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「――スコッチ!!」

 悲痛な叫びが、路地周辺に響いた。数秒遅れて、どしゃりと地面にぶつかる生々しい音。辺りは静寂で満ちていたから、きっと屋上まで届いていただろう。

「無駄だ、もう助からんよ。落ちた場所が悪かったな」
「ライ……」
「どうにもアイツは公安の犬だったらしい。あまり気に病む必要はない――……あの調子じゃ、携帯も無駄だろうな。どこのどいつかも分からんとは、狐に化かされたようで気味が悪いぜ」

 カン、カン、と響く足音は、先ほどのものとは打って変わり落ち着いた足取りをしていた。それに続いて、やや焦りを含んだ足音がカンカンと急いたようにビルを降りていく。二つの足音が下に降りたのを確認して、私たちは一斉にハーと長い息をついた。

「っぶな……。ハンモック、でかめに作っといて良かったね」
「お前案外筋肉質で重いんだよ」
「馬鹿、声がデカい。アイツらが死体を運ぶまで待ってろ」

 伊達はちらりとブラインドの隙間から外を覗く。全員で脱力してその場にへたりこむ中心に、一層脱力した様子の男が座り込んでいた。ツンとした目つきを瞬かせて、彼は「ハ」という口の形で数秒――否、数十秒固まっていた。

「高槻さん、松田、萩原、班長……」

 ぐるっと私たちを見回して、訳が分からない風ではあったけれど、暫くするとはっと外を振り向いた。そして納得したように、「そうか、ライと示し合わせてたな」と呟く。こんな状況でもそこまで推測が行き届くのは、さすがと言わざるを得なかった。

「でもどうやって……」
「そういうのは後でね。とりあえず、このビル出ないと」
「危険だ、追手が迫ってるんだぞ」
「大丈夫。良いから行くよ」

 私は彼の手を引いて、無理矢理にビルの裏口から外へと連れだしていく。路地から、言い争うような声が聞こえたが、今は気にしている場合じゃない。よほど頭の切れる者でない限り、土地勘がない限り――このビルに辿り着くまでは時間が掛かるはずだ。他の組織の手が伸びる前に、この場を離れなければ。
 人混みに紛れて繁華街を抜け、暫く道を進むと、ライの言った通り黒いセダンが停まっていた。軽く運転席をノックすると、鍵が開く音がする。

「Get in(乗って)!」

 女の声だ。私たちは言葉の通り、その車に乗り込んだ。いくらセダンとは言え、大の男四人と私だ。やや窮屈さを感じる車内に、松田が不機嫌そうに萩原を押し込めていた。
 閉じこもっていた部屋の冷たいコンクリートの感触から一変し、女性らしい香りが鼻を擽る。鮮やかな金色は、こちらを振り返って視界を揺らした。

「ハァイ。ちょっとドライブ、していきませーんか?」

 ぱちりと美しい色彩がウィンクを飛ばす。そのシートベルトが豊かな胸の間を通っていて、こんな時だというのについ視線がそちらを捉えてしまった。

「あなたが、ジョディさん……?」
「Yes! シュウの頼みとあっては、ヒトハダ脱がないわけにはいかないでしょー」
「すみません、ご迷惑おかけします」
「謝らないで。貴女がどうしてシュウのことを知っているのか……そのトップシークレットが、取引材料なのだからー……」

 彼女はにこりと赤いリップが引かれた唇を綺麗に微笑ませる。ライの――赤井の言うことが正しければ、彼女もまたFBI捜査官だ。どうしても大人っぽい容姿には見えるが、そのイントネーションの妙な日本語が彼女を少しばかり幼く見せた。

「A secret makes a woman woman――と、言いますしねー!」

 語尾にハートでもつきそうな口調は、どこかで聞き覚えがあるような気がして思わず苦笑いが零れる。彼女がアクセルを踏み、入り組んだ道を走り始めると、それまで押し黙っていた口が開いた。

「……一体、どうやって」

 諸伏は困惑した口調で、私たちのことを見回す。まるでパトカーで連行されている被疑者のような肩身の狭さだ。――私は彼の言葉に、ぐっと口を引き結んだ。話すと、決めていた。彼を助けたら、彼を助けるだけの理由が必要だった。

「私は――ううん、俺の話を、聞いてほしい」

 俺の話を、聞いてほしい。
 どうしようもない人生の話を。ほとんど懺悔のように、俺は前世のことを語る。男であったこと、両親に恵まれなかったこと、その中でただ一人妹だけを救うために生きていたこと。その後妹を失ったことも、トラックに轢かれたことも。そして、妹が降谷が生きる映画のファンであったこと。
 諸伏が――スコッチが死ぬことを、妹に聞かされていたことも。
 諸伏は、私の顔を見つめていた。前世とか、さすがに痛かっただろうか。彼だけでない、松田も萩原も伊達も、この話をするのは初めてだ。彼らもただ押し黙って、その静寂を最初に解いたのは諸伏だった。
 彼は、その顔つきを歪めて、どうしようもなく悲痛に満ちたように口元を戦慄かせる。

