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 ゆったりと、胸の上下が薄くなっていくのを見て、血の気が引いた。その後ぐわっと頭のてっぺんまで昇るのではないかというほど怒りに目の前が滲んで、怪訝にこちらを見つめていた女の首元を引っ掴んだ。ラバーで掴みづらいシャツは、指先から擦り抜ける。それを掴みなおして、引きちぎれんばかりに握りしめた。

「言え、何を打った」

 奥歯が砕けそうな怒りを抑えているつもりだったが、自分自身飛び出した声の殺意に些か驚くほどだ。もし毒だとすれば、早く解毒剤を用意しなければ――。もし致死量だったら――そう考えただけで鼓動が五月蠅く脈打った。
 やはり、彼女を突き放すべきだったのではないか。
 自分の決めた行動を後悔するほどに、力なく横たわる細い体に嫌な予感が止まらない。知っている。つい先日まで明るく振る舞っていた影が、俺を呼ぶ声が、跡形もなく消えてしまう恐怖を。自分のした愚かで軽はずみな行動が、まるでその見せしめのように大切な物を奪っていく呪いを。

「ッ、言え!!」

 その華奢な首が締まろうとお構いなしに怒鳴り散らすと、それを咎めるように小さな手が背を引っ張った。その顔馴染みの少年がこの部屋に訪れた事さえ、この時初めて気づいたものだ。
「昴さん、駄目だよ! それじゃ喉が潰れちゃう……」
 鋭い声が、いつもと様子を変えて俺を叱咤するように告げる。漸くのこと目の前の女の顔色の悪さに気づき、俺はその体を放り投げた。

「もうこのことには関わらないから、手を引いてくれない?」
「……この研究が、これ以上リークされないって保障があるわけ?」
「する。じゃないと……僕じゃ、昴さんには勝てないから」

 女はそのブロンドを掻き上げると、ハアと大きくため息をついた。俺は未だに煮えたぎる鬱憤を消化できないまま吐き捨てた。

「爆弾を仕掛けられているようだ。きっとお前もこの家も諸共、組織の関りを消すつもりだったんだろう」
「……成程ね。良いわ。打ったのはスキサメトニウム――致死量までは注入してないから、安心しなさい」
「……筋弛緩剤か」

 確かに、その注射器を見る限り注入の途中で手を引いたせいだろう。三分の一もいかないところでポンプは止まっている。彼女は部屋をぐるりと見渡すと、踵を返した。恐らく、この家の近くで家が燃えるその時まで監視していることだろう。

 俺は高槻の体を抱きかかえて、少年と共に部屋を後にした。その去り際に、彼女と親友の映った写真を一枚だけ拝借する。彼女への餞別には丁度いいと思った。

 以前より、些か筋肉はついたかもしれない。彼女を抱えるのは、いつだかその体を負ぶったとき以来だろうか。あの時はまだ、臆病な瞳をする女だった。人の命を奪われることに――それ以上に、自分の身に危害が及ぶことに怯えた姿を覚えている。

 それで良い。それが普通だ。
 人間、ひいては動物は自分の身を守ることが本能だから。しかし強くなりたいのだと泣く彼女を、どうしてか放ってはおけなかった。人を守りたいと本能に逆らう女を見るのは、これで三度目だ。

「……自分のことだけ、考えてくれたら良かった」

 こんな幻のような、架空の男など――いつか消える沖矢昴のことなど。忘れてくれと、切り捨ててくれと。そう思う反面、それでも頑なに自分のことを追う彼女に――救いたいと涙する彼女に惹かれていたのも事実だ。
 最初、彼女がベルモットたちに関わってしまったことを知ったとき、どうしようもなく心が焦れた。酒でも煙草でも気が紛れないほど気が気でなくて、俺はまた同じことを繰り返したのだと思った。深く関わってしまったことを悔いた。

