62

 
 ――三月も末。明日は警察学校の入校を控えていた。
 着校から一週間、体力をつけていたとは言え、やはり体育会系の中に入ればその体力も中の中といったところで、体は筋肉痛と吐き気のオンパレードだ。それでも改めてその制服を身に着けてみると、胸が高鳴った。警察学校の生徒だとはいえ、一応形式上は立派な一警官。地位も給料も与えられる身である。

 寮のポットで淹れたインスタントコーヒーを片手に、自室の学習机に腰を下ろした。早く寝なければと思う物の、こういう緊張に弱いのは昔からだ。どうせ眠れないのだからと、卓上のランプで沖矢の日記帳を眺めていた。テキストに紛れて持ち込んだそれは、家から持ち込んだほぼ唯一の私物だ。持っていたからどう――というわけでもないのだが、一種のお守りのようなものだと思っている。携帯にあるユキの写真と一緒に、私を励ましてくれる。

「……元気かな」

 机に頬を寄せて、おもむろに頁を捲った。もう何度捲ったかも思い出せないほどに読み込んだから、内容は殆ど見なくても把握できる。薄っぺらい一枚の紙は、反対側に書かれた文字列を透けさせた。
 ――きっと大丈夫だよね。
 頭の中に、彼の声が反響する。その声さえいつか忘れてしまうと思うと名残惜しい。ユキのはつらつとした声色も、今はもう中々頭に浮かんでこなかった。

『すべてが白日のもとに晒された時――必ず、君ともう一度はじめるよ』

 あれは夢だったのか、現実か。現実であれば良いと思う。だって、それは彼がもう一度――。私は頁を捲る手をピタリと止めた。

「……この日記、最近書いたんだよね」

 独り言ちる。それは間違いないはずだ。日記帳もインクも新しい。恐らく数年前のものではない。頁が捲れたような跡もなかった。女性の名前をわざわざ隠して表記しているのも、その所為だ。――ならば、何だ。この黒い検閲後のような塗りつぶしは。

 女性の名前をイニシャルで書くくらいだ。私でなくても、いつか第三者の手に渡ることを想定して書いたに違いない! なのに、どうして、隠すべき場所がこんなに沢山あるのだろうか。私に読ませたくなかったから――? にしては、最後の文は紛れもなく私へ向けた文章で終わっていた。


「……全てが、白日のもとに……」


 私は一つ呟くと、頁をランプの灯りに透けさせた。まさか、まさかとは思うけれど。ランプの灯りに透けた黒い塗りつぶしが、その頁のアルファベットを転々と示しだす。まるで蛍光ペンで引かれたラインのようだと思う。

 私は胸が打つのを感じながら、必死にそのアルファベットたちを拾い集めた。メモ帳に走り書かれたそれを、丁寧に元の順番に並び替えていく。――これが暗号だったら、何が書かれているのだろう。
 今の彼の住所? 彼の正体? なんでもいい。何か一つでも、彼の言葉が欲しい。さようならで終わらない言葉であれば、何でも――。


 そのアルファベットを並び替え、視線でなぞった。もう泣かない、と子どもみたいに何度も言い聞かせた言葉が嘘みたいに、剥がれ落ちた鱗のように涙が零れた。私は今度こそ、日記帳をそっと抱きしめる。もう煙草の香りは薄れている。けれど、そこに確かに沖矢のあの頼もしい手のひらを感じた気がする。

「ふ、う……ッ、う、く……」

 ぼろぼろと零れていく涙は、今度は悔し涙ではなかった。ただ、嬉しくて。感極まって目の前をぼやかしていくのだ。最後まで、彼が口にしなかった言葉だった。私の急いて並べたアルファベットから、彼の心が伝わるのだ。


【I love you. Just always be waiting for me...】
【愛している、僕をずっと待っていて】
 
 彼がこの文字を考えるのに、どれほどの勇気を持っただろうと思う。暗号のヒントになるようなあの言葉を伝えることを、どれだけ戸惑っただろう。それは日記の中身を見れば察することができる。
 私は何度も頷いた。誰も見てはいない。聞いてもいないだろう。
 否――煌々と照らされた、待ち受けの中で笑うユキだけが私を見守っていたかもしれない。彼がそう言うのなら、待っていよう。今よりもずっと強くなって、貴方を助けられるようになって待っている。

 もう大丈夫だ。その言葉一つに、どれだけの勇気をもらったことか。
 もう、大丈夫。きっとどんなに怖いことだって、どんなに辛いことだって、一人で歩いて行ける。約束しよう。彼が待っていてというのなら、いつまでも、どこまでも。
 
 私も、もう一度はじめたい。
 今度は偽ることなく、照れることなく、真っすぐに想いを伝えたい。私と一緒に来てくださいと、手を差し出そう。彼の正体が何だろうと構うものか。

 だって、生まれ変われるものなんてないもの。
 過去を引き摺って、これからも私たちは生きていく。だけどそれは決して呪いではない。きっとあの夢の中の美しい指先も、彼の背を押す一つの手だったに違いないのだ。

「……ね、ユキ」

 私は小さく笑いかけて、その日記を手に踵を返す。今は、不思議と眠れるような気がした。コーヒーは――明日の朝にでも、片付けようかな。自分の寝起きの悪さを考えながらも、少しだけそのひと手間が面倒くさいような気がして、ゆったりと固いベッドに潜り込んだ。