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 彼の英文は思いのほか癖字で、文脈は読み取りづらかった。なだらかな文字を、指で辿りながら一文ずつ目で追った。日記帳の初めは数年前に遡っていた。それにしては、日記帳もインクも真新しい。恐らく当時つけていたものではなくて、最近になって書き直したものだ。
 ところどころ、検閲した後のように黒塗りで単語が潰されていた。私に読まれたくない文だったのだろうか。さだかではない。

 日記帳の一文は、とある女性との出会いから始まっていた。
 A――そう記される女の話だ。人身事故で出会い、知り合い、まもなくして付き合ったこと。それから、その一連が沖矢自身の、然る目的の為に企んだものだったということ。Aという女性が亡くなったこと。それを酷く、酷く悔いていること。
 懺悔する文章は、他の文よりもより乱雑に書かれていた。書き殴るといっても過言ではないかもしれない。 

 It’s my fault.My fault...

 自分の所為だ、と何度も書かれた単語を、顔を歪めながら眺めていた。書き殴られた文章はそこで途切れている。その次の頁からは、日付が飛んでいた。数年後――つい最近のものだ。新幹線に乗って出会った女について――それが誰のことかはすぐに分かった。紛れもなく、私のことだった。

 その一日一日が、この間のことのように私の頭の中にも過ぎっていく。彼の心情はそこまで書かれていない淡々としたものではあったけれど、沖矢の目から見てじゃじゃ馬だとか頑固だとか書かれていたのが少々恥ずかしかった。

 Aの二の舞にならないように、自分が離れるべきだということ。それなのに、どうにか引き留めようとしてしまう自分に腹が立ってしょうがないということ。早く別れを切り出さなければと書かれた日付は、彼がこの家を出ると告げた日と同じであった。

 そして最後の日付――昨日だ。
 彼は私への謝罪と、別れを告げた文を綴っていた。そこの一文だけは、日記ではなくまるで私に宛てた手紙のような文をしていた。


【最後まで見捨てないでくれてありがとう。
 きっと、立派な警察官になれることを保証する。君は立派な人間だ。
 僕にはまだやるべきことがある。僕の為にも、君の為にも、彼女の為にも。
 こうして別れを告げなければいけないことを許してほしい。巻き込んですまなかった。
 君は僕のヒーローになると言ったね。どうかその自信を忘れずに、
 君は君自身のヒーローになってくれ。僕の信じたヒーローは、きっと君を救うだろう。
 いつか、君の活躍を目にできますように。さようなら】


 あまりに淡々とした、かつての書き殴るような文体とは真反対の文章だ。口惜しかった。口惜しくて、苦しくて、涙が止まらなかった。それは決して嫉妬や羨望ではなく、最後まで沖矢にそう言わせてしまった自分自身の力の無さだ。結局私には、沖矢を助けることはできなかったのだと思うと、ひたすらに無力で、ひたすらに口惜しい。

 せめて、自分の所為だと苦しむその手を支えられたのなら――どんなに良かっただろうか。もう少し早く、もう一年でも早く勇気を出していたのなら、彼を支えることができたのではないだろうか。

「ごめんなさい……っ、沖矢さん。ごめんなさい」

 そのカバーに額を当てて、ただただ泣いた。それを慰める人も、涙を拭う人も、背を押す人もいないことは知っている。私が自分で拭わなきゃ、私が自分で、自分の背を叱咤しければいけないのだ。沖矢はもういないのだから。


 涙を零しながら、携帯の予定帳を開く。絶対に警察官になろう。私は――私の為に、これから現れるかもしれない、助けなければならない人達の為に。無力なままの、口先だけのヒーローにはならないように。

 この面接はきっと、神様が与えてくれた僅かなチャンスだ。逃すものか。私は、私の夢を叶えるのだと、その胸に深く誓った。





 ――警視庁公安部。
 男は漸くのこと戻った自らのデスクに深く腰を掛け、ハァと重たくため息をついた。駆り出されたのは良いものの、だからといって自らの仕事が減っているわけではない。当然のことだとは思うのだが、こうも積もった書類たちにため息が零れることくらいは許容してほしかった。

