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 繋いだ温かな手は、少し力強く俺の手をぎゅうと握ると、ふらりと立ち上がった。
 ハイヒールを履くと身長まで高槻とは思えなくて、俺はついまじまじとその姿を見つめてしまう。胸や臀部には詰め物をしているのだろうか。さらけ出された足の、ふくらはぎの筋肉のつき方が、彼女が何らかのスポーツをしてきたと物語る。――それだけが、高槻だと思える要素の一つだった。
 それほどに、彼女の変装は完璧であったと思う。声も、怒鳴るといつもよりも甲高くて、彼女のものとは思えない。もともと顔に際立った特徴があるわけではないので、その特徴的なやや横幅の広い目元や片側に引っかかる八重歯を隠すと、彼女の顔は良くも悪くも汎用的だ。

「ふふ、おにーさん格好いいね〜。良かったらこれから店同伴してくんない?」

 引き上げた体は、ハイヒールをふらつかせながらそう笑った。俺は受け取った何か――おそらくメモのようなものを、髪を掻くフリをしてハイネックの奥に押し込む。

「行こう。あんまり目立ちすぎるのも良くない」
「フン、甘っちょろいなあ。こういう女は一回痛い目みないと、分かんないんだよ!」

 キャンティはラバー製の手袋が嵌められた手を、大きく振り上げた。俺は一瞬、反射でぴくりと動いた指先に力を入れて堪える。心の奥に溜まっていたマグマが、ぐわっと沸き立つように怒りが生まれた。ドクっと勢いよく打った鼓動は、表には出ていないはずだ。

 バシィ、と乾いた音が繁華街に響く。
 
 ちらほらと、周囲の目線がこちらに向いた。キャンティは、平手の打ち方をよく心得ていた。指の隙間を作らず、真横からスイングするようなビンタ。頬骨に当たらぬよう、輪郭から耳を狙っていた。
 みるみるうちに、化粧をしていても隠せないほど、その頬が赤みを帯びていくのが分かった。奥歯を噛み締めまいと、必死に平常を保つ。震えるな、力むな、表情を一片と変えるな――。俺は今は、諸伏景光ではない。

 きっと、痛んだだろう。頬には当たっていないが、もしかしたら脳が揺れたかも。鼓膜に傷がついたかもしれない。大丈夫かと心配する心を押し込めながら、ちらりと興味がない風を装って女のほうを見た。

 彼女は――高槻は、へらりと笑っていた。

 片側だけにできたえくぼには、見覚えがある。間違いない、高槻本人だ。

「あはは、ごめんってぇ〜。あんたも一杯どう、姉ちゃん」
「……イカれてるね、酔っ払いめ。ハァ、やる気も失せた。行くよ」
「――ああ」

 キャンティは女に向かって、ぴっと中指を立てると踵を返した。俺もそれに従い、くるりとつま先の向きを変える。後ろ髪をひかれる思いで、去り際に高槻のほうを一瞥する。
 早く帰って、しっかりと冷やして。そう声を掛けたい。高槻は、そんな思いを聞かずとも受けとったかのように、俺のほうを見てニコっと口元を笑ませた。

 泣きたかった。やっぱり、彼女のことが好きだった。
 捨てたのだ。あの日、公安警察に入った日。すべて捨てて、この国のために生きると決めたはずだった。だからこそ、俺の甘えが彼女に縋る間もないよう、会わないままに捨てきったのに。

 今でもこんなに心が震える。
 抱きしめて、キスをしたいと、思ってしまった。

 ――今になれば、零が俺に公安警察を薦めなかった理由が分かる。彼女に触れると、俺の中に僅かな心残りが生まれる。知っている。俺がスコッチである以上、彼女にもう一度触れることはないこと。高槻の隣には、今は萩原がいること。

 だから、心を殺せ! 諸伏景光! お前がどれだけ想ったところで、それが伝わることはないと思い出せ。ぎゅう、とベースケースのベルトを握った。瞬きをすると、彼女の笑った片側のえくぼが、痛いくらいに焼き付いていた。





「Complete――……。こっちはオーケーだ、そっちは」
『はっ、誰に聞いてんだい。勿論クリアさ』
「了解。バーボンに連絡を取ってくれ、このあとの処理を頼んでる」
『分かってる、指図すんじゃないよ』

