3

 
 あの日、あの朝。
 すべての夜明けのような澄んだ空気の味を、まだよく覚えている。
 諸伏の背を追うたった一歩が踏み出せない臆病さ。私には、それだけまだ心残りがあった。自分の中の葛藤にとどめを刺すように、萩原が告げた。今にも泣きだしそうな、切羽詰まった声色だった。

「――行かないで」

 たった一言。
 その一言がストンと胸のうちに落ちてきて、私は踵を返した。私よりわずかに温かな体温が手に触れている。
 振り返れば、萩原は観覧車でぼろぼろと泣いていた時と同じような――否、その時よりも顔をひどく歪ませて私を見ている。何か言いたげに口を開閉して、ようやく絞り出たように「ごめん」と言った。

 一目で、彼がその言葉に後ろめたさを感じていることは分かっていた。

 私よりよっぽど泣きそうな顔を見ていたら、私までジワリと涙が浮かぶ。でも、泣いたらきっと彼が心配するから。笑った顔が好きだと、萩原が言ったのだから。私は無理くりに口角を持ち上げた。

「……うん」

 温かな左手を握り返す。
 勇敢な手、優しい手。私より二回りほど大きな、ごつごつとした手。――その手を取った時に、もう振り返らないと心に決めていた。





 彼との日々はいつまでも穏やかで、優しく、温かい。
 恵まれた友人や家族に、上司たちと過ごす日常は、私に夢を見せているようだった。私は――俺だったときから、こういう日常が欲しかったのだよなあと、しんみりと思うことも増えた。

 朝起きれば彼がいる。
 にこやかに「おはよう」と、寝ぐせのついた頭で笑って、一緒に朝食を摂る。トーストに、バターとマーマレード、ヨーグルトとコーヒー。ほとんど寝ぼけ眼でトーストを頬張る私の荷物や髪を、朝に強いらしい萩原はせっせと整える。その後、非番でなければ一緒に家を出る。彼の歩調はゆっくりだ。足が長いので、私の歩幅に丁度いい。

 昼になれば、大抵他愛もない連絡が入っている。
 今日は佐藤に叱られただとか、伊達の奥さんが来たけれどすごく美人だったとか、そんなこと。少しだけ頬を緩めて、昼食を食べながらメッセージを返すのが日常だ。

 夜、どちらの残業が長いかによって変わるけれど、よほど遅くなければ寝るタイミングは自然と同じだ。彼の体温は心地よい。その体に引っ付いていると、鼓動がゆっくりと、子守歌のように脈打つのを感じる。


 二十九の誕生日を越した時に、ふと前の自分自身のことを考えた。
 二十九歳、俺がトラックに轢かれて、こちらの世界に生まれた歳だ。前の世界に――もし、もしだが、彼のような存在が隣にいたら、俺は満足していたのだろうか。まるで家族のような、そんな愛を持つことができたのだろうか。
 そんなことを考えていたら、なんだか萩原のことが愛おしくて堪らなくなった。萩原は私を気遣って触れようとしないので、私から婚姻届けを持って行った。彼があんまりに驚くものだから、恥ずかしくて、少しだけ伸びた蕎麦を啜った。

 
 確かに、痺れるようなものじゃない。ひたすらに彼を求めていたわけでもない。
 けれど、萩原という男を大切に思っていた。愛していた。その気持ちに嘘はない。恐らく、今から過去に戻ったとして、私は同じ選択を取ると思った。

 ――しかし、萩原が、時折過去のことを気に掛けているのも知っている。
 なんだかとても寂しそうにして、私を見つめるときがある。こんなにも幸せなのに。傍にいるのに、遠くの私を見つめるような彼がいる。

 それが嫌だった。
 でも言えなかった。言ってしまったら、また萩原が泣いてしまうのではと思った。彼の泣く顔が、苦手だ。胸がぐっと締め付けられて、苦しくなる。泣いているのは萩原のはずなのに、私の息がしづらくなる。なのに――。


