オフィスを走り回る足音たちの中で、ただ一人静寂を保つ男がいた。
背筋を伸ばして、自前のカップに注いだ珈琲の香りをすうと吸い込む。ふう、と静かに息を漏らした時、その丸っこい頭を無遠慮に書類がはたいた。男はその書類を機嫌悪く、じっとりと睨みつける。
「ハッ、所轄帰りの人間はいつまでも退屈そうだなあ」
挑発的に隻眼が笑った。涼やかな顔をした男――高明はそれを咎めることもなく、改めてカップに唇をつける。大和はその態度を気に食わなそうに、彼の隣の椅子に座り込んだ。――特筆せずとも、その席は大和の席ではない。席を奪われ行くあてのない新米警官が、慌てながらコーヒーメイカーと自席を行き来していた。
「そんな退屈な所轄帰りまで足を運ぶほど暇な君は何ですか」
「バーカ、おつかいだよ。お、つ、か、い」
けっと吐き捨てるように言うと、彼は手に持っていた封筒――恐らく、先ほど高明を叩いたもの――をばしっとデスクの上に置いた。高明は、その封筒を目を丸くして眺める。そして注意深く観察した。
「これは、誰から……?」
「警視庁の、伊達っつー警部だ。お前宛てに、だと」
伊達、伊達。と何度か高明は口の中で呟く。高明は、高槻と萩原にこそ面識はあったものの、伊達や松田の名前を知らなかった。心当たりのない名前に首を傾げながら、しかし封筒にはポストイットで『長野県警 高明警部殿』と明確に記されている。
変哲のない、A4サイズほどの茶封筒。くるりと裏返すと、本来宛名の書かれる場所に綺麗な円形が一つ。丸、のような、それにしては楕円気味のような気もする。
「……ゼロ」
ふと、思い出す。自らの弟が紹介した、『零』という友人のことを。ずいぶんと特徴的な風貌と、弟の口から口癖のように飛び出す名前に、大分昔のことではあったが印象深く覚えていた。丁寧に閉じられた口をレターナイフで開ける。
郵送してこず、伊達という男から大和を通じてきたとしたら、きっと自分にしか見られたくない何かがあるのだと考えた。
封筒を覗くと、書類のようなものは入っていない。手を皿にしてひっくり返すようにすると、そこにはスマートフォンが一つだけ。外も内もバキバキに割れたスマートフォンに、指先がちりと切れた。くるりと裏返すと、スマートフォンの会社マークが入っていただろう場所に、歪な――外開きの『H』の文字。
高明は、なにもかもを見透かしたような涼やかな目で、静かに、そして重々しく微笑んだ。
「そうですか」
――ただ、そう満足そうに呟いた姿を、大和は気に食わなそうに見ていた。
◇
「お、なんだ今日はデートか?」
こきんと首を鳴らして、楊枝を咥えた口端がニヤリと笑った。その視線の先にいた男女は、顔を見合わせる。慌てたのは男のほうだけで、女は重くハァーとため息をついてみせた。「おとり捜査ですよ」と、彼も恐らく知っているであろう答えをしょうがなさそうに彼女は口にする。
「そそそ、そうですよ! これはただのおとり捜査でして……」
「そう慌てんなよ。マジだと思うだろ」
わははと空気を揺らすように笑う大男に、やや垢抜けない若い男はアハハと空笑いした。女――佐藤はショートヘアをするっと耳に掛けると、あたりを見渡す。今事件を一緒に担当しているだろう、もう一人が見当たらなかったからだ。
「あれ、萩原くんは……」
「ん? ああ……ほら、あそこで女口説いてる」
伊達は慣れた様子で、自分のずっと後方にいるシルエットを指さした。佐藤はその頬を引きつらせた。思わず横にいた若い男――高木が「ひぇ」と息を呑むほどだ。数年前よりもいくらか伸びた髪から、前よりも大人っぽくなった顔つきがニコニコと愛想よく笑っている。対面しているのはどうやら交通課らしい制服を着た、ツンと猫のような見た目をした女性警官だった。
佐藤はもう一度、重たくため息をつくと、ずかずかとヒールを象の足音のように鳴らし、萩原の長髪から飛び出た耳たぶをぎゅうと引っ張った。
「その子お相手がいるから。残念ね、萩原くん」
「いやいや。それと俺と仲良くするのは別問題っつうか……いででで」
「ちょっと、伊達さん。ちゃんと回収してってくださいよ」
「なんで俺にはタメなのかなあ〜……」
彼は情けなく耳を押さえながら、鼻息荒く怒った佐藤に苦笑を浮かべた。「そりゃ、お前がだらしねーからだろ」、ぐっとその長身の肩にのしかかるようにして、ネイビーのスーツがちらついた。
