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 ふう、と長く吐いた息に、白い色がついた。
 雨があがった後のコンクリートは、湿った空気を冷やしていく。頬を生ぬるい風が撫ぜた。輝きが彩るビルを見下ろしながら、もう咥え慣れたフィルターを唇で噛む。深く息を吸ったら、ここ最近愛用している独特の苦い香りが肺の奥へと流れ込んだ。
 
「……大丈夫、ね」

 呟いた声が、煙と共に闇の中に溶ける。
 まさか煙草の匂いをそんなふうに捉えられるとは思ってもいなくて、やはり会いにいったのは間違いだったかと、燻る煙の火元のように、心の先がジリジリと焦げた。
 彼女の手首を捉えたとき、手袋越しであったはずなのに、その体温の温かさを思い出してしまった。ふわりと擽る香水も、それが熱で籠った匂いも、あの時と変わらないままで。気の強そうな顔つきが、今にも泣きそうに言うものだから、つい体が動いてしまった。

 吐き慣れた革靴で、落とした煙草の火をにじる。
 二本目の煙草を取り出した時、長髪が風になびく様子が視界の端に映った。振り返ると、ちょうど髪を解いた男が取り払ったゴムをピンっとこちらに飛ばしてきた。見るからに不機嫌そうなグリーンアイに、俺は苦笑を零す。

「借り三つだ」
「三つ? 多くないか」
「あの女を無事に送り届けた、部屋にいた男に言い訳までしてやった、あの女の素性を探らないでやった」
「怒るなよ。ちょっと昔のツレに情が湧いたって良いだろ」

 肩を竦めたら、彼は俺の隣にその長身をどっかりと下す。
 組織の中だと喧嘩ばかりのトラブルメイカーらしいが、俺としては可愛いものだ。正直に言って、昔の零とどっこいどっこいである。否、彼が絡むときに限っては、今もか)。カチン、とライターの火を灯すと、餌の匂いを嗅ぐ猫のように煙草を咥えた彼がこちらに顔を寄せた。
 ライターの火を分けてやれば、彼はぷかぷかと夜空に向かって煙を吐く。確かに、借りを作りすぎたかもしれない。しかし、雰囲気も性格も異なるが、どことなく幼馴染の面影を感じさせるこの男に、組織の中ではほんの僅かに気が解れているのは確かだった。


『公安警察からのスカウトなら、俺が非推奨しておいた』
 
 あの日、零から聞いたこと。今でもよく覚えている。にわか雨がアスファルトを、五月蠅く打ち付ける日だった。警視庁から直接声が掛かったと、教官から言われたセリフ。嬉しかった。俺に声が掛かったのなら、きっと零にも、と思っていた。
 しかし、その推薦がなかったかのように、配属先は異なった。同時に、彼は姿を消した――おかしいとは思った。
 あの日、零から連絡があったのは、彼曰く別れを告げるため≠セった。
「いくらヒロでも、もうプライベートで連絡はとれなくなるから」
 昔から変わらない、色素の薄い瞳の奥に、凛と光る意思。俺も彼と共に戦いたかった。なのに、彼は俺のことを弾いたと――一緒には働けないと、そう言った。

 そりゃあ、そうかもな。零に声が掛かったのは警察庁。昔から俺より優秀で、昔から俺よりも一本の道を歩く男だった。時にその不器用さが心配になるほど、ただただ真っすぐだった。
 けれど、見ている正義は同じだと思ったのに――。悔しかった。腹が立った。彼を殴りつけながら「なんで」と尋ねた。彼は言う、俺には高槻がいるから、と。
 だから、捨てたのに。
 天秤にかけた片側を、俺はわずかな差で捨て去った。プライベートの全てを――高槻の隣にいることを投げうって、自分の正義としての道を歩んできたつもりだ。

 組織≠ニ呼ばれる集団のなかに、先に潜り込んだ零のサポートとして潜入した。彼らに怪しまれないように、あくどいことも沢山した。悪人とは言え人も殺した。今回のスナイプで、三人目だった。

 空には、バターナイフで切ったみたいな薄っぺらい三日月が一つ浮かんでいる。
 俺からしたら、助けられなかった命だ。彼らは、きっちりと手錠を掛けられ、罪を償うべき人間だった。三人。三人しか、なのか。三人も、なのか。
 しかし、確実に監視の目が鋭くなっているのも確かだった。一人での張り込みが多かった仕事に、相棒のようにこの男がつけられたのも、俺が疑われているからだ。本当なら俺が殺した人間など、両手の数を当に越している。さすがに、死体が上がらないのを怪しまれているのだ。