「行かせてあげられなくて、ごめんね――」


 萩原という男の、最期の言葉を聞いた時、私はとてつもない後悔に駆られていた。
 彼は、今の今まで、あの時のことを悔いていたのだ。私は言いたかった。そうじゃない、違うんだと叫びたかった。
 あの後、組織≠ニ呼ばれたものも姿を消し、諸伏や降谷とは時折顔を合わせるようになった。行きたければ、別に自分で踏み出せたのだ。それでも私が諸伏の所に行かなかったのは、ただ――萩原のことを、愛していたからだ。


 あの大きな手を取った時、私はそれを決めていた。

 義務感や同情や惰性で、萩原と一緒にいたわけではないのだ。私は、私は。
 そう言いたかったのに、彼がそれきり口を開かなくなったから、言えなかった。言えば良かった。勝手な危惧など置き去って、「私は萩原と一緒にいたい」と、それだけ伝えれば良かった。

「ごめん、萩原、ごめんね」

 『結婚したのに、まだ苗字で呼ぶの?』――萩原が、苦笑いしながら、しかし幸せそうに笑っていた顔が、思い浮かんだ。





 ――心電図の音がする。
 この音を聞くのは久しぶりだ。たぶん、あの日、萩原のもとに駆け付けて以来だと思う。瞼を開けるのが、ずいぶん重たかった。残業続きの朝だって、こんなには重たくない。ぐぐ、と何度か眉間に皺を寄せながら、うっすらと瞼を持ち上げる。

「――起きた……? 先生、先生!」

 ぱたぱたと、軽い足取りが聞こえた。見上げるのは真っ白な天井で、妙に呼吸がしづらい。すー、と息を吐くと口元に蒸れるような不快感があった。直前の記憶を取り戻すように周囲を見渡して暫く――、どうやら医者らしい服を着た男が顔を覗かせた。

「――さん、聞こえますか?」
「……はい?」
「良かった。こんなふうにしっかり意識があることは奇跡ですよ」

 優しそうにニコニコと笑う男には、見覚えはない。掠れた声が漏れたが、医者が慌てたように「まだしゃべらない方が良い」と私を宥めた。
 なんだ、どうして私はこんな、病人だかけが人のように扱われているのだろうか。駄目だ、どれだけ思い返そうとしても、記憶はちっとも戻ってこない。私の記憶は、萩原を看取ったその後で途切れていた。

「誰か、連絡をとれる方はいますか? 奥さんとか、親御さんとか……」
「奥さん……?」
「あ、あの……先生……」

 私が首を傾げている間に、なにやら看護師が医者に耳打ちをした。医者は慌てたように首を振ると、「ああ、いえ、その」としどろもどろに答える。頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいるのが、自分でも想像できた。

 奥さん、とは――。
 親は分かるが、まっとうに考えればせめて「旦那さん」ではないか。どうして、まるで私が男のような言い草を――。


「――さん!」


 がら、と病室の扉が開いた。医者たちがどよめき、「困ります」等と対応していると、女性は「すみません、知人です」と頭を下げた。首が曲がらないので視線だけで彼女の姿を追う。

 ――見覚えがあった。
 それは、俺が最後にみた姿だ。私ではなくて、俺――まだ男であったときに、トラックに直撃した俺を庇って、一緒に轢かれてしまった女性警官だった。彼女もまた、ぐるぐると首や腕をしっかりと固定されている。
 きっと、まだ歩くのは辛いだろうに、松葉杖をついてヒョコヒョコと私の前に現れた。

 しかし、どうして――。
 だって、私は――。今、何と呼ばれたのだ。高槻ではなく、確かに「――」と、そう呼ばれたのではないか。

 女性警官は、そのボロボロな容姿で私をのぞき込んだ。私の姿を見てやや安堵の色を滲ませた彼女は、ほ、と息をついた。頬が自然と、緩んでいる。黒目がちな垂れた目つきの奥には、見覚えのある男の姿が酸素マスクをつけて女性を見つめている。

