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 なじみのある天井を見つめた。
 携帯をいじって、ゲームをして、ベッドの上でごろごろと転がる。その他愛ないことが至福であることを再認識させられる。明日には学校に戻らなければいけないのだが、荷物を纏める気力もない。
「いやだ〜……」
 もちろん警察にはなりたいし、訓練が必要であることは分かっている。しかし、それとこれとは話が別だ。オアシスから追い出されるのは、目的があろうと分かっていても苦痛なのだ。高校の時と違い、課題がないだけマシというものだ。
 はあ、と憂鬱にリビングに降りれば、妹と母が身支度を整えている。尋ねれば二人でランチに行くのだと言った。一緒に行くかと誘われたけれど、あと一日。どうにも家から出たくなくて「留守番してるよ」と答えた。
 誰もいなくなったソファに腰をおろして、携帯を眺める。諸伏との写真は待ち受けにするのはさすがに止めたけれど、見返すとついついこちらの口角も緩んでしまう。

 ちょうど写真を眺めている時だった。携帯が震える。萩原からのメールだ。
 寝転がりながら眺めていたので、取り落としそうになりながらなんとかキャッチして、メールを開く。

『カラオケ行こうって話になった。百花ちゃんも来る?』

 行こう、ということは同期の数名とそういう話になったのだろう。楽しそうだなあと思いながらも、このクーラーの効いた楽園を手放すのか、とやや思案した。歌うのはあまり得意じゃない。だが前のトロピカルランドでも思ったけれど、みんなと遊ぶのは楽しい。
 迷った挙句に、私は腰を持ち上げた。だって、秋には警察学校を卒業する。そうなればいつ同期たちで集まれるか分からないからだ。『行こうかな〜、どこ集合?』と返信すれば、数分経たないうちにメールが返ってくる。集合の駅の名前を見て支度をしようとした時、追うようにしてもう一通メールが来た。

『ちなみに諸伏ちゃんもくるよ。おしゃれしといで』
「……面白がってんな」

 ぶすくれてぼやいたものの、結局その言葉に踊らされるように、いつもよりしっかりと化粧をして髪を整えてしまうのだ。





 ブラウスに、バックリボンのキャミワンピース。スポーツサンダルと色を合わせた白いキャップ。テーマは『俺が学生だったら彼女に着てほしかった服』だ。室内だが、外は一歩踏み出ただけで熱が籠るほどだったので、化粧は丁寧だがナチュラルに。
 俺の好みがスポーツミックスなだけで、諸伏の私服がいつもアウトドアっぽいから合わせようなんて下心は一ミリほどしかない。飲み物を飲むだろうから、リップは落ちにくいティントタイプのものを選んだ。

 指定された駅まで最寄の電車に乗って向かおうと、なるべく空いた両に乗り込んだ。駅まで歩いてきた私にとって、電車の中の冷房は命の水だ。ふう、と軽く汗ばんだ頬を扇いで席に着こうとすると、見慣れた姿が車両の端に座っていた。真反対の席だったが、目立つ頭なのですぐに分かる。
「降谷くん」
 近くには他に同期もおらず、私は彼の隣に腰掛けた。降谷は読んでいた本から視線をあげて、私を呼ぶ。「高槻か」という言葉に、やや落胆が見え隠れして、本当にいけ好かないなと思った。
「何、それ」
 読んでいる本の表紙を覗きこむようにしたら、さっと裏表紙を向けられた。

