Period


「おはようございます! すみません、通ります……!」

 混雑するエレベーター前を潜り抜けて漸くの事目的地に着くと、思い切り重たいため息をつかれた。多分、八割くらいはわざとだろう。しかしこればっかりは、自分の寝起きの悪さが巻いた種なので自業自得だ。
「まったく。君の寝つきの良さと寝起きの悪さだけは一級品だな……捜査資料は?」
「コピーしてあります。すみません、昨日は緊張してしまって……」
 頭を下げながら、コツコツと鳴る大きな革靴の音を追いかけた。眼鏡の奥の三白眼が呆れたようにこちらを見遣るが、反論のしようもないので肩を縮こまらせておいた。今日は大事な捜査会議だと再三言われていたのだが、どうにも気が張ってしまって、昨夜はうまく寝付けなかったのだ。

「まあ昨日まで残業続きだったからな。明日は休みだろう?」
「はい……。いえ、残業はそれほど苦じゃないのですが……」
「それも問題な気がするが……。まあ良いか」

 ――警察学校を無事に卒業し、今年で五年。今目の前にいる背の高い三十後半の男は、風見――私の直属の上司である。面倒見は良い方で、何かと私のフォローをしてくれている頼れる男だ。些か仕事人間なところが偶に傷でもある。
 公安部に所属して二年と少し。まだまだ警察官としては下っ端も良い所だけれど、それなりには忙しくさせてもらっている。

 彼と会議室に移動しようとしていたところ、目の前から歩いてくる見覚えのある影に、私と風見は揃って敬礼した。本庁では目立ちすぎるほどの金髪と褐色の肌――安室透――ではなく、降谷零。彼もまた、警察庁の人間である。
 それを知ったのは、ここに所属して少しした頃だったか。あまりに見間違いようのない風貌なので、まさか双子かと目を剥いていたところ、降谷から「挨拶は?」と厳しい叱咤を受けた覚えが強く蘇る。

「高槻、風見。今日の会議は頼んだ」
「はい。いや、高槻の方は……些か緊張気味ですが」
「フォローしてやれ」

 と、降谷が小さく息を吐いた。
 安室の時とは異なり穏やかな物腰をしてはいないが、やはり根は悪い男ではない。安室透時代のことを持ち出すと「君は今僕の部下だろ」と厳しく言いくるめられるものだから、詳細を聞いたことはなかった。


 今日。私がこれほどに緊張しているのにはワケがある。
 なんでも、数年前――私が未だ警察学校に所在していたころ、警察全体を巻き込んだ大きな捕り物があったらしい。警察どころか、世界的な組織、FBIやらCIAやらMI6やら――。そんな大物たちで取り締まったらしい闇組織。半分冗談かと思うほど、私たち新米警官の中では都市伝説としてまことしやかに語られている。
 しかし、その組織の残党が再び日本で結党した可能性があるとして、今日は例のその――FBIやらCIAやら――たちと、合同の捜査会議があるのだ。日本からも当然、会議に参加をするわけで――。

「うぅ〜……お腹痛い……」
「いつもあんなに豪胆なくせに」
「人前の緊張は訳が違うんです! 元々そういうタイプじゃないですし……」

 人の悪意や恐怖には打ち勝てるよう、自分を強く持っていたけれど、会議の緊張はまた話が別だ。特に今回の会議では、私たちが捜査していた事件の一部が関連したこともあり、事件の報告を一任されていた。

「はぁ……始まる前にお手洗い行ってきても……」
「好きにしなさい。時間までには戻って来いよ」

 顔を青くして訴えれば、風見は仕方なさそうに送り出してくれた。
 流石世界規模、先ほどから本庁の中はいつも以上の人がごった返している。この中で発言すると思うと益々気が遠くなりそうだった。途中で資料を手に持ったままだったことに気づいて、慌てて踵を返そうとした。


「わっ」


 目の前に大きく黒い壁が立ちはだかって、バランスを崩した。その拍子に捜査資料を落としてしまい、私は顔から血の気を引かせた。
「すみません……」
 私が慌ててその資料を拾おうとしたら、目の前に大きな手のひらが差し出された。ストップ、というジェスチャーに、体が止まる。どうやら私とぶつかったのは、この男のようだ。捜査会議だというのに、ライダースを羽織ったラフさを見ると、恐らくだが海外のどこかしらの組織ではないかと思う。顔つきは日系が混ざっているので――恐らく、ではあるが。

 彼は腰を屈めて長い腕で資料を拾うと、すっと私のほうに差し出してきた。
「いや、俺もこんな距離で立ち止まったのが悪かった。過失の割合は50:50だ」
「でも拾ってもらったので、私のほうが少し悪いですね。ありがとうございました」
 にこりと笑いながら資料を受け取ると、男はポケットに手を突っ込んで意外そうに私を見つめた。少し偉そうだっただろうか――お偉い所だったら後で精いっぱい頭を下げておこう。
 そんなことを考えていたら、「高槻!」と風見が後から追いかけてきた。私が資料を持ったままだったことに気が付いたのだろう。風見は私の姿を見つけて駆け寄ると、ハっと男のほうを振り向いた。

「お、お久しぶりです」
「ああ、久しいな。元気にしていたか」
「変わらず……。高槻、FBIの赤井捜査官だ。組織の情報やノウハウをよく知る人だから、頼りすると良い」
「はい。警視庁公安部の高槻警部補です。お会いできて光栄です、赤井捜査官」