「良かった」
「……あの、あなたは」
「ああ、失礼しました。事故の現場に居合わせたもので……無事で良かった」

 と、彼女は微笑む。
 私は――否、今は、俺に戻ってしまったのか。死んでいなかった――? じゃあ、今まで別の世界で過ごしたと思っていたものは、すべて自分の走馬灯のようなものだったのか。どちらが現実で、どちらが夢なのか、私には判別ができなかった。

 私はその女性警官にどうにも既視感があって、ふと尋ねる。すると彼女は「ああ」と納得したように笑った。
「その、妹さんの件で担当したものですから。心配で様子を伺ってはいたのですが……」
「……そう、でしたか」

 そういえば、そうだった気がする。
 今は当時よりも少しばかり達観して状況を見ることができたので、改めて見ると少し不思議な雰囲気の女性だった。にこやかにしてはいるが、掴みどころがないような。しかし、先ほど見せた安堵の表情は本当だったと思うのだ。

 一言、二言と礼を述べると、彼女はゆるゆると首を振る。
 どうやら無理をして病室を抜け出したらしく、そんな会話を交わしていたら、女性を呼ぶ声が病室に転がり込んできた。彼女は「はいはい、今行くよ」と苦笑いをして、その場を立ち上がった。


「ねえ、――さん。妹さんが亡くなって、辛いときなのは分かります。でも……自分の命を大切にして。まだ生きてられるかもしれないときに、諦めないで――。私からの、勝手なお願いです」


 ふわりと、女性にしては短い艶やかな黒髪が揺れる。私は、気づけば痛む体を傷つけるようにして上体を起こしていた。脇腹が、背中が、胸が痛い。呼吸も苦しかった。でも、このまま彼女を行かせてはいけないと思った。
 驚いている彼女の手をぐっと掴んだ。少しだけ、私よりも温かい体温を感じた。

 まさか、そんなわけはない。

 そう思う反面、確信する心がある。私は彼女の顔を見つめて、ぽつりと呟いた。違ったら、それで良い。


「……萩原」


 心電図の音に掻き消されそうな声を、彼女がその耳で拾った瞬間、ぶわっとその世界が色づいた気がする。綺麗だった。黒の奥に広がるアメジストのような瞳が涙の膜を揺らしてキラ、と輝き、白い頬には赤みが差した。ふっくらとした唇は戦慄いて、垂れた目じりから堪えられない、と涙がポロっと落ちていった。

「百花ちゃん……だよね」

 私に確認するように告げて、彼女は――彼はシーツの上にぱたぱたと涙を落としながら、私の体に抱き着いた。彼も体を痛めていただろうが、そんなことも気にならないほど、触れた体温は嘘のように優しかった。

「良かった、ほんと、良かった……!」

 ひたすらに、彼は泣いた。
 私は彼の小さくなった体を抱きしめ返す。すっぽりと手に収まってしまう体。でも、間違いない、萩原だ。私が、愛する人だ。
 私はこみあげてくるものを我慢できず、彼の涙に応えるように泣いてしまった。


「そばに、いたんだね。ずっと、そばにいてくれた」


 最初から――、ずっと前から、彼は傍にいてくれたのだ。どうしようもないって、ろくでもないって思っていたあんな人生を、彼は傍で見ていてくれたのか。それでいて――まだ、私のことを、想ってくれているのか。

「ごめん……ごめん! ずっと、ずっと、言いたかったの」

 ぼろぼろと互いに泣きあって、しかも本名でもない名前で呼び合っている姿は、傍から見たら可笑しな光景であったことだろう。それでも、私は忘れられない。彼の、彼女の、心臓が締め上げられるような涙を。

「君のそばが良い。君のそばに、いさせて」

 私が告げれば、萩原は今度こそ歪んだ口元を思い切り笑みに変えた。私の頬に柔らかい唇を押し付けると、「百花ちゃんがいる限り!」と、嬉しそうに答えたのだった。

  
 
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Shhh...