「戻ったのか」
「ふ、降谷さん! いつから其処に……」
「君が大きなため息をつきながら書類をコピーしていた時には此処にいたさ」

 輝くブロンドがちらりと揺れた。この度の残業の最大要因――もとい、男の直属の上司でもある男である。まだ年若いわりに大人びた冷静な視線が、先ほど置いたばかりのコピーに目を通した。

「で、どうだった。初めての面接試験官は」
「どうと言われましても……。不正防止としては見学していましたが、合否の決定権はありませんよ」
「知っている。誰か有望な奴がいれば、そのうち公安にどうかと思っただけさ」

 男は神経質な視線をうんざりとさせて、もう一度大きくため息をついた。しかしながら、この人手不足具合を見るに、有望な人材の一人や二人――否、十人ほど今すぐ補充してほしいとも欲は湧く。疲弊しきった思考で名簿に目を通した。それもこれも、先日この男から飛び込んだ人事部の不正アクセスについての後処理だ。

「にしても、よくこのタイミングで表沙汰にしようと思いましたね。前々から怪しんでマークはしていましたが」
「たまたま¥d要な証拠を掴めたんでね。未来ある彼らの可能性を潰すのも忍びないじゃないか」

 ――忍びないか。
 男は心の中で呟いた。そう背もたれに小さく凭れた降谷の表情は、いつもより少しばかり機嫌が良いようにも思える。とてもじゃないが、そんな私情を仕事に挟むような上司ではないことを、部下である男がよく知っていた。何かのっぴきならない事情があったのだろう。だなどと一人心に言い聞かせ、名簿の中の一つで視線が止まる。

「ああ……この子……」

 男はその名前に見覚えがある。確か先日、降谷の指令でワゴンに乗せて送り届けた女だった。面接の内容も頭によく残っている。降谷は少しだけ眉を動かして「贔屓目はなしだが」と突っ込んだ。「違いますよ」、男は薄い眉を吊り上げて反論する。

「ただ、なんというか……少しだけ、志望理由に惹かれまして。共感してしまう部分があったものですから」
「ホォー……。仕事人間の風見がそう言うのは珍しいな」
「ちょっとくらい若者の思考が眩しく思えることもあるんです」

 降谷がそれで、と促した言葉に、風見は緊張した女の面持ちを思い返す。顔は強張っていたものの、彼女は芯のある強い声で告げていた。声は震えてはおらず、その代わり握りしめた拳がブルブルと震えていたのを覚えている。

『――助けを求めている人に、手を伸ばすためです。強くても弱くても、罪人でもそうでなくても、助けて欲しいと願う人に少しでも手が届く存在になるためです』

 それから、面接らしからぬほんのりとした頬の赤らみを隠すように俯き、今一度キっとこちらを見据えたのだ。



『私――ヒーローになりたいんです』


 意外ではあった。見る限り突飛なことをしそうなタイプでもなかったし、学歴も至って平々凡々だ。ぷるぷると肩を震わせる、しかし瞳の奥にあるキラリと射抜くような光を、面接場の誰一人笑うことはなかった。それは、少なからず警察官を志した者たちの、心のどこかにある願いだとも思える。

「……ヒーローね」

 降谷は、小さく口元を微笑ませた。男はそれが益々意外だった。
 そんな青臭い理由で、と目を鋭くさせるかと思ったのだが、思いのほか彼の声色は柔らかい。

「失礼だな、お前……。僕だって考えたことはあるよ」

 懐かしそうに笑って、降谷はデスクを立ち上がった。いや、そもそも彼のデスクではないのだが。何にしろ、男たちが面接の合否に関わることはない。ただ、男は思う。仮に警察官として彼女が働くのなら、もしかしたら、あるいはと。

「さて、僕は戻る。暫くはコッチに顔は出せなくなるが」
「……分かりました。何かあれば駆けつけます」
「頼りにしてるさ。僕のヒーローのようなものだからな」
「ヒーローって、便利屋じゃないですか」

 また良い様に言って、と男は降谷のブロンドを見送った。降谷は振り向くことなく、大きな褐色の手のひらを一度ヒラリと躱すだけであった。