「陣平ちゃん。珍しいね、こっちくるなんて……あれ、今日合コンの日だっけ?」
「松田くんも、ここ禁煙よ!?」
「俺にもタメかよ……。あと萩、お前俺が別れたからって勝手に面子に組み込むの止めろ」
咥えていた煙草を奪われて、松田はがしがしと後頭部を掻く。そしてスーツの懐から、一枚封筒をぴっと取り出して、萩原に渡した。
「これ渡しに来た」
不愛想に、それだけ告げて。萩原はきょとんとして、それから伊達と視線を合わせる。封筒の裏を見ると、住所にはフランスの都市と「02:15番地」と書かれていた。既に開けられた痕は、きっと松田が急いで開けて、そのあとに此処へ訪れた所為だろう。
中には、紙っぺらが一枚。どこにでも売られている螺旋のあるメモ帳に、桜の花がガクごと貼られていた。桜は警察のシンボルであった。三人は、きっと彼らの心には、今でも桜があることを知っている。
「何これ、ラブレター?」
佐藤がじっとそのメモを見つめて言うので、萩原は首を傾ぐ。「ちょっと、見せて」。やましいことは書いてなかったので素直にその言葉に応じると、佐藤はその封筒を眺めて、ぱっとその顔色を明るくさせた。
そして、「やっぱり」と笑う。松田が「どういうことだよ」と尋ねると、佐藤は得意そうに封筒を指した。
「この封筒、フランスのブランドのでしょ。裏にもフランスの都市の名前が書いてあるし……でもエアメールじゃない。ってことは、フランスに意識させたかったのよ。――フランスの桜の花ことばは『私を忘れないで』だから」
と、佐藤が言ったのを三人で聞いて、そして思い切り笑った。捜査一課の面々が「何だ」と顔を覗かせるほど、それはもう男三人の大笑いだった。
「こ、これ考えたの絶対あの子じゃない……!」
「ありえねー、絶対アイツのほうだって」
「花言葉……ふ、フランスのブランド……」
腹が捩れるほど笑ってから、三人は画策する。さて、こちらはどうやって、密かな暗号を送ってやろうかと。
◇
カラン、とベルが軽快に音を鳴らした。
この辺りの地元では名の知れた喫茶店には、二人の看板がいる。その片割れがグラスを磨けば女子は黄色く悲鳴を上げた。ベルの音を聞いた男は、天然のブロンドを揺らしてニコリと愛想良く笑った。
「おや、いらっしゃい。蘭さん、園子さん」
「こんにちは、今日はお昼から安室さん一人ですか?」
「梓さん、ちょっと風邪引いちゃいまして。今日は僕だけで勘弁してくださいね」
申し訳なさそうに、眉を八の字に下げながら彼はお冷を二人のテーブルへと運んだ。園子は、好奇心旺盛そうな輝く目つきをパチパチとさせて笑う。
「こーんなイケメンが接客してくれたら、そんだけで十分だって。ねー、蘭……あ、あんたには関係なかったか」
「もう、そんなのじゃないってば」
「相変わらず仲がよろしいですね……今日のご注文は?」
にこやかな表情を崩すことなく、安室が尋ねれば、二人は少し顔を見合わせて悩ましく唸った。二人が唸るほど、この喫茶店のスイーツはどれも絶品だと巷では噂になっているのだ。そして、先にソレ≠見つけたのは、カウンター側を向いていた園子の方だ。彼女はハっと、いつもと異なるボードを指さした。
「あれ、ケーキが変わってる」
「ああ……。あれは今日だけなんです、ちょっと試作品を作りすぎちゃいまして」
「えー、すっごく美味しそう!」
「じゃあ、ケーキセットをお二つ。いかがでしょうか」
安室が手書きのボードを一瞥して提案すれば、二人はその輝く瞳をぱちんと瞬かせ、「はい!」と揃って頷いた。そしてカウンターへ下がっていく男の様子を見守ると、蘭は少しだけ声を落とす。
「ねえ、安室さん、なんだか今日はご機嫌じゃない?」
「ん。そーお? いつもニコニコーってしてるイメージだけど……」
「そうなんだけど……今日は良いことがあったって感じ」
と、蘭はカウンターにいる男を視線で追う。
安室透は、園子の言う通り常ににこやかで人当りの良い男だった。だからこそ、その機嫌に気づかれることも少ないのだが――蘭は、一ご近所の娘として。そして父の助手として、園子よりも会う機会が多かった所為かもしれない。彼が軽やかに鼻歌を奏でる、その様子を見てほんのりと頬を緩ませた。
「もしかして、彼女とか……」
「えっ! やだー、ショック!!」
「だから何で園子がショック受けるのよ……」
蘭が苦笑いを浮かべながら、きゃいきゃいと話に花を咲かせていたら、ことんとテーブルに可愛らしいケーキが置かれる。蘭と園子は、その肩をぎくりと強張らせた。
