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 私は、夢の中とは違い勢いよく体を起こした。
 起きた瞬間に、自分の手足がビキっと攣るくらいに、全身に力が入るのが分かる。今までのが夢だったのだと、その時ようやく気付いたほどだ。あまりに勢いよく飛び起きたので、まだ五時を回らないほどであったが、隣で寝ていた萩原も目覚め良くパチっと瞼を持ち上げた。


「――百花ちゃん、どうかした?」
「あ、うん……」


 私は、しっかりとどうかした≠ニ答えることができなかった。

 ただ、いつもと同じ頭の痛みと耳鳴り。あれが前世の記憶であることは確かだ。確かな、はずなのだ。なら、俺が観たあの映画は、いったい何だ――? どうして、映画の中に『降谷零』が出てきたのか。

 外人のような金色の髪、褐色の肌、グレーがかった虹彩。
 確かに映画の中はアニメのキャラクターだったので、何もそのままというわけではないが、まさに降谷をアニメとして表したらこうだろう――という見た目だ。声も同じ。そして、警察庁警備企画課。アニメではゼロと語られていたが、伊達が言っていたサクラと同じ組織だ。

「……そんな、まさかね」

 だって、映画の中――アニメの中の話である。
 いくらなんだって、この世界にアニメの中の人物が紛れ込んでいるだなんて、嘘くさすぎる。俺の暮らしいた場所は、今よりも少し未来であるようだし、萩原に聞いても確かめようがなかった。
 けれど、じゃあ、あの記憶はなんだっていうんだ。背筋に、嫌な汗がぷつぷつと膨らんでいく。乾いた喉のなかに、飲み込んだよだれが垂れる感覚がしっかりと伝わってきた。嫌な気持ちのまま、私はまだ朝日があがったばかりの窓の外へ、ブリキ人形のように首を回した。赤と白の骨組みが、少し遠くに聳え立っている。

「ね、萩原……」
「大丈夫、顔色悪いぜ……。飲み物淹れようか」
「あれってさ、東京タワー≠セったよな」

 萩原は太い眉を心配そうに八の字にしながら、カーペットの上を歩いていく。なめらかな毛足に、彼の大きな足跡がついていく。私が呆然と、ベッドの上で窓の外を眺めていたら、彼は「えぇ?」と聞き返すように笑った。キッチンのウォーターサーバーから白湯を入れてきた萩原は、ベッドサイドに軽く腰を掛けてから、私にマグカップを差し出した。

「なんだよ、もしかして寝ぼけてる?」
「……かも、しんない」
「何年都民やってるのさ」

 クク、と揶揄うように笑った、寝起きの低い声が、私と同じように窓の外を眺めて言う。

「ありゃ、東都タワー≠セろ」

 それがあまりに当然であるように、萩原は笑った。
 そういう、性質の悪い冗談を言う男ではなかったし、そのタワーの名前は私も£mっていた。ならどうして、俺の記憶とは違うのだろう。こんなにも、鮮明に、今あったことのように思い出した記憶が、まさか間違っているとでも言うのだろうか。

「百花ちゃん……?」

 いや、そんなことはない!
 間違ってはいない。ただ、違うのだ。俺がいた場所とこの場所では。そもそも、時代が少し遡っているだけで、可笑しいと思うべきだった。最初から、この場所は、何かが違った。
 私はフラフラとその足取りでパソコンを開くと、戸惑いがちなタイピングであの映画の作品名を打ち込んだ。俺が子どもの時からあった作品だったし、詳しくはないけれど俺も名前は知っているくらいメジャーなものだ。

 萩原は、私の後ろから液晶画面をのぞき込むようにして首をかしげる。

「――名探偵コナン……何それ?」

 彼がそう尋ねたとおり、作品名は画面上にはヒットされなかった。私はそれでも、と画面をスクロールしていく。どこかに、一つでもないだろうか。デビューしたてだろうが、なんだって良い。マウスホイールを滑らせながら、一つのキーワードが目に留まる。スクロールする手も同時に固まった。

「毛利小五郎……探偵事務所……」

 そこに記載された名前をそのまま呟くと、近くのソファに腰を掛けながら、萩原が知った風に語った。


「ああ、元刑事の」
「知ってるの」
「警察の間じゃちょっとした有名な話さ。まさか諸伏ちゃんの捜査を依頼するつもり?」
「ううん、そういうわけじゃ」
「のほうが良いかな。射撃はピカイチ、推理はポンコツって噂」


