢さん、窓の外……」
「窓の外……?」
「たぶん爆弾じゃないかって思うんですけど……腕上がらなくて」

 指を指そうとしたものの、腕の力が抜ける。正座のあと、血行が悪くなってしまった感覚に似ていた。へらっと笑うと、沖矢がガタっと慌てたように私のほうに詰め寄った。

「百花……」

 その色素の薄い瞳からは、涙は零れてはいなかった。しかし、どこか泣いているような表情で、私の持ち上がらない腕を支える。そんなことをしている場合じゃないでしょう、早く爆弾を何とかしないと。

 早く、何とか――。

 ぴくぴくと瞼が細かく痙攣した。彼の苦しそうな表情がぼんやりとしたフィルターに掛けられていく。力が入らなかった。口の端から、飲み込めなかった涎が垂れてしまう感覚があった。こんなところを見られたくはないなあ、と第三者の私が思っていた。

「頼む」

 懇願するような声色が、私の意識を引き戻す。彼は擦れた声で、大きな手のひらを私の頬に添えた。

「置いて、いかないでくれ」
「……はい」

 まるで、告白のようだった。彼がずっと口にしなかった心の言葉は、例えは好きだとか愛してるだとか、そういった言葉よりも深く心の奥に落ちる。私はその告白を受けるように、笑って頷いた。口元も上手く動かせなくて、上手に笑えていたかどうか――、それだけが気がかりだった。