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 りり、りり、と虫が鳴く。
 数人の寝息を浅い意識で聞きながら、寝返りを打った。起きたら、すべてが夢のように消えてしまいそうで、少しだけ怖かった。埃っぽいソファに手を這わせると、近くから物音がして目が覚めた。
 僅かな灯りを辿って物音のほうへ視線を這わせると、誰かが体を起こしたのが見える。姿はよく見えなかったけれど、ああ、そうか。今日は虫が鳴いているなあと思った。寝入った伊達たちを起こさないように、その影のほうへそうっと歩み寄った。

「寝れない?」
「……高槻さん。起こしちゃったかな」
「もともとあんまり寝れてなかっただけ。……ね、お化け屋敷行こうか」

 きょとんとした諸伏の手を、私は静かに引いた。廃ホテルなんて、そうそう入れるものではない。ある程度整備はされているが、フロントロビー以外は厚く埃をかぶっていたし、蜘蛛の巣も張られていた。まるでお化け屋敷そのものだ。

「うわ、床の軋みすっごい」
「こっち、来て大丈夫か? さすがに床抜けたら庇えないぞ……」
「あはは、確かにね。部屋とかどうなってるんだろう」

 客室の扉を開けると、割れてしまった窓から、ふわっと夜風が舞い込んだ。部屋の中は廊下よりも、星灯りが差し込んで少し明るく思える。昔はきっと、さぞ綺麗なベッドだったのだろう。今やネズミや虫に齧られた骨組みに、カビだらけの毛布だけが被さっている。椅子はややボロボロではあったが、触れても崩れはしなかった。試しに腰を下ろしてみたが、少し軋んだ音をあげるだけだ。

「まだ、夜は怖い?」
「……うん。でも怖くて良いよ、そうじゃないと、両親のことを忘れてしまうから」
「そっか。――最初は諸伏くんのこと、俺と似てるって勝手に思ってたんだ」

 そう告げたら、彼は目を瞬かせてこちらを向いた。薄い灯りがその白めの綺麗さを目立たせる。

「誰か早く、こんな不憫な俺を助けてくれって思ってた……たぶんね。あの日夜が怖いって言った諸伏くんが、昔の自分に見えた」
「……合ってるよ。ずっと思ってる」
「ううん、違う。勇敢な警察官だ」
「違うよ……。俺は、ずっと臆病だ。両親が殺されたあの日から、まだ中学生の兄貴に全部を背負わせて、俺だけ助けを求めてきたんだ。毎日、毎日、殺される夢を見て、犯人に命乞いするんだ。助けて、俺だけは殺さないでって」

 抑揚のない声が部屋に響く。彼もまた、向かいにある古いチェアにゆっくりと腰を下ろした。私よりも、少し軋みが大きく鳴った。

「……二回目の人生さ。一度死んだから、分かるんだ。死ぬって苦しくて痛くて、恐ろしいことなんだ。だから、いろんな人を救いたいって心から思えたし、傷ついた姿を見るのは心から悲しかった」
「そうだな――うん、きっと、そうだ」
「諸伏くんも同じはずでしょ。辛くて、苦しくて、恐ろしかったから――だから、他の人に優しくて、体を張って悪にも立ち向かえるんじゃないの」

 段々とセリフの臭さが恥ずかしくなってきて、私は最後のほうを誤魔化すように笑った。こんな説法じみたこと、彼に言うまでもないか。諸伏は、少し言いづらそうに視線を逸らし、小さくぼやいた。

「でも、俺は殺したよ。正義のためにって自分に言い聞かせて……結局、俺は臆病なんだ。今だって、一人のうのうとアメリカに逃げようとしている。いっそ、あの場で死ねたなら、その償いにもなったのかもなって思うんだ」

 ――彼が、アメリカに行くことを渋っていたのは、それの所為なのだろうか。風に吹かれて、前髪がふわりと揺れる。
 一人だけ生きるのは、辛いのだろう。優しい彼のことだから、一人一人、殺すたびに心を痛めてきたに違いない。それがどんな悪党だろうと、悪党だからと言えるような男じゃないことを知っていた。


