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 夢を見た気がする。
 暗い空にいかずちが走る。唸るような雷鳴があたりを轟かせた。暗い室内、クラスを囲むようにして子どもたちが陰気に笑っている。ただ、その中央に立っているのは私ではなかった。低すぎる机と椅子に見合わない、すらりと大きな体躯がただただ立ち尽くしている。

「……沖矢さん?」

 私が声を掛けると、沖矢は穏やかな笑みを湛えながら振り返った。雷の音も、子どもたちの嘲笑も何も聞こえていないように、ただただ穏やかな笑顔だった。
「おや、百花さん。奇遇ですね」
「……これ、沖矢さんには聞こえてないんですか」
「コレ、とは――。コレのことかな」
 沖矢はそっと肩口に触れる。そのジャケットには、重たく女性の手が圧し掛かっていた。誰の物かは分からない。美しい指先だと、それだけは分かった。見るからにおぞましい青白い肌に、私は顔を顰める。

「怖くないんですか」
「恐れるもなにも、身から出た錆びですから」
「……怖いって、思うことも許されないんですか」

 尋ねると、彼は黙りこくった。一向に答えることのない噤まれた口元に、私は一つ息をついた。それから、彼のすぐ横の席に腰を下ろす。沖矢はやや驚いたように、レンズの奥の瞳を見開いた。

「……怖く、ないんですか」

 今度は、沖矢が同じように尋ねかけた。
 雷は嫌いだ。人の悪意も、自分がその中央に立つことも苦手だ。怖い。恐ろしい。

「怖いです。でも、怖いことを怖いって、いやなことをいやって、思っても言っても良いんです。ユキの……受け売りですが」

 昔から何度も何度もそう言われていたのに、ようやくのことその言葉の意味を理解できた気がする。私も、今ならそう言葉にできる。

「だから、沖矢さんが怖いというなら、私ここにいます。それを拭ったりすることはできないけど、一緒に傷ついて、嫌だと言うならここから連れ出します」

 立ち尽くす彼の手をそっと握った。彼は無言のまま、静かにその場で息をしていた。まだ雷は鳴っている。人の悪意が笑っている。それでも、決してここから逃げ出そうとは思わなかった。沖矢が――私の好きな人が、そこにいるのなら。私はずっと、ここにいようと思った。



「すべてが白日のもとに晒された時――必ず、君ともう一度はじめるよ」



 それは、夢の中の言葉だったろうか。
 それとも、沖矢の言葉だっただろうか――。瞼を持ち上げたのは、枕元でスマートフォンが震えていた所為だ。目覚ましのアラームかと思ったが、違う。どうやら電話が鳴っているようだった。
 ウウン、と唸りながら目を擦り、電話に出る。私が名乗りを終える直前に向こうから「ああ、繋がった!」と安心する声が響いた。

『高槻さんのお電話ですか? 警視庁人事部の者ですが……』
「えっ、あっ! す、すみません!」

 私は急に冷水を浴びせられたように飛び起きて、背筋を伸ばした。もしかしなくとも、と時計を見れば面接の時間はとっくに過ぎている。時計はもうすぐ七時を回ろうとしていた。沖矢を追った時点で諦めてはいたが、まさか連絡も寄越さず放りなげてしまうとは――。
 私が目いっぱい謝ると、電話の向こうの男は困惑したような声色で続けた。

『いえ、そうではなく……。もしかしてメールやニュースもご覧になっていませんか?』
「メール……ニュース……?」
『実は人事部の中でとある不正が発覚しまして、本日の面接の日程がすべて変更されたんですよ。急なことでしたので、念のため皆さんにお電話をと……』
「そう……だったんですね……」

 その後、面接の日程と時間など事務的な連絡を受け、私は電話を切る。気になってニュースをつければ、見出しには【警視庁の闇……!? 何故今になって発覚か】とサブタイトルが並んでいた。ホっとしたような、なんだか複雑な気持ちのような。力が抜けてしまって、私は長いため息をついた。
 ぽり、と項を掻いたときに、指先がペンダントのチェーンに引っかか――らない。私はバっと首元を弄った。慌てて横たわっていたベッドシーツも捲って探したけれど、どこにもない。そんな、まだ新しいから、チェーンが自然に切れるなんてことはないはずなのに。
 虚しくなった首元をなぞりながら、ぽつりと彼を呼んだ。返事がないことは分かっていた。

「……沖矢さん」

 彼は、もういないのか。じわりとその実感が身を焦がす。その日はそのままシャワーも浴びず、泥のように眠った。泣きたくなるような気持ちになる前に、早く意識を失ってしまいたかった。