「もしかして、僕の話ですか?」
「あ、アハハ! いや〜、蘭がいつもより安室さんがご機嫌だって……えへ」
「ご、ごめんなさい! 勝手に噂なんかして……」
「いえいえ。流石毛利先生の娘さんだ、気づかれてたなんて恥ずかしいな」
カフェオレをコースターの上に乗せて、安室は照れ臭そうにはにかんだ。皿の上に盛られた可愛らしいデコレーションは、確かにいつも安室が作るようなものでなく、パイ生地を土台にしたフレッシュケーキだった。アイシングクッキーが、可愛らしく傍に飾られている。
「じゃあ、まさか本当に彼女が……!」
「あはは。違います。ただ……友人が、めでたい日なので。ついね」
安室は人差し指を口の前に立てて、恥ずかしそうに「内緒ですよ」と笑う。アイシングクッキーに彩られたティファニーブルーが、なんだか光ったような気もする。
◇
子どもの泣き声が、空に響いていた。
幼いながらに細い手足と、血の滲んだ足の裏。彼はこの世に絶望しながら、何度も開けてと扉を叩いていた。――ごめんなさい、もう悪いことはしないから。もうここから逃げたりしないから。生きていく場所を奪わないで――。その悲痛な、弱弱しい叫びだった。
「ハーイ、坊や。食べ物あげようか」
子どもの前に、不穏な影が立ちはだかる。
少年は本能的に、その影についていってはいけないと思った。ふるふると弱弱しく首を振ると、その大きな手が少年の細い腕を掴んだ。それは、恐怖だ。まずい、この腕から逃げなくてはと、彼は思った。
泣きそうになりながらその腕を振り払うと、一目散に逆方向へと走る。足の裏に傷がついても、兎に角生きるべく走った。ようやく人の姿が見えたと安心した時――パー、パー、とクラクションを鳴らす音が響く。
周りが、息を呑んだ。叫びをあげた。急に飛び出した小さな影に、大型のトラックは気づくことが遅れてしまったのだ。運転手はブレーキを踏んだ。タイヤが擦り切れる音がする。
――暫くして、車が止まっただろうか。運転手は恐る恐るその瞼を開ける。自分のせいではなくても、幼い子どもの命を奪うだなんて。神に祈る気持ちで運転席を降りると、そこには黒く特徴的な制服があった。
「良かった、大丈夫?」
「う、うん!」
「君、迷子? それとも……」
彼はこの辺りの人間にしては小さな瞳で、少年の体を見つめる。少年はぎくりとした。幼くても、警察の制服くらい知っている。このまま家に連れ戻されてしまうのではないか。あの、家に――。
女性は、子どもに向かってニコリと笑いかけた。
「大丈夫。お姉さんは警察だから……君を守るよ」
彼女は、ずいぶんと小柄な体で、少年をひょいと抱き上げる。ぽんぽん、と撫でられた頭の温かさに、少年はポロリと涙をこぼしていた。
―――
――
―
「ただいま」
土足で家に入るのにも、もう慣れた。奥の部屋から聞こえた「お帰り」という声に、私はやや小走りになって部屋の奥へ進んだ。がちゃりと、主寝室の扉を開ければ、どうやら仕事中だったらしい彼が驚いたようにヘッドフォンを取り外した。
「あ、ごめん。邪魔したね」
「いや、丁度無収穫だったところ……」
「そっか。なら休憩しよ」
私は適当にベッドに転がった部屋着に着替えて、そのままあまり心地よくはないマットへ転がった。こうやってみると、やはり日本のマットレスは出来が良い。諸伏は額を押さえて、何か煮え切らないようにこちらを見ていた。
「だから、俺の前で着替えるのやめてって……」
「えぇ……? だって、裸見たし」
「そういう問題じゃないの! 自分の部屋あるだろ」
ハー、と大きなため息をつきながら、彼はベッドの端に腰を掛ける。彼の姿を見て、私はにやける顔を隠すことができなかった。似合っていない髭は、もう輪郭に並んではいない。少しでも、彼の特徴を逸らすためだ。
「…………何」
「何も言ってないよ」
「嘘、絶対まだ変だって思ってる」
「思ってないって。可愛いって言ったでしょ」
むくりと起き上がって、私は彼の丸い頭を抱きしめた。丸い――金色の頭を。
そう、少しでも、彼の特徴を逸らすためだった。黒髪のアジア人というのは、それだけで情報になる。ニューヨーク、いくら多種多様な人種がいようと、そのままの容姿でいるのは些か不安があったのだ。特に諸伏は、顔が割れているから尚更だ。
