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 ジョディのやや荒々しい運転が停まったのは、都心から少し離れた場所にある廃ホテルだった。正しくは、そこから少し離れた山中だ。暫く整備されていないらしい道を掻きわけて辿り着いたホテルは、見た目こそ廃墟そのものだが、足を踏み入れるとある程度手入れされていることが一目で分かる。ジョディはカウンターに、スタイルの良い体を凭れさせた。

「ここはGPSが届かないんでーすよ。だからある程度は安心してね」
「つけられている可能性は?」
「It’s so funny! FBIを舐めちゃダメでーす。勿論、長居はvery very dangerね」

 伊達は、一番にホールにある客用のふかふかとしたソファへどかっと腰を下ろした。ふー、と息をついて、私たちを手招きする。

「とりあえず、一晩はここにいよう。何、死亡偽装がすぐにバレるようなことがなきゃ暫くは大丈夫さ」
「……そうだね」

 まだ緊張は解けないものの、確かにここで突っ立っていてもしょうがない。寧ろ、逃げるアテなど分からなかった私たちにとって、少しでも身を隠せる場所があるのは僥倖中の僥倖だ。ライ――赤井に感謝しなければいけない。
 諸伏は申し訳なさそうにして、ジョディに「悪い、外の人間にこんなことさせて」と頭を下げた。ジョディは美しいブロンドのショートヘアをさっと手の甲で払って見せた。

「貴方の死によって、シュウは組織の更に奥へと潜りこむことができるのよ、そっちのお嬢さんのこともあるし……。気にしないで、50:50だと思えば良いのだから」
「敵は同じ、か。本当に申し訳ないことをしたよ。俺の力が及ばなかった」
「まだ謝るのは早いですよー。このあと、日本に居続ける気ですか?」

 ジョディに言われて、諸伏は黙りこくった。
 ――そうだ、死んだ人間がチラリとでも街中で見かけられてはいけないのだ。もし彼が見つかれば、必然的にそれに協力した人間も探られる。私たちも、きっと赤井も無事では済まないだろう。

「アメリカにこれば、証人保護プログラムが適用されます……。名前も戸籍も生まれも変えて、やり直すこともできますし、FBIに捜査協力してもらえるなら相応の保護もする予定よ」
「捜査協力……?」
「敵は同じ、モロフシも言っていたでしょう。貴方が組織の中で手に入れた情報は、私たちも欲しいのよ」

 諸伏は、何度か浅く頷いた。国を跨いで、身を隠す。彼と言う人間を死んだと納得させるには、一番賢い方法に思えた。だが、彼の中にある迷いは、別人になることなのか、守るといった日本を離れることなのか――。私には、そこまでは測り知れなかった。

 ただ全員が彼を見つめる中で、ギィと錆びた扉が開く音がした。

 ジョディが腰につけていた小型の拳銃に手を掛ける。しかし、私たちは現れた天然のブロンドを見て、敵意より先に彼に駆け寄っていた。闇の中でも、キラリと光るブロンドは、きっちりと揃えられていた常よりも少しばかり乱れているようだ。


「降谷くん!」


 珍しく、ぜえぜえと息を切らした完璧主義の青年を、私は思い切り抱きしめた。上から松田が、萩原が、伊達が腕を重ねる。諸伏は驚いたようにして「ゼロ」と目を見開いていた。
 降谷は私の腕をぐっと押しのけると、軽く髪を整えて息をついた。

「……ライが、ここの住所を伝えてきたんだ。あの遺体はお前じゃなかった。だから、きっと此処に逃げたんだと思ってはいたが」

 そして、懐かしいアイスグレーの瞳を私たちに寄越す。大げさにつかれるため息の音さえ、懐かしく鼓膜を震わせた。

「お前ら、何やってるんだ。遊びじゃないんだぞ」
「知ってる。知ってて、みんなここに来てるんだよ」
「――……ヒロも、こいつらのこと、なんで言わなかった?」
「いや、絶対怒ると思ったから……」

 私は諸伏の、気まずそうな声色にフっと笑いを零してしまった。母親に叱られることを恐れた子どもそのまんまじゃないか。たぶん、同じタイミングで同じことを思ったのだろう松田も、顔を背けて肩を震わせていた。降谷は降谷で図星であったのか、「それにしたって」などと、煮え切らない言葉を続けている。

「ハァ……。起こったものは仕方ないだろ、別に怒るつもりはない」
「本当かな〜? 絶対このあと説教だよね」
「うんうん。絶対そう」

 私が肩を竦めたら、萩原が可愛い子ぶった声で便乗した。しばらく沈黙が場を占めてから、降谷は耐えきれなかったように鼻から息を漏らす。口元には、笑みが浮かんでいた。


「あは、あはは! 萩、なんだよ、その声」
「降谷くんが爆笑してる……」
「当たり前だ! 当たり前だろ……親友が、生きてたんだ。生きてた……」


 そのアイスグレーの瞳からは、言葉にするにはあまりに滑稽なほど綺麗な雫がポロポロと零れていく。口元は、笑っていた。そうだ――彼だって、そうなんだ。大切な人に会えなくなるのは、怖い。
 諸伏は、少しよろけた足どりでこちらに近づいて、全員の上から降谷のことを抱きしめた。