 兎に角体が怠くて、目が覚めたのは次の日の十一時。いないと分かっていても何となしに工藤邸に歩みを進めた。別に期待をしていたわけではなく、本当に何となく――彼の痕跡を目にしたかったのだと思う。

 ぼんやりとした足取りで工藤邸の前に立ち尽くしていた。
 灯りはついておらず、カーテンは締め切られている。沖矢の車ももうそこにはなかった。暫くそうしていたら、背後から私を呼ぶ声がした。ゆっくり振り返ると、有希子が心配そうに私を窺っている。

「あ、すみません……! 人の家の前で……」
「ううん、良いのよ。良かったら上がっていく? 昴さんはもういないけど……」
「聞いています。ありがとうございます」

 彼女の言葉に甘えてその拾い邸宅に上がる。
 玄関には有希子の物だろうヒールが、しっかり端に寄せて揃えられていた。聞き馴染みのある大きな柱時計の秒針。客間の灰皿は綺麗に洗われていて、酒瓶の一つすら見当たらなかった。よくもまあ、たった一日――否、半日ほどでここまで跡形もなくせるものだと他人事のように感心する。

 沖矢昴とは、一体何者なのか――。

 きっと、隠していることが沢山あったと思う。けれど、それを追求しないことが江戸川コナンとの約束であった。それが彼のためだと言っていた。

 ただ、ここまで綺麗に生活感の欠片もないと、なんだか私の夢の中の話だったみたいにも思えた。そんなはずはないのに、とも思う。彼がどこへ姿を消したのか、気にならないと言えば嘘になる。けれど今私がすべきことはそうではないことを知っている。

「そ、それにしても急だったわよね〜。まったく、こんな可愛い子を置いてどこいっちゃったんだか……」

 有希子がアハハ、と苦笑いしながら紅茶を運んできてくれた。私はその言葉に振り返りながら、首元をなぞり――少しだけ笑った。

「本当、そうですよね」

 へらりと笑うと、有希子は少し意外そうに目を瞬く。我ながららしくないことを言った自覚はあった。本当は、これっぽっちだって自分を可愛いとは思っていない。それはこの家にいない沖矢への精いっぱいの皮肉じみた言葉であった。数秒後、やっぱり恥ずかしくてほんのり頬を熱くすると、有希子はぎゅうと私を抱きしめた。

「あ〜ん! もう、今日は飲んで飲んで飲みまくるわよー!」
「あはは……紅茶をですよね……?」

 有希子はまるで自分のことのように、沖矢との別れを悲しんでくれていた。話を弾ませるうちに、優作との馴れ初めだとかプロポーズだとかの話も織り交ぜてくれた。それから、高校生らしい息子が可愛いという自慢話。噂程度にしか知らなかったものの、彼女の嬉しそうな姿を見るのは気が紛れたし、嫌ではなかった。

 日の暮れが近づくと、私は席を立ち明日はバイト先に挨拶にいかなければならないからと伝えた。安室に次いでで申し訳ないが、バイトはもともと試験が終わるまでと決めていた。もし合格すれば、すぐに寮生活に入ることになるので、マスターにも話は通してある。

 誰か代わりの人を見つけられると良いのだけれど――などと考えながら広い玄関に出ると、有希子は何やらソワソワとした様子で両手の指を絡めていた。私が「あの」と尋ねかければ、彼女は「ちょっと待ってて」と言い残してパタパタと階段を駆けていく。私は靴の踵を直してからその姿を見送った。

 暫くして戻ってきた有希子は、手元に抱えた本を一冊私に手渡した。シンプルな黒い合皮の表紙。ぱらっと中身を見ると、すべて英文で書かれていたので読み取りづらかったが、頁冒頭に書かれた日付だけは読み取れた。どうやら日記帳のようだ。

「……主寝室にね、それだけ置いてあったの。本当は、忘れた方が辛くないのかなって思って……。でも、やっぱり貴方の手元にあったほうが良いわよね」

 名前は書かれていなかったが、有希子のその言葉だけで沖矢の物なのだと分かった。抱えたら、ほんのり煙草の香りが染みていた。私はその日記帳を抱えて、緩慢な足取りで工藤邸を出た。

 一歩、一歩。歩くたびに鼓動が早く鳴る。気づけば歩調も足早に、私は自室まで駆けていた。それだけが、彼がいたことを記す全てな気がして。早くこの感情を夢ではなかったと思わせてほしかったのだ。