「逃げるな」


 私は彼の瞳を見て、咽びそうになった声で告げた。目の奥がツンと痛む。じわじわと視界が揺らいだ。鼻水が喉の奥を伝って、喉が痛い。引き攣る。

「死んで、逃げようとするな。私も降谷くんも、諸伏くんがころっ、殺したことくらい知ってる! ……だけど、生きてほしいんだよ! だから、そんなこと、言うなあ。生きて戦って! 最後まで……最後まで、君が正義のヒーローだって言えるように」

 ――そんなこと、言うなよ。
 もう一度、震えた声で私は懇願した。諸伏はその表情を複雑そうに歪めて、ヒーロー、と自分の口で復唱する。

「なあ、高槻さんにとってのヒーローって、何?」

 ふいに、諸伏はそう尋ねる。そして、私から顔を逸らし窓を見た。

「俺にとってのヒーローは、兄だった。ゼロだった。いつも真っすぐで勇敢で胸を張っていて、俺が助けてほしいと思った時にすぐに手を差し伸べてくれるような人だった」

 どこか自嘲を含んだ笑いを、口元から漏らして諸伏は言う。まじまじと見ると、かつて会った時よりも、幼さの消えた顔つきをしていた。たぶん、輪郭が少し削げたせいだ。

「俺は……本当に、ヒーローなんかになれるのかな」

 その言葉の裏に、兄やゼロたちに対する羨望と、自分へのもどかしさが隠れていた。私はムっとして、椅子を立ちあがった。窓をノスタルジックに見つめるその男の前に仁王立ちする。諸伏がパチンと瞬く間に、その襟首をつかんで彼を立たせた。


「じゃあ、なって! 私のヒーローになって!!」

 
 大分、声を荒げてしまった。もしかしたら、ロビーのほうまで声が響いているかもしれない。けれど、そんなことは関係なかった。とにかく、この感情の叫びを、彼への想いを爆発させないと気が済まなかった。

「受験会場で、私の道を正してくれた。射撃訓練で倒れた私を抱えてくれた。資料室で朝ご飯をくれた。事故を見た私に一番に駆けつけてくれた。雑踏警備で庇ってくれた。夏乃に連れ込まれた私を追いかけてくれた。水族館で頭痛がしたとき、支えてくれた。冬樹を助ける手助けをしてくれた。全部覚えてる! 覚えてるよ……」

 彼の低い声が、私の名前を呼んだ。ほとんど呼吸に等しいその声色は、少し掠れている。

「上っ面の君じゃなくて良い。いつも手を差し伸べてた君が、私にとってのヒーローだよ」

 そして、その頬に軽く唇を寄せる。触れた唇が痺れるように熱かった。離れると、その漆黒よりも少し薄い色彩に、私の泣きそうな表情が映っているのが見える。彼も、今同じ景色を見ているだろうか。

 彼は先ほどまで淡々とさせていた表情を、ぐっと歪めた。小さく、「うん」と告げたあと、そっとキスをした。ずっと待っていた熱だった。冷たくなった全身に巡っていくような気がする。

「恰好つかなくて、ごめん」
「大丈夫、私ずっと前から可愛いとしか思ってなかったから」
「何それ、初耳だよ」

 笑った顔に、もう一度キスをした。僅かに触れた顎に、以前とは違う髭の感触があって、私はつい笑ってしまった。――だって、似合ってないんだよな。諸伏はそれがエスパーで伝わったように機嫌悪そうに片目を細める。

「……似合わないって思ってるだろ」
「まさか、世界一可愛いよ」

 熱く触れ合わせた唇と吐息を、私は一生忘れたくない。





 眩い朝日が山から顔を出すと、さすがの廃ホテルの中にも光が差し込む。昨日までは見えなかった床や装飾の荒がありありと見えて、松田は舌を軽く突き出していた。
 ジョディは昨日と同じ服を着ていたが、寝るときに上着を使ったのか薄手のコートを脱いでいて、ぴっちりとしたラインの見えるニットとタイトスカートを惜しみなく見せつけていた。

「Good morning! よく眠れまーしたか?」
「ぜんっぜん」
「よく言うよ。寝言まで言ってたくせに」

 萩原は松田の様子に苦笑いを零している。確かに、そのくせ毛の乱れ様を見る限り、昨夜はさぞ安眠できたらしい。こんな状況だというのに、松田らしいといえば松田らしい。
 ジョディはそんなやり取りにフフフと笑みを零してから、諸伏のほうをちらりと一瞥する。