「それだけで……それだけの為に……」

 と、私の手を取った。ずっと求めていた体温だった。冷たい。やっぱり、指先が震えている。

「そんな、確証のない……! 分かっていたはずだ、高槻さんだって! 仮にそれが予知のようだとしたって、それは情報にすらなっていない! ただの……ただの……夢のようなものなのに……」

 ぎゅうと握りしめられた手に、ぽつりと雫が落ちた。震えている。私はひたすらにその手が愛おしく思えた。この涙は、安堵だ。その表情を見れば分かる。迷子の子どもが、ようやく帰る場所を見つけたときに流す涙だ。

「そんなもののために、俺なんかの、ために……」
「私は、夢だって、なんだって、君が苦しんでいるなら助けに行きたかった。君に――諸伏くんに、死んでほしくなんか、ないから」
「俺だって同じだよ、高槻さんに死んでほしくない」
「だからこうやって作戦を立てたでしょ」

 少し得意げに笑ったら、伊達が隣から「お前が立てたんじゃないだろ」と茶化した。確かにそうだが、今は格好をつけているのだから黙っていてほしかった。

 そう、この作戦を立てたのは、言わずもがな彼の実兄である諸伏高明である。
 諸伏にSOSのサインを伝え、その間に私たちは下準備をしていた。
 まずは拳銃自殺の線を消す。拳銃自殺ができなければ、投身するはずだと高明は言った。投身自殺だけに狙いを定めるため、他の選択肢を消す必要があった。

ライについての捜査資料を纏め、彼の家の盗聴器を取り外し、その正体を天秤に掛けて彼の協力を得た。松田の手で私の拳銃の機能を失わせ、ライのものと取り換える。唯一警部補であった伊達に頼み、近くの道は事件を捏造し規制を張ってもらって、人が寄り付かないようにした。――あのビルの場所が分かったのは、ライの助言だ。スナイパーだからこそ、スナイプを気に掛けた場所へ行くだろうと。諸伏をキャッチすると同時に地面に落とした死体は萩原が検視官の知り合いからコネクションで極秘にいただいてきたものだ。なるべく諸伏に背丈や髪形を似せたものを、顔が判別できないよう前もって何度か落とさせてもらった。
 きっと、調べれば分かることだ。しかしあの場にはライがいた。――というか、分かって待ち伏せたのだが。下手な奴なら彼が見て見ぬフリをしてくれる。降谷だとすれば、問題ない。敏い彼のことだ。彼ならすぐに、あの遺体が諸伏ではないと気付くことだろう。
 どっちにしろ、まともな検視を受けるわけではないのだ。あの後彼らによって、ひっそりと埋葬されることだろう。スマートフォンも、諸伏をキャッチしたあとしっかりと地面へ落としておいた。

 高明曰く、死体の情報は多いほうが良いと言った。
 ひっそり隠すようにするより、いっそ彼が死んだと印象づけるように。証拠が多すぎて、本当の証拠が紛れてしまうように。木を森へ隠すように――。
 あまりに彼の作戦通りにいくので、途中で鳥肌が立ったほどだった。ライにはスコッチの遺体へ見て見ぬフリだけを願ったのだが、この送迎は彼なりのサービスらしい。

 諸伏はいまだに附に落ちない様子で、苦そうな顔をしていた。零れた涙を拭うことすらしない彼は、本当に私たちを案じているのだと分かる。私は髭の生えそろった輪郭を、もう片方の手でなぞる。

「前に、諸伏くんたちみたいな子どもを助けたいって言ったでしょ」
「――うん」
「でもね、意味ないんだよ。君も、助けないと――私にはもう一度生きた意味がない」

 やっと見つけた彼を逃さない。手を、離したくない。私は猫のようにツンとした目を見つめて、ほんの少し笑った。

「だから、そんなことなんて……言うなよ。元が男って分かったら萎えるかもしんないけどさ」

 ああ、長かったな。こんな簡単なことを一つ伝えたいだけだったのに。
 たくさんの人に感情を教えてもらった。友情を、信頼を、恋慕を、愛情を。一度目の人生をまるで子どもの感情のままで生きてきた俺にとっては、すべてが嬉しかった。

 ごめん、萩原。最初からこんなこと、分かっていたのに。でも、本当に君のことを愛していた。それは家族に抱くような、妹に抱いていたような愛だった。
 松田、伊達、ありがとう。いつだって一緒に感情を分け合ってくれた。生涯を掛けての友人だ。
 降谷――。いつだって、私の中の真の警察官はこの人だ。彼が、彼の良心にのみ従って正義を生きているのなら、きっとそれは正しい道だ。


「諸伏くん――俺は、私は……君が、好きだよ。好きだから、生きてほしいんだ」
 

 それが、私にとっての正しい道だ。
 まっすぐに、今度こそ誤魔化さずに告げたら、諸伏は目じりからぽろっと零れた涙をそのままに、子どもみたいに泣いた。「本当は怖かった。高槻さんに会えないまま死ぬのは、怖かった」と、何度も何度も泣いていた。

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Shhh...