 ――無線が荒々しく切られて、俺はフウと息をついた。
 引き金を引いた瞬間の感覚が、まだ重々しく指先に残っている。何度引いても、引き心地が軽くなることはない。今日は尚更重たかった、理由は分かっている。高槻に会ったからだ。
 高槻のことを考えて、ふと、ハイネックに隠した紙片のことを思い出した。
 周囲に誰もいないことを確認すると、俺は押し込んだメモを取り出す。メモ――というより、一枚の名刺だった。俺は眉間に皺を寄せて、その名刺に目を通す。

『 害獣対策委員会 高槻ヒカル 熊やイノシシに困った方に――。
 東都杯戸町△△ 02:15番地 ※住所をお間違えなく※ 』

 俺はそれに一通り目を通すと、住所や文面を記憶し、ライターで燃やした。端から黒く染まっていく名刺を眺め、足元に散らすと、軽く足で払った。

 そして、考える。
 熊――熊だ。そうだ、高槻が言っていた。熊が怖いと、生きているうちには遭遇したくないと。そして、見覚えのある名前と住所を眺め、スマートフォンの地図を眺めた。

「……なんだ、バレてたのか」

 俺は、つい独り言を漏らした。ふ、と先ほどまで強張っていた肩の力が抜け、自然と口元が緩むのを感じる。彼女たちなりに、考えてくれたのだろう。邪魔にならないように、ただ、命が危なくなったときに助ける方法を。

「こんなものに頼って、良いのか……?」

 立てたライフルを解体しながら、その音に紛れるくらいの声でぽつりと呟く。
 分からない。たとえ何とかSOSを送ることができたとして、逃げ込んだところで、彼らを危うくするだけではないだろうか。
 そうは思っても、嬉しかったのも、確かだった。
 しばらくはこれを胸に、なんとか自分を保っていけそうな気がする。覚えておこう、彼女が、彼らが危険を冒してでも、俺に伝えてくれたことを。今は、それだけで良い。


 無線が、ざざ、とノイズを鳴らす。
 どきりとして応答すると、馴染みのある声色がイヤフォンから聞こえる。彼は相変わらず、別人かと思うほど愛想を含んだ声で俺のコードネームを呼んだ。

『スコッチ、お疲れ様です。キャンティから連絡はもらいました、もう引き上げても良いですよ』
「ああ、ありがとう。……キャンティは?」

 どうして降谷――もとい、バーボンが無線で連絡をよこすのだろうか。予定では撤退も彼女とすることになっていたのだが。不思議に思い尋ねると、バーボンはアハハと声を上げて笑った。

『なんでも、仲間より酔っ払いクソ女に優しくする男には付き合ってらんない――だそうです。フラれましたね』
「なんだそれ……。はぁ、分かった。一人で行くよ」

 誰に聞かれているかは分からないので、呆れた風を装ってはいるが、内心拳を固く握っていた。良かった。人を殺したあとは、あまり組織の奴と顔を合わせたくない。人を殺し慣れた奴らには、殺した後の動揺が妙に目立つ。それを取り繕うのには、必要以上の神経を使うのだ。

『ああ、ついでに煙草、買ってきてくれません? ポールモール、カートンで』
「OK……大丈夫」

 それは、彼との間で使っていた暗号だ。
 煙草の銘柄の色と、買ってきてほしいか、買ってきたのかで疑問文を作っている。彼が買ってきてくれないかと言ったときは、俺の状況。買ってきたと言うのは、今の彼の状況を伝えたいとき。色は、緑や青系が『安全』、黄色や黄土系は『要連絡』、黒が『見張り有』。ポールモール、赤色は――『危険』。

 やはり、一度任務を成功させたくらいでは許してくれないか。
 疑わしきは罰せよ、それがジンのやり方だ。このまま疑いを深くするのは、俺にとっても零にとっても分が悪い。だから、彼は見ているのだ。見定めて、いるのだ。ポケットから皺くちゃになった煙草を取り出すと、俺はそれに火をつけた。

「熊ね、確かに遭遇したくはないな」

 自嘲気味に、足元に落ちた灰を見下ろす。大丈夫、まだ、やれるはずだ。あの子が勇気を出してくれたように、俺にも立ち向かわなきゃいけないものがある。――頬、冷えたかな。俺は無意識に、煙草をくわえながら自分の輪郭を軽くなぞっていた。  

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Shhh...