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「犬ってやつは、厄介だよなぁ」

 ――ぞわりと、背筋が粟立つのが分かった。
 視線は狙いの男から逸らさないままに、俺は軽口を叩くように「犬?」と口角をわざとニヤリと持ち上げた。独特な煙草の匂い。白い煙がスコープの前をふわりと横切っていった。指先が僅かに震えるのを、ぐっと堪えて引き金に指を掛ける。

「ああ。忠誠心は人一倍あるってのに、餌を貰えば他の奴にも尻尾を振るだろう」
「フーン、なら猫でも飼ったらどうだ」
「――猫は、主人を決めねえからなァ」

 こつん、と革靴がコンクリートを冷たく鳴らした。
 ぎくっとした体が、反射的に男の方を振り向く。暗い夜闇でもよく目立つ銀の長髪は、たっぷりと彼の体を纏うように風に吹かれていた。その銀のカーテンの奥から、獲物を狙うような鋭く暗い翡翠がこちらを見据えている。
 男――コードネームをジンという組織の幹部は、片側にある犬歯を目立たせるように口の端を持ち上げる。

「どうした? 何にそんなビビってやがる」
「……いや、なんでもない。ジンみたいな強面が猫だ犬だっていうのが可笑しかっただけさ」

 いけない、焦りを顔に出すな。
 軽く肩を竦め、もう一度ライフルを構えなおした。ターゲットにしていた男は、ボディーガードたちと入口に差し掛かっているところだ。――金儲けのために、多くの死者を出すような毒性の強い麻薬を作った男だ。組織にも何度か顔を出しているのを見たことがある。理由は、口止め。ただそれだけだ。

 悪人にも、人生がある。
 分かっている、分かっているさ。そんなことは。彼らはただのターゲット≠ナはない。一人の人間である。そこには命があり、理由があり、過程がある。
 しかし、彼らを殺さなければ、次がない。そうでなければ、ジンが、スナイプの監視につくわけがない。数日前に彼らに送ったメッセージは、ある種の遺言だ。だから俺のことをもう追わないでくれと、そう伝えたかった。

 ――組織がこの世にある限り、増え続ける犠牲を、汚され続ける日本を、守らなければならないのだ。誰かが、やらなければいけないのだ。

 スコープを覗く。目的地点まで、百メートル先。九十、八十。
 ぐっと指先に力を籠め始めたとき、ターゲットの男に動きがあった。前触れなく、すっと屈んだのだ。狙いがブレたことに驚きつつ、視界を移動させる。

 男の腕の中に飛び込む、小さな影が横切った。

 息子か、知人の子かは分からない。親し気に笑顔を交わすと、彼はひょいと少年を抱える。俺はぐっと眉を顰めた。――まずい、少年の姿が邪魔で狙いがブレてしまう。間違っても、少年に当てるわけには――。

「撃て」

 ぐっと俺よりも一回りは大きな手が、俺の肩を掴んだ。肩の骨が軋む感覚。――いけるか? 確かに小さな体だ。隙間程度には男の頭が覗いている。脳天に一発とは、いかないかもしれないが。


 ――スコープ越しに、少年の口元が『パパ』と呼ぶのが見えた。見えて、しまった。


 瞬間的に、頭に昔の光景がフラッシュバックする。犯人のシルエットに怯える自分、血を流して倒れる両親、命からがらなんとか俺を連れ出した兄の冷たい手。考えてはいけなかった。思い出してしまったから――つい、考えてしまう。あの男を撃ちぬいた光景を、あの少年が一生背負っていくことになるのを。

 違う。
 そんなことは自分のエゴだ。今まで殺した男にだって、子どもはいたかもしれない。ここで戸惑うのは、彼らに対する冒涜だ。

「撃て」

 静かに、しかし威圧感のある声でジンが告げる。これは死刑宣告にも等しかった。ここで撃たなければ、お前を殺すと、その声が告げている。やらなければ。日本のために、正義のために、俺よりも強く前を進む、幼馴染のために。


『昔の君たちを、助けられれば、人生に少しでも意味がある気がするから』


 引き金を、引いた。
 すぐ隣に立つ巨体がよろめく。動きが読めたのか、勘が働いたのか、銃弾は彼の肩に当たったようだ。ああ、どうして思い出してしまったのか。どうして、こんな時に、こんな時に! 俺が捨てそびれた、『諸伏景光』の僅かな欠片を、どうして。


「――スコッチ」

 恨めしそうに、しかし口元を不敵に笑ませながらジンは俺を呼ぶ。駄目だ、もうどれだけ言い逃れても無駄だ。俺は撃ち終えたライフルをジンに向かって投げつけると、脱出経路として確保していた隣のビルへ飛び移る。

 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。
 だから、捨てれば良かった! スコッチに、諸伏景光の影は必要ないのに。彼女の振り向いたときに揺れた髪を、夕日に照らされて煌めく気まぐれな瞳を、俺はどうしても捨て切れなかった。




 俺はこれが最後になるだろうメッセージを幼馴染である男に託し、廃ビルのシャッターを薄く開けて中へ潜り込んだ。
 不味かったか――否、あのジンのセリフからして、ある程度確信は持っていたはずだ。もう時間の問題であったのだろう。ドクンドクンと鳴る鼓動を抑えながら、階段を昇る。屋上ならば出口も入り口も一つしかないし、このビルの屋上は壁が少し高く作られているのを知っていた。狙撃から逃れるには必要なものだ。何より、階段の足音がよく響く造り――追手が来た時に、真っ先に対処ができるのは大きい。