 軽く会釈をすると、彼は澄んだグリーンアイを少し微笑ませた。目元には歳が出ている割に、瞳はまるで少年のような輝きで煌めいている。不思議な人だ。
 それから二、三挨拶のようなものを交わして、私は風見とともに踵を返す。振り返る直前に、アっと赤井のほうへ駆け寄った。

「そうだ、申し訳ないのですが、庁内は喫煙室以外禁煙ですので」

 あまり声を大きくしないようにコソリと告げれば、彼はぱっとこちらを振り向く。ニット帽から僅かに零れた癖毛の黒髪が揺れた。

「ホォー……どうしてそう思った」
「だって、ライダースの胸ポケットは膨らんでいて、先ほど拾っていただいた指先には煙草の匂いが染みついていましたから。赤井捜査官が歩いてきたあちら側に喫煙室はありませんし……ここだけの話。あそこって火災報知器の死角でしょう? よくお分かりでしたね」

 くすっと悪戯っぽく笑って見せたら、赤井はつられたようにクっと喉を鳴らして破顔した。それから腕を組んで一通り笑った後、今度は私のほうへ口元を寄せる。

「優秀な刑事殿に、俺からも一つ。さては今日――寝坊してきたな?」
「えっ……」
「歯磨き粉の跡と。ぱっと見、きっちりしているのにブラウスにアイロンが掛かっていない……咥えたまま支度をして、汚した後慌てて着替えたんだろう」

 パチン、とウィンクが飛ばされて、私は面食らった。確かに、その通りだ。推理をひけらかすような男に、私は肩を竦めて笑った。なんだか、彼とは上手くやっていけそうな――そんな気がした。ちらりとグリーンの瞳と目が合って、さっと逸らす。風見が私を呼びつけた。

「はい、今行きます! では……後ほど」

 赤井も軽く手を振って、私はすぐに風見のほうへ向かおうとした。「百花さん」、赤井の声が私を呼んだ。何か忘れ物でもあったか、とちらりと視線だけで振り向くと、赤井は少しだけ目元を細めた。


「いや……――悪かったな」


 小さく囁くように謝罪をした赤井に、私はふるふると首を振った。少しだけ、心が軽くなったかもしれない。FBIにはあんな優秀な捜査官がいるのだ、きっと他の組織にも――。恥をかかさないように、自分のできることをしなくては。

 そう考えながら風見のもとへ駆け寄ると、彼は電話先と何やら慌てたように喋ると、申し訳なさそうに私のほうを振り返った。

「すまない、高槻。駐車場が詰まってしまっているようで……今アナウンスで呼び出してはいるんだが」
「何か国の捜査官たちですもんね……。大丈夫です。今の駐車場の車だけでも、案内してきます」
「こんな時に悪かったな……。先に会議室の準備を整えておくよ」
「お願いします」

 私は苦笑いしながら、先ほど上がってきたエレベーターを下に降りた。それだけ今回の事件の規模が大きいのだと思わせる。風見や降谷は当時直接関わっていたらしい。これは私の推測だが、降谷が安室としてポアロにいたのもそれが関わっているのではないかと考えている。悪い人ではないのだが、取っつきにくい上司でもあるので、口にはしないでおくけれど。

 駐車場に降りると、確かに公道に寄せて外車がズラリと並んでいた。
「うわあ、それはクレーム案件……」
 交通部の人たちに心から頭を下げながら、私はそちらにつま先を向ける。見たことのあるもの、ないもの、あまり車には詳しくないけれど、それでも決して安くはないだろう車が並んでいることだけは分かる。普段は殆どが日本車で見慣れた駐車場なので、どの車も目を引くものだ。

「スポーツカーみたいだなあ……」

 かつかつと低いヒールを鳴らしながら横を通り過ぎる時に、一つの車が目に付いた。真っ赤なボディに、白いラインのカスタム。その鮮やかさにもそうだが――その後部座席に、普段生活しているだけでは目に掛からないものを見た所為だ。

 ただでさえド派手な見た目をした車だというのに、座席には両手に抱えられるかどうかも怪しいほど大きな薔薇の花束が鎮座していたのだ。もちろん、全部赤い花びらだ。ついつい声が間抜けに零れた。
「すごい……何本あるんだろう」
 よく恋人に百本の薔薇を――なんていうが、見た限り百本じゃ済まないだろう。もしかしたら本当にプロポーズなのだろうか。だとしたら、明日の警視庁はきっとその噂で持ち切りになることだろう。

 まあ、愛おしい人への想いが募ってしまう気持ちは分からなくもない。
 私も沖矢に会えたら、花束で出迎えてみようか――なんて考えてから、一人でこっそり笑ってしまった。沖矢の性格を考えると、花束なんて柄じゃない。それでも、貯金を崩して彼の為に一本良いペンをオーダーしても良いかもしれない。今度は、愛の言葉をしっかりと、書き殴らないように綴ってもらうとしよう。

「……ていうか、これ、どうやって持って帰るんだろうなあ」

 きっと今夜あたりに大きな花束を自宅へ持ち帰ることになるだろう、誰か同僚だろう人へエールを送っておく。

 さあ、仕事へ向かおう。私が彼に、彼女に、私自身に――胸を張れるヒーローであれるように。