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 萩原に言われるがままに連れてこられた、少し小洒落た個室の和料理屋に、私は伸ばした背筋の力が抜けなかった。確かに「ちょっとちゃんとしたお店だから」と、なるべく露出の少ないブラウスとスカートを選んだけれど、まずもって説明をしておいてほしい。
 
 目の前にいる男に、私はうまく視線を向けられず、チラリと萩原のほうを見上げた。――頭が混乱している最中だというのに、整えるどころかダイナマイトを振り投げてきた男である。本人に悪気はなく、きっと私が諸伏について知りたいことがあるだろう――その一心でこの場を用意してくれたのは分かる。
 しかし、何もこんな時に――! 萩原は、私と視線を合わせると「まずった?」と口パクをして、誤魔化すように苦笑いを浮かべる。

「失礼、連絡が立て込んでいまして……お待たせしました」

 携帯画面に集中していた、ツンとした目つきがこちらを向き直った。
 特徴的な吊った目じりと、細く高い鼻先、薄く笑う唇、頭の形の良さを目立たせるように、しんなりとした猫毛。しいて言うなら、その利発そうな額や、やや齢を感じさせる大人っぽい目元、そして整えられた髭。それだけが、私のよく知る姿とは異なっていた。
 けれど、それにしてもよく似ている。
 正直、彼がフードを被って目の前に立っていたら、諸伏だと思って駆け寄っても可笑しくはなかった。そして、私は彼に会ったことがあるのも、よく覚えている。その時も、ずいぶん諸伏に似ていると思ったから、印象に残っていた。

 男は諸伏よりも落ち着きを足したような、ゆったりとした口調で名乗った。

「新野署の諸伏高明と申します。萩原君、前は捜査の協力ありがとう」
「いーえ、とんでもない。こっちこそ、急に呼びつけてすみません」
「ちょうど都内に用事があったところでしたから。ホテルに泊まっているのを知っていたんでしょう? 相変わらず君は耳が早い」
「あはは。バレてました」

 萩原は愛想良く、どうぞと高明のほうへ手拭きを渡す。長い指先を拭ってから、彼は目の前の膳に手を合わせ、しずしずと料理を嗜み始めた。
 小さく上品な口が、ぱくりと上品な魚を摘まんでいく。私はそれをボーっと眺めて、食べる姿が似ていないななどと思った。つん、と萩原の肘が私のほうを突く。私はハっと意識を戻して、軽く頭を下げる。

「警視庁の高槻百花です。その……諸伏くんの」

 ちらりと語尾を上げると、彼は人が好さそうにニコっと笑って頷いた。笑った顔は、少し似ている。諸伏と会ったばかりのころの、年上らしい見守るような笑い方をする。

「はい。景光の兄です。訳あって、一緒には暮らしてませんでしたが……」

 それから、彼は涼やかな視線をこちらに向ける。じっと、私の顔を見つめてから、クスリと息を漏らした。

「君が、噂の高槻さんか。景光から話は聞いていました」
「は、話ですか」
「お世話になっていたようで、ありがとうございます」

 伸びた背筋が、綺麗に礼をした。私は一拍置いて、慌てて首を振る。「そんな」「ぜんぜん、私が面倒みてもらってました」と口々に言うと、高明はまたおかしそうに喉を鳴らして笑う。

 一通り笑ってから、彼はそのただずまいを直し、小さく顔を斜めにした。諸伏がしないような、色物のネクタイが涼やかな顔に華を与えているように見える。

「それで――私に何か、御用でしょうか」
「あ……」

 私は少し迷った。諸伏のことを、聞いても良いだろうか。彼の家族にも、それなりに事情があることは知っていた。私は机の下で軽く指をそわつかせながら、高明のほうを見上げる。彼は諸伏によく似た顔つきで、私の言葉を促すように微笑んでいた。

「……諸伏くんが、警察、やめたのは――」
「私のところにも連絡が来ました。そのようですね」
「その、連絡とかって」
「すみません。私もそれ以来連絡がとれないのですよ」

 彼は申し訳なさそうに、そう告げる。
 実の弟のことだというのに、高明が謝っているのは、まるで私が連絡を取りたがっていることに対して――そのことに、罪悪感を覚えているように見えた。ぷっつりと取れなくなった連絡だというのに、気に病んでいる様子もなく、私から見ると妙な気持だ。