 私はそこでようやく、机に置いたマグカップに口をつけた。少しだけ冷めた温度が、喉の奥に流れていく。ウェブに載った写真と睨みあうように、毛利小五郎の写真を見つめる。駄目だ、判断ができなかった。彼はよくある中年男性のような風貌で、実際会ってもいない男だ。

 仮に、もしもだけれど、ここが名探偵コナン――とかいうアニメの世界だとして。
 あの映画に映った降谷零が、降谷だったとして。
 じゃあ、スコッチって――。私の知る限り、降谷の幼馴染である男とは、一人だけなのだ。頭の奥を刺すような痛みが、ズキンと走った。

「なあ、本当に大丈夫? 顔色、全然戻らないみたいだし」

 太いけれど器用な指先が、私の髪をかき上げるように額を撫でていく。私は「ちょっと頭がね」とつぶやいた。正直、迷った。相談しようとも思った。けれど、相談するには、あまりに突拍子がない。あの映画と完全に一致しているのは降谷の存在だけで、あの中に出てくる都市が東都かどうかすらさだかじゃない。

 私がまだ何も言い出せないうちに、萩原は頭を軽く撫でつけながら、私を呼んだ。なんだか生きた心地がしなくて、私はギシギシと軋みを立てるような心のまま、彼の表情を見上げる。
 萩原は私の顔色を心配そうに見つめたまま、隣に腰かけた。きっと、私が何を言っても否定はしないだろう。信頼をしていないわけじゃない。でも、私にはほんの少しの勇気と確証が足りなかった。


「……諸伏ちゃんと、何かあったでしょ」


 ――彼がそう、確信めいて尋ねたのは、これで二度目だった。
 一度目は、まだ学校時代、今とはだいぶ異なった挑発的な表情で言われたのを覚えている。私は小さく、頷いた。

「きっと、大丈夫」

 萩原は笑う。おそらく、私の顔色が悪いのを諸伏とのやり取りのせいだと思っているのだ。それに僅かに罪悪感を覚えながら、小さく口角を持ち上げる。

 ――そういえば、あのあと気を失って、私はどうやって部屋に戻ってきたのだろうか。記憶のせいですっかり抜けていたが、さすがに気を失わせた私をそのまま引き渡したわけじゃないだろうし。倒れていたのを萩原たちが見つけたとしたら、萩原が気を遣った言葉の一つでも掛けてきそうだ。

 私は柔らかく笑う彼に、昨夜のことを尋ねた。すると彼は、「ああ」と相槌を打つ。

「コンビニの前で酒買って潰れてたって……、背の高い男が抱えてきたよ。怪しい奴かと思ったけど、俺のこと見て彼氏持ちには手出さないって笑ってたな」

 ――ニット帽子をかぶった、黒髪のハーフっぽい見た目の男だったけど。
 私はその言葉にハっとする。萩原に「それって、グリーンアイの?」と聞けば、彼も頷いた。しまった、あんなに目立つ男なのだから、彼らにも容姿の一つ伝えておけば良かった。長髪とは伝えていたが、もし帽子の中に長髪をしまいこんでしまったら、伝聞だけでは印象がガラリと変わってしまうだろう。


 ――にしても、コンビニの前で酔いつぶれてた、で納得される酒癖ってどうなんだ。
 
 私は自分が犯してきた過ちに、やや気恥ずかしさを感じる。酒については、萩原にはずいぶんと迷惑をかけてきた。確かに、酔いがまわるとすぐへたりこんでしまう、悪い癖だ。

 ニット帽子。諸伏と同じ側にいたと思うと、もしかして彼が『アカイ』なのだろうか。たぶん、そうだ。諸伏がおそらく彼のことを、ライと呼んでいた。私は悶々と考えて、それからキーボード上にだれるようにして倒れこんだ。

「うーん……」

 自分ひとりで考えるには、頭も情報も足りなかった。
 これからどうしたら良いのかということが、頭のなかでこんがらがってしまっている。前世の記憶も、まだズキズキを頭を痛めるようにして脳裏に浮かんでいた。

「……会いにいく?」
「……え、誰に」
「諸伏ちゃんのこと、よく知ってる人のとこ」

 煮詰まっていると思ったのか、萩原はニコリとして、手に持った携帯を軽く揺らした。といってっも、降谷は連絡が取れないままだし。私は小さく首を傾げ、萩原に言われるがままに出かけ支度を始めた。
 


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