「……なあ、お前、恋人いたよな」
「Oh My Pussy……」
「あー、やめろやめろ。別にホモになりたいワケじゃないから」


 うんざりしたように首を振ると、気まぐれそうな目がわずかに笑った。表情に乏しい男ではあるが、時たま見せる笑みは、決して繕っているようには見えない。

「こんな仕事だ、どっかで死んじまったら、とか考えないの」
「――さあ。ただ、死んだら泣くだろうな」
「ライ、お前悪い男だな……」

 俺はクールな返答に、はは、と乾いた笑いを漏らした。吸い込んだ煙は、先ほどよりもよっぽど重たく、体にしみ込んだ。死んだら、泣くのだろうか。高槻は――あの、少しばかり瞳の小さな目元に、涙をためるのだろうか。ふと、手のひらを見つめる。俺よりも、少しだけあたたかな体温。小さな手の、したたかな力使い。

 ――さすがに、死の間際くらい、考えても良いよな。

 もう、決めたことだ。この国の未来のために、正義のために身を捧げること。彼女に会いにいったのも――もしかしたら、少し諦めた部分があったのかもしれない。せめて、彼に自分の死だけでも伝えられれば。――いや、きっと、知らないほうが良いな。
 こんな都会の真ん中で、聞こえるはずのない鈴虫の声が、耳の奥を鳴らした。




 高槻に再会してから、一か月は経っただろうか。
 すっかり気温は上がり、日が暮れても外は蒸し暑く、闇に潜る奴らにとっては都合の悪い季節になった。黒い服、長そでやジャケット、コート、そういった服装は血痕や武器を隠すのにもってこいだが、なにぶん夏は目立つ。――あと、純粋に暑い。

 俺もさすがに半そでの黒いハイネックの襟元を、軽くぱたぱたとはためかせながら、ライフルの入ったダミーのベースケースを担ぎなおした。隣に立つシルエットは、ライとは異なるしなやかな体つきだ。
 ガムを口の中でこねながら、女は鬱陶しそうに輪郭のすぐ横で切りそろえられた髪を払った。キャンティというコードネームを与えられた彼女は、ライとは異なり、幹部であるジンに近い立ち位置にいる女だ。それほど難しい任務ではないのに、より俺への疑惑が高まったということに、否定はできなかった。

「こうも人が多いと、ぜーんぶぶっ放したくなっちまう」
「……怖いこと言うなあ」
「ま、アンタみたいなヘラヘラした奴には分かんないよ」

 正直、彼女のことは得意じゃない。感情が昂ぶりやすく、御しづらい。こちらが理屈的に説得しようとしても、耳を貸さないのだ。憂鬱だ。今日のターゲットには申し訳ないが、保護はできそうになかった。

 人を殺すことが、心地いいわけはない。いつだって、殺さなければと分かった日は、手が震える。悪人にも人生がある、命がある。そんなこと、分かっていた。



「いった〜!!」
「……へ」


 俺は、ついきょとんとして立ち止まってしまった。
 とん、という軽い肩の衝撃には、彼女の声が聞こえてから気づいたほどだ。ころんとよろけた足取りが、そのまま足元に転げた。茶色の巻き髪をかき上げながら、どうやら酒気を帯びているらしい女はヒクっとしゃくりを上げた。

「痛い〜、このヤロー、どこ見てんだよ!」
「ハァ? どう見たってそっちがぶつかってきたんだろ、このアマ!」

 キャンティが気性荒く女を怒鳴りつける。あまり怒らせると、街中で発砲騒ぎになり兼ねない。俺は誤魔化すように苦笑いを浮かべて、地面に座り込んだ女性に手を伸ばした。

「ごめん、俺がよそ見してたよ」

 ――まったく、なんで気分が沈んだ時っていうのは、こんなにもツイてないんだ。
 内心ため息を零しながら、酔っぱらった女に笑いかけると、彼女はマットリップで彩られた唇を不機嫌そうにヘの字にした。

「そっちのクソビッチにも言ってやれよ! 前見て歩けってよ〜!」
「ほら、そのへんにして……起きれるか」

 尋ねると、差し出した俺の手に、小さな手がぎゅうと触れた。――俺より、少し温かな、力強い手が。そして同時に、何かが手のひらに挟まったのが分かった。たぶん、感触は、紙――のような。

 俺がハっとして目の前を見ると、不機嫌そうな女の、サングラスの奥が、こちらを見据えているような――そんな気がした。

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Shhh...