「心配では……ないんですか」

 私が口にすると、萩原が小さな声で私を呼ぶ。高明はそれに、気にするなというように微笑んで、首を緩やかに振った。

「心配といえば心配です。でも、彼はもう立派な一警官ですから」
「でも、やめたって――」
「そうせざるを得ないことがあったんでしょう。あの景光が、両親の命日にさえ顔を表さない――のっぴきならない何かが」

 静かに、淡々と告げる高明に、私は目を丸くした。
 同時に、彼のことを尊敬した。彼はすごい。諸伏のことを、心から信用しているのだ。きっと、彼なりに正しい道を選んでいるはずだと、微笑みながら信じているのだ。

「危ないことがあっても……?」
「義を見てせざるは勇無きなり。それが景光の考えた正義ならば、兄といえど口出すする謂れはありません」
「もし、人を殺したり――殺されるようなことが、あっても」

 それを口にしたとき、高明の静かな表情がぴくっと動くのが分かった。
 ――それは、前諸伏に会ったとき、私の言葉にヒクリと顔をひきつらせた様子とよく似て見えた。彼は一度、吸い物を喉に流し込むと、ふう、と温かい息をつく。上品な椀を置き、こちらを見た瞳がキラリと光ったように見えた。


「まるでそうであることが分かったような物言いですね」


 つい、押し黙ってしまった。そうだ、と肯定するような無言が部屋に響く。シイン、という音が、耳を五月蠅く鳴らした。

 迷う。心の中の天秤が、何度もガタガタと揺れる。前世であったことを、話そうかどうか。不思議と、高明が話を信じないという選択肢はなかった。そう思ってしまうのは、彼の姿が諸伏に似ているから、贔屓目に見ていたのだろうか。

 話すとして、何と話す――? 私には前世の記憶があって、その前世はもしかしたらアニメの世界かもしれなくて、降谷の幼馴染が死ぬって設定だったんです。

 なんて馬鹿らしい作り話だろう。しかも、私は彼が死ぬシチュエーションさえよく知らないのだ。話したところで、何になるというのだろうか。

「……高槻さん」

 彼にひどく似た顔が、私を呼んだ。少しだけ、心がギクっとした。その呼び方が、諸伏と同じだったから。小さく呟いた声が、彼に似ていたから。まるで、諸伏に呼ばれたような心地で、胸の奥をぎゅうと大きく摘ままれたような気分だ。

 高明は、私の強張った顔を見て、柔く微笑んだ。柔らかくて、優しい顔つきだけれど、瞳は凜として私を見据えている。伸びた背筋が、もとより大きいだろう彼の背丈をますます大きく見せていた。

「景光は、よく話していました。高槻さんは、弱きを助け強きをくじく、ひたすら自らの良心に従って行動できる人だと。自分と同じように何かに怯えているのに、他の怯える誰かに手を差し伸べるような警察官だと」

 そんなの、買い被りだった。
 確かに良かれと思ってやったことはたくさんある。前世にないがしろにした分、自分たちのような子を助けたいと自分なりにはやってきたつもりだ。
 しかし、エゴだってたくさんあった。現に、私は今、心に天秤を抱えている。


「もし――、もし、君が景光のことをまだ大切に思ってくれているなら。どうか、あの子の尊敬していた君でいてください。恐れを抱えながらでも、迷いながらでも、君の持った正義を貫いてくださいね」

 
 高明は、決してすべて話せ≠セなんて言わなかった。
 ただ、それだけ強く言い聞かせるように伝えると、目の前の膳に箸を伸ばす。もくもくと、綺麗な姿で食事を続けていた。その姿に、私はじわじわと涙が浮かんでくるのを、必死に堪えた。
 嬉しい。嬉しかった。姿は見えない諸伏が、君はロクでもなくなんかないと、励ましてくれているような気がした。


 そうだ、私の正義≠ヘ決まっていた。かつての俺にも、諸伏にも――彼らに手を差し伸べることだ。望まれていない手だって構わない。私は諸伏に、生きていてほしいのだ。

 
 私は、萩原の腕をわずかに引いた。彼は意外そうに私のほうを見る。
「――萩原も、ちょっとだけ、聞いてほしい」
 切り出した声は少し震えたけれど、今はそれを格好悪いだなんて思わなかった。

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Shhh...