まあ、それでも確かに、彼が初めてブリーチをして来た後は大笑いしてしまったのは事実である。だって、可愛かった。金髪になるだけでこんな可愛いことがあるかと思うほど可愛かった。
「まあ、黒髪が一番好きだけど……。それはまた未来見れるから」
「その好きって、どっちの君がいってるんだ?」
あまりに可愛い可愛いと言っていた所為か、諸伏は呆れたように私の後頭部を軽く叩いた。私はニヤニヤっと口角を持ち上げて「どっちも」と答える。すると、諸伏は目元を少し赤くして、私の頬にキスを落とした。
「まさか、偽の戸籍でも警察試験受けるとはね」
「だって、せっかくアメリカの市民権あったし。いくら報酬が入っても、ヒモじゃなあ」
「今は女の子なんだから、ヒモって言わないだろ」
「気持ちの問題。専業主婦って柄じゃないもん」
諸伏ほどではないが、気持ちばかり明るくした髪をくるりと弄った。白い肌をサロンで軽く焼いた、次の日の諸伏の反応は今でも思い出せる。作業用の椅子から引っ繰り返って、頭を散々ぶつけてから、「似合ってる」と口にしたのだ。――そう思うと、私とどっこいどっこいじゃないだろうか。
「高槻さん」
――諸伏が、名前を呼んだ。
私は驚いて「えっ」と声を漏らしてしまった。この都市に住んでからは、偽名で通していたはずだ。私は時たま間違えて彼を呼んでしまったが、諸伏が名前を間違えることはなかった。久しぶりに聞いた響き。ぎょっとして顔を離すと、彼は薄い唇を気恥ずかしそうに軽く尖らせた。
「ど、どうしたの……? 可愛いからキスしても良い?」
「ち、違う。そうじゃなくて、あのさ……」
ぽりぽりと首筋を掻いてから、彼はパソコンの隣に置いてあった何かを手を伸ばして取った。黒い箱――それを見て、私は「あっ!」と大きな声をあげてしまった。諸伏は「え!」と私の声に対して驚いている。
「しまった、諸伏くんにあげるスニーカー、日本に置いてきたまんまだ」
ずっとインテリアのように飾っていたし、あの日は荷物を取りに帰る暇などなかったから、忘れていた。諸伏はきょとんとして「スニーカー?」と首を傾げる。しまった、降谷に頼んでニューヨークまで送ってもらおうか――。云々と考えていると、諸伏がもう一度「高槻さん!」と私を呼んだ。
「え?」
間抜けに振り向いた私の前に、彼が手に持っていた黒い箱があった。彼は一度咳ばらいをして、猫のような目つきで真剣味を持ってこちらを見つめる。瞳が、熱っぽく揺れていた。
ああ、そんな顔に、私のほうが溶けてしまいそうだなあ。エロい顔だなあ。だなんて下心丸出しで見つめていると、彼がその箱を開ける。キラリ、と光るプラチナは、まるで開けてもらえて嬉しいと訴えるようにチカチカと蛍光灯の灯りを反射させていた。
「俺を、ヒーローにしてくれて、ありがとう」
「も、諸伏く……」
「明日も、その先も、もし死んだあとがあるなら、その先も……俺は君が好きだと思う」
笑いながら、彼は私の口の端に口づける。分かっている、これは本当の結婚ではない。けれど――それでも良いと思えた。彼と一緒にいられるなら、彼と手を繋いで道を歩けるなら。
「そ、んなのっ……! 俺もだよ、ばかやろっ……!」
「あは、俺に戻ってる」
ばっと抱きしめた私の体を、とんとんと叩きながら、諸伏は笑っていた。
青い空が、少しだけ紫がかってきたような、まだ穏やかな夕陽の差す頃だった。指輪は私には少し大きくて、それもまた諸伏らしく笑ってしまう。可愛い人だ。一生、彼は私のヒーローである。
どうして、この世界に来たのかは今でも分からない。
正直、この作品の知識など諸伏の救出で出し切った程度のことしか知らないし。まあ、それが運命なのなら、それでも良かったなと思う。この少しだけ冷たい体温に触れられたのなら、孤独に震える彼を少しでも救うことができたのなら。
それが例え神の仕業だろうと、運命なのだろうと、誰かの――。誰かの――。そういえば、ずっと思い出せと、頭の中に響いていた声は、一体誰のものだったのだろうか。
『おにいちゃん!』
指輪に反射した夕陽が、ふと微笑んだような気がした。
私はなんだかそれが嬉しくて、少しだけ緩いプラチナを薬指に嵌める。新しいものなのに、僅かに懐かしいような光だった。
「うん、綺麗」
あの映画の中とは――もしかしたら、違う展開になるのかもしれないけど、それで良い。
さようならだ、俺の中のスクリーン。私が救ったヒーローは、決してスクリーンのなかではなく、今隣にいる。私は、彼と生きていくのだ。
fin