 全員で話し合い、今夜は整備されたこの部屋のフロントロビーで泊まることにした。
 ジョディは諸伏の行き先について、「明日になったらまた話しましょう」とだけ告げ、隣の部屋にヒールを鳴らしていった。彼女なりに私たちのことを気遣ってくれたのだと思う。もしかしたら、今夜が全員で会える最後の夜になるかもしれないから。


「ええ、伊達班長結婚したの!?」
「ああ。こんな危ない橋、渡る前に心残りは消しておきたかったんだよ」
「まあ、死亡フラグだからね〜。これが終わったら結婚するって」

 その薬指に、厳つい指先には不釣り合いな繊細なプラチナの光がキラリと煌めいていた。なんだ、言ってくれても良かったのに――。と思いながら、最近の私の頭ではそんなこと処理しきれなかっただろうなとも思う。

「お前まで一緒になってるのは意外だよ……。いつも言ってたろ、命の張り処を間違えるなって」
「バーカ、間違ってないだろ」
「うわ、班長格好いい……。最高の男だわ……」
「抱きつくなって。不倫だぞ、不倫」

 筋肉質な二の腕に掴まると、諸伏が私の肩を引きはがした。その手つきが、なんだか嬉しくなってしまうのは単純な頭なのだろうか。先ほど、降谷にも私のことを説明したので、降谷は私のことを見て「前世はゲイだったのか」と堂々と言い宣った。

「んなわけないじゃん! めちゃくちゃノンケだったよ」
「……正直納得はしたよ。道理で酔っぱらってチンコ探したわけだ」
「チンコさが……何それ」

 私が尋ねたら、なぜか伊達班のメンバーは全員それを承知していたように「ああ」と頷く。萩原が「例のノーブラ事件の時だろ」と補足してくれた。ああ、あの時――。というか、全員がそうして思い出せるということは、もしかして部屋の中で散々ネタにされていたのだろうか。過去のこいつらに対して、私は心の中で拳を作った。
 降谷はホテルに貯蔵されていた被災用の水に口をつけ、フーと酒でも呑んだ後のように大きく息をついた。

「それに、ライがFBIだなんてそこらで吹聴する馬鹿とは思わないしな」
「お、珍しい。ゼロがライのことを褒めるだなんて」
「褒めてない! 馬鹿とは思わない、って言っただけだろ」
「降谷ちゃん、どこいっても敵作るんだね〜」

 以前と変わらない仏頂面で、彼は拗ねたようにそっぽを向く。一体組織とは何か、降谷たちは何をしようとしているのか。それには、全員暗黙の了解で触れることはなかった。再び出逢った彼らが昔と変わらないのならば、昔と変わらずに、彼らの道を進んでいるのだと思ったからだ。
 松田はくせ毛頭を抑えるようにサングラスを額へ上げた。そして降谷の肩を軽く叩く。

「信じてるぜ、ゼロ」
「――ああ。俺もお前たちを信じてるよ」

 降谷は、にこりと頬を緩める。電気が通っていない廃ホテルの中は、懐中電灯の灯りだけが灯っている。その灯りが、彼の笑顔を色濃く映した。決して挫けないだろう、力強い微笑みだ。

「なあ、ヒロ……お前、やっぱり外に逃げろ」

 と、彼は微笑を崩さずにソファに凭れかかった。諸伏がハっとしたように降谷のほうを振り向く。そこにポーカーフェイスはなく、顔には私でも読み取れるほど「どうして」という感情が浮かんでいた。

「俺は、やっぱりお前に生きていてほしいよ」
「……降谷くん私と台詞被ってるんだけど、諸伏くんのこと好きだったりしないよね」
「は!? まったく……」

 ちょっと静かにしてろ、軽く降谷の手が私の額を小突いた。

「それに、前……公安に入る前に、お前に言った言葉は嘘じゃあない。心から、そう思ったから言ったんだ。そして今――こいつらに会えて、確信したんだ」

 諸伏の眉が訝し気に顰められる。「前って」と尋ねる言葉に、私たちも振り向いて首を傾げた。そんな私たちに向けて、彼は一層力強く、不敵に笑って見せる。彼ぞ、私たちの総代だと言うのに相応しいような、伸びた背筋で。


「正義の味方は――どこにいたって同じさ」


 笑ってみせた降谷の言葉に、諸伏は自然と口角を持ち上げて、それから瞼を数秒閉じ頷いた。深く、深く、その言葉を噛みしめているようだった。

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Shhh...