 ペンダントの下に残った赤い跡に、ぱんぱんに腫れてしまった左足首に、注射針の痕が残った右腕に視線を走らせた。順繰りに、一つずつ、丁寧にキスを落とす。

「最低な男だな、俺も……」

 車の助手席に寝かせた彼女の髪を掬って小さく笑った。笑ったのは、自身への嘲笑だ。本当に最低だ。下衆な趣味をしていると思う。――こんな傷の一つ一つを、愛おしいと思ってしまうとは。傷の一つにすら自分の影を感じることに、喜びを感じているとは。

『最悪な女でしょう?』
『――……言わなきゃ分かんない?』

 宮野明美と高槻百花は、似ても似つかない顔つきをしていた。
 パっと一見した限り、恐らく十人中九人は宮野明美を選ぶだろう。明るく、零れる日差しのように美しい女だった。百花は対照的に、控えめで涼やかな――しかし、瞳の奥にどこか強い光を宿すような。その光が心の奥底までを貫くような美しさがある。
 そのくせに、その笑顔だけはよく似ていた。どこか泣きだしそうで、自分の為だと言いながら自分を犠牲にするような道しか選ばない。その愚かさを馬鹿にしていた。しかし捨てきれなかった。
 
 
 ――だからこそ、彼女に背を追うことを許してしまった。
 俺を救いたいという愚かな心を、見下げると同時に一筋の光を覚えていた。本当に、愚かな夢だ。

「……終わりにしなければな」

 静かにその頬に唇を落とすと、瞼がぴくっと蠢いた。瞼がゆっくりと持ち上がり、ぼんやりとした視線が俺の顔を捉える。決して上向きではないが長い睫毛は、彼女の目に影を落としていた。

「おきやさん……」

 まだ上手く回らない呂律が偽りの名前を呼んだ。俺は薄っすらと沖矢の表情で笑みを浮かべると、その唇が触れた場所を拭うように撫でた。

 ――これが最後だ。
 そう思う割に、自分の指先も心も、彼女への未練をたっぷりと残している。だが、やることがあった。宮野明美への、せめてもの贖罪だ。許されるとは思わないが、守る人がいる。その為には、彼女から離れるべきだ。

「置いて、いきませんから」

 ぼやけた視界を、幾度も瞬いて何度も俺を捉えた。僅かにその口元を微笑ませて、変装用のマスクを撫でた。暖かかった。そのマスク越しにも伝わるほど、ぼんやりとした温さが頬を包んだ。

「……本当に馬鹿な人だ。まだ僕のことを考えているんですか?」

 ふと、思わず笑いが零れてしまった。気を失う前に俺が言ったことを、きっとずっと根に持っていたのだろう。彼女らしいと言えば、彼女らしい。俺が笑ったのを見てか、彼女も少しだけクスっと笑った。

「当たり前です。だって、私……」

 それから少しだけ躊躇するように視線を逸らし、数秒。意を決したようにその瞳に僅かな光を灯し、こちらを見上げた。顔色が悪いというのに、彼女が照れているというのが噤んだ唇から分かる。


「……好きなんです。沖矢さんのこと」


 そう言葉にさせるのに、どれだけの勇気を使わせてしまっただろうか。
 しかし、「ありがとう」としか返せない自分が憎らしい。高槻は少し諦めたように――そして、呆れたように息をついた。分かっているとでも言いたげな風だった。

「もう伝えられなかったことを、後悔したくなくて」
「……僕のことなど忘れて、良い人を見つけた方が良い」
「ふふ、沖矢さんより良い人を見つけられたらそうします」

 そう細い肩を竦めた。ああ――好きだと思ってしまった。彼女のことが好きだ。

 幸せになってほしいと願う反面、自分以外の男と愛を交わすなど御免だという欲が胸に渦巻いてしまう。どうか俺のことだけを見ていてくれないだろうか。一生俺のことだけを追ってはくれないだろうか。

 そんな欲が、一つの言葉を吐かせた。瞬きをゆっくりと、眠たげにする彼女へ。あの日誓った言葉を一つ繰り返した。

「すべてが白日のもとに晒された時――必ず、君ともう一度はじめるよ」

 そう落とした言葉は、彼女には聞こえただろうか。瞼を閉じてしまったその寝顔に、届いたのかどうかは、俺には定かでなかった。