 呼吸を整えようと屋上の扉を開け――張り詰めていた意識が、ばっと反射的に背後を振り返る。いつもだったら気づかなかったかもしれない。ただ、今は動くものがすべて敵にしか見えなかったのだ。

 俺は靡いたシルエットに殴り掛かった。大振りな動きをした腕を、彼は流すように躱すと、腕を掴み柔道のように俺の体を屋上側へと投げ飛ばす。ジンのものとは対照的な、闇に溶けるような長髪が目の前を過ぎっていった。

 固いコンクリートに受け身を取ると、俺は今しがた抜き取った拳銃を構える。ぜえぜえと、息が切れた。呼吸の全てが喉を焼き切るようだ。

「……な、んで」

 妙にしっくりとくるリボルバー。見覚えのあるフォルムを、目の前にいる長身へと向ける。ライは俺の驚く表情を見てから、ひらりと両手を挙げて見せた。構えた拳銃は、ライが持っているものではない。――サクラだ。

「俺に投げ飛ばされるフリをして俺の拳銃を抜き取るとは……」
「――どこで手に入れた。彼女に会ったのか」
「彼女? ああ、例のイイ人のことか」

 まさかとは思うが、もう彼女は――。そう思うと、ゾっとした。ライのことを過信しすぎた自分のせいだ。ぐっと唇を噛みしめる。ライは両手を挙げながら、至極冷静にこちらに一歩足を近づけた。どちらが銃を向けられているか分からないほどの冷静さだ。

「命乞いをするわけではないが……、俺を撃つ前に話を聞いてみる気はないか?」

 まるで自殺を止めるための説得だ。自殺――ね。
 俺はこれを自殺だとは思わない。これは、合理的な判断だ。追手に追われている今、俺がするべきなのは一つ。死ぬまでに俺の情報を奴らに与えないこと。俺が生きて捕まれば、奴らに拷問なり自白剤を打たれるなり、何らかの情報を与えてしまう。携帯はもっと駄目だ、公安の部下たちと、零と個人的な連絡を取った痕跡が見つかってしまう。
 俺の名前が彼らに渡れば、必然的に同じ姓である兄や、同僚である伊達たち――辿れば、零の正体にも勘付かれてしまうかもしれない。

 だから、これは自殺ではない。
 これは、奴らの懐に打ち込む弾丸だ。

「拳銃は……お前を撃つために抜いたんじゃない」

 銃口を、自分の胸ポケットにぐっと強く押し付けた。間違っても、反動で妙なほうに飛んで行かないよう、しっかりと。

「――こうする、為だ!!」

 がちん、と空を切るような音がする。
 一向に訪れない衝撃と、匂わない火薬の香り。恐る恐る目を見開くと、目の前にいるライの翡翠の瞳も、同じように目を見開いていた。ライの手はシリンダーを掴もうとしていて――しかし、掴んではいなかった。恐らく、彼もこの銃の違和感に途中で気づいたのだ。

 重さはほとんど変わらない。引き金を引くまで違和感もなかった。ライの表情にも、嘘くささや演技を感じられなかった。彼は、感心したように幾度か頷く。

「なるほど、解体のプロ≠ゥ……」

 そして、彼は俺の前に片膝をつく。常にニヒルな表情や気だるげな目つきだったが、今ばかりは違った。彼は得意げに笑うと、俺の肩をとんと押さえる。ジンの手つきとは異なるソレに、敵意はなかった。

「自殺は諦めろスコッチ。お前はここで死ぬべき男ではない」
「何……?」
「俺はFBIから潜入している赤井秀一……。お前らと同じ奴らに噛みつこうとしている犬だ」

 FBI――そうか、道理で。こればかりは根拠ではなく感覚だったが、彼がそう告げて納得できるような気がした。任務以上の殺しはしない、俺のことを必要以上に詮索しない。それは当然のようで――俺と同じような状況だから、当然と感じたのかもしれない。

「さあ、分かったら俺の話を聞け……。お前一人逃がすぐらい造作もないのだから……」

 俺はやや強張った手つきを緩めて、ごくりと喉を鳴らす。「ああ」と頷いた声は、掠れていたかもしれない。――少し、引っかかりがあった。なら、この銃はなんだ。間違いなく、日本警察に支給される拳銃だ。一体誰から――そして、どうして細工がされている。ライ自身も気づかないような細工が。


 違和感を覚えながら銃を彼に返そうとした時、階段が響く音がした。


 俺はバっと周囲を見渡す。銃は使えない。ライの言い草では、彼が持っている拳銃はこれ一丁だ。舌を噛みきるんじゃ駄目だ。携帯が残ってしまう。ちょっとやそっと投げつけただけで、画面は割れても中のデータまでは粉砕できないだろう。
 
 塀のように聳えるコンクリートを見た。――ライが、味方だと分かって良かった。彼がもしFBIなら、俺のことを糧に一層組織の奥へ潜りこむことができるだろう。心残りはない。


 カン、カン、カンカン


 階段をあがる音、音は一つしかない。ライだったら、上手く誤魔化してくれる。音を振り向いた男の手を振りほどいて、そのコンクリートに足を掛け、ビルの屋上から携帯を落とす。俺も、後を追うように落ちていく携帯の後を追った。

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Shhh...