「エロいやつ?」
「違う! ……お前、なんでそういう考えになるんだよ」

 ほかに乗客は殆どいなかったけれど、降谷は慌てて声を小さくして、呆れたようにため息をついた。私は声を殺してフフフと笑う。

「だって、男が頑なに見せないものってエロ本か浮気の証拠でしょ」
「その凝り固まった偏見をやめろ」
「ごめんって。素っ気ないから揶揄っちゃった」

 ニ、と歯を見せて笑ったら、彼もため息交じりではあったがゆるりと笑ってくれる。先ほどまで読んでいた本をくるりと引っ繰り返して、小難しそうな表紙をこちらに差し出した。
「犯罪心理学 ケース1=c…マジで難しいやつだった」
「別に、難しくないよ」
 思いのほか気取ってはおらず、どちらかといえば照れ臭そうに降谷は言った。いくら才能があっても、総代なんて努力なしに取れるものではない。自分が頑張ったことを認められるのが嬉しいのは、なんとなく分かる気がする。
「ケース1、って書いてあるけど……他のケースもあるの?」
「ああ、シリーズになってるんだ。一つずつ事件の内容と、それを心理学的に分析したもの、それからどう繋げていくべきかが丁寧に書かれていて、読みごたえがある」
「へえ……」
 私は興味深くそれを眺めた。
 テストに出る範囲内だとか、法律の内容だとかはしっかり目を通していたが、あまり読んだことのない内容だった。心理学と聞くと、少し抽象的なようにも思える。私がそれを見て呆然としていたからか、降谷は少し戸惑ってから「読むか」と聞いた。

「良いの? まだ途中でしょ」
「いや、読み終わってるよ。まだ時間があったから頭から読んでいただけで」
「そうなんだ、じゃあ、ちょっと借りようかな……」

 自分の視野を広げるのも、きっと大切なことだ。だって前世では気づけなかったようなことに、生まれが違うだけで簡単に気づけることもあるのだから。私は膝の上に乗せたリュックサックに、文庫サイズのそれを仕舞った。

「高槻って、変なやつだよな」

 しみじみと降谷がぼやくので、失礼だなとは思いながらも「変って何が」と聞き返す。悪口ではないようだ。彼は厭味っぽくもなく、ただ不思議そうに続けた。
「……言っちゃ悪いが、最初は男みたいな奴だなって思ったんだ」
「お、とこ……」
「だから、悪いって。他の女みたいに、キャアキャア言ったりしなかったし」
 降谷ほどのイケメンになると、キャアキャア言わない女子というだけで希少種なのだそうだ。
 それだけ聞くととんでもなくナルシストに聞こえるが、実際彼の周りを見ていると分かる。好み、好みでないを別にして、降谷は容姿が整っているし、華のある顔つきをしている。そのブロンドだって、一目見ただけで染めたのではないと分かるほど日に透き通っていて、女の子の言う王子像≠ノはピッタリだ。
 全員が落ちるとは言わないが、確かに警察学校の気丈そうな子でも、降谷を前にするとやや照れたような態度を取るのは分かった。

「どっちかっていうと、いけ好かない――みたいな態度してたろ。よくそうやってクラスの男子とかに突っかかられてきたんだよ」
「ああ〜……なるほどね」

 それは否定できない。彼をいけ好かないと思ったのは、確かに女の高槻百花≠ナはなかったかもしれない。
「性別違和とか……そういうのも考えた。酔っ払ったときの口調が荒かったから」
「そんなに荒かった?」
 記憶はないので、確認するように言うと降谷は真顔のまま「かなり」と頷いた。――動画とかに残されていなくて良かった。私の記憶のように、皆の頭からも追い出されていくのを願おう。

「でも――……最近は違う。あんなに男目当てじゃないって言ってたのに、ヒロにデレデレするし、一緒にいる時間も増えてる。男が、女になったみたいだ」

アイスグレーの大きな瞳が、私を見定めるようにじぃっと見つめた。私はつい、ゴクリと喉を動かす。別に悪いことをしているわけでもないのだけど、追い詰められた気分だ。

「なんて、小説の読みすぎか」
「降谷くんでもそんなファンタジーみたいなの読むんだ」
「SFとかも好きだな」

 彼は苦笑いして、窓の外を眺めた。外に見えた看板が降りる駅を示している。私が席を立とうとすると、降谷は軽く手を振った。

「あれ、ここじゃないっけ」
「いや……歌、苦手で。買い物に行くところだったんだ」
「歌!? ……ちょっと聴きたいかも」
「松田には言うなよ」

 絶対ネタにされる、と褐色の頬がほんのり赤く染まった。多分カラオケを断った時点で気づいているんじゃないだろうか――とも思ったけど、黙っておこう。「また学校で」と手を振って、その幼い頬がゆるやかに笑うのが、ほんのり嬉しくはあった。 

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Shhh...