「どうするかは、決心ついたかしら?」
「ああ。……一緒に行くよ。そっちで捜査に協力する」

 にこりとほほ笑んだ顔に、昨日のような戸惑いは見当たらなかった。ほっと安心して、名残惜しくもその姿を見る。――ここで、ジョディとは別れる予定だ。近くに手配してくれたレンタカーを返しに行く――という名目で、私たちは東都に戻る。

 次は、いつ彼に会えるか分からなかった。
 彼はこの場で日本との連絡手段を絶つだろう。そうしないと、戸籍や名前を変える意味がない。少なくとも、彼らの言う組織≠ェこの世から壊滅するまでは。その未来は分からない。俺にはその知識はなかった。数年後なのか、それとももっと先のことなのか。私が生きている最中には、その時は訪れないのかもしれない。
 今までと違って、偶然顔を合わせてしまうようなこともない。
 ――でも、不安はなかった。
 あの時の別れとは違ったから。諸伏は今から、前に進むために歩みだすのだと、知っていたから。


「じゃあ……、また。言うのが遅れたけど、助けてくれて――ありがとう」


 彼は私たちの顔を順番に見て、猫のような目つきを微笑ませた。
 寂しい。寂しいに決まってる。やっと、会えたのだから。やっと、その体温に触れられたのだから。
「良いのか」
 と、隣で告げたのは松田だった。だって、しょうがない。きっと諸伏もそう言うだろう。身を隠すなら私も戸籍を変えなければいけないし、いつ追手が彼を見つけるとも限らない。バレるリスクは減らさなければいけない。
「……本当に、良いのか?」
 再び尋ねたのは――降谷だった。
 私は思わず、目を見開いて彼を見てしまった。だって、一番に止めるのは絶対この男だと思ったからだ。私が言葉に詰まっていたら、伊達が言った。
「お前、アイツがいないとまた泣くからなあ」
 その薬指を見せつけるように、頭を掻く。

 行きたいよ、行きたいに決まっている。彼と一緒にいられれば、自分がどれだけ危険だって良かった。現世での母や妹には申し訳なく思うこともある。鈴奈にも、また会いたいと思う。
 でも、諸伏ともう会えないのは、その感情を遥かに上回るくらいに嫌だった。子どもだったら、今すぐ床に倒れこんでジタバタと暴れたい。「会えないなら死んでやる」とメンヘラみたいなことを言って諸伏を困らせてやりたい。

 だって、好きなんだ。
 二度生まれたどの世界でもたった一人、初めて好きになった人なのだ。

 ジョディの後ろをついていく諸伏の丸っこい頭を見ていたら、唇が震えた。「待って」と、そういう言葉を必死で飲み込んだ。


 軽い力が、私の背中を押した。


 押したというよりは、ほとんど触れた、に近かった。温かい手だ。今まで何度も触れたことのある、優しくて大きな左手だ。
 振り返ると、垂れた目つきは優しく微笑んだ。前とは違う、そっと添えるような力使いと、穏やかな声。いつか「そばにいて」と懇願したのと、同じ声。


「行きなよ、百花ちゃん」


 ――萩原のその声で、私は飛び出した。
 閉まる寸前の扉をがっと片手で押さえて、その背中を抱きしめる。「高槻さん」と、驚いた声。


「お願い、傍にいさせて」
「……危ない。追手に見つかったら、殺されるかもしれない」
「うん、それでも良い」
「家族とも、友達とも、連絡は取れなくなるんだ」

 子どもに言い聞かせるような宥める声色を振り払うように、私は只管背中にしがみついた。嫌だよ、死にたくないし、家族のことも友達も大切だよ。だけど、諸伏と一緒にいたい。その想いが私の体を動かしている。

 ただただその背中を離すまいと、力を入れて引き留めていたら、ふとその背中が剥がれた。同時に、体が軽くなる。目の前には子どものような、はにかんだような猫目があった。


「俺も、好きだよ。高槻さんと、一緒にいたい」


 彼が私の体を持ち上げていると気づいたのは、数秒してからだ。――「良いかな?」、なぜか自信なさげに、彼は眉を下げた。私はその可愛い顔を間近で見て思わず顔を赤くしながら、思い切り、今度は正面から彼を抱きしめた。 

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Shhh...