91


「百花ちゃん、準備できた?」

 袖口のボタンを留めながら、萩原がひょこりとクローゼットの影から顔を覗かせる。ワックスで軽く整えられた髪は、彼の薄っぺらく大きな耳をチラチラと見え隠れさせた。私はその拍子にブレそうになったマスカラを持った手先を退けて、軽く振り向いた。

「あとちょい! ごめん、コテつけて」
「はいはい。髪やったげようか」
「マジ? ごめん、お願い!」

 いまだにメイク用の鏡と向き合う私の後ろ髪を、彼は優しい手つきで掬った。髪の長い彼が、よく小さめのストレートアイロンを使うものの、コテを使い慣れているところについては――その手先の器用さを褒めるべきか。片手だというのに、よく器用に巻くものだ。
 しかし、彼の手首がするすると髪の波間を縫うのは嫌いじゃなかった。鏡越しに見る彼は、常にへらへらとした顔つきを柄になく真剣そうにしていて、私はつい笑いが零れそうになるのを堪えた。

 諸伏に、あの名刺を渡してから少し経つ。じりじりとした暑さも、残暑へと変わりつつある季節だった。
 最初こそ気が気じゃなくて、ことあるごとに彼に示した住所へと足を運んでいた。毎日なんて良い方で、心が落ち着かない日は一日に三度も訪れたこともあった。
 非番の日だろうと出勤だろうと私がそんな調子なので、萩原は苦笑いを浮かべて告げた。

『俺や陣平ちゃんも、班長も気にしてみてるから大丈夫だよ』

 私を気遣って告げられた言葉にも、どうにも落ち着けなくて顔を出してしまって、いよいよ彼が私を連れだしたのだ。
 頭では理解している。彼がサインを送らない限り、私たちにできることはないって、分かっている。
 でも、もし気づくことが遅れたたった一秒が彼の命に関わるのでは――なんて、そんなネガティブな思考が根っこに染みついてしまっていた。せめてもう少し、私が何かその作品について知っていれば良かったのだけれど。

「……また考えてるでしょ」

 萩原は苦笑いをしながら、鏡越しに私のことを見つめた。いつのまにか巻かれた髪はポニーテイルにされていて、首筋から僅かに後れ毛が遊んでいる。

「うわ、可愛い」

 つい、言葉が漏れた。私は何度か角度を変えて鏡を眺めた。今日のために着替えた服が、えり抜きのTシャツワンピースだったので、ラフだけど少しエロくて可愛い。自分で言うのもなんだが、よく似合っていた。
 萩原が満足げに「だろ」と頷く。似合っている髪型を見ると、少し気持ちが浮かばれた。私はオレンジがかった水光リップが輝く唇の端を、僅かに持ち上げた。

 思えば、非番の日に萩原と過ごすのも久々かもしれない。最近――それこそ、ソタイに入ってからは諸伏のことで頭がいっぱいだったし、その前も互いの日程が合わないのはよくあることだった。まあ、一緒に住んでいたので、家に帰れば共に過ごしはしたが、出かける機会は少なくなっていた。

 私は最後にどこで買ったかも忘れたシルバーのピアスをつけると、鞄を持った。萩原もパンツの皺を伸ばすように軽く膝を払って、私のほうに向かって大きな手を差し出した。

「さ、行きますか」
「はーい」

 自然と差し出された手を握る。彼の手は、私よりもいつも温かい。手を繋ぎたいのだという彼に、常に左側を歩くのももう慣れた。
 



 萩原と向かったのは、都内にあるショッピングモールだった。大きめのアウトレットのような店内に、小さな遊園地が併設されている。遊園地――といっても、観覧車以外は小さなアトラクションしかなかったけれど。
 非番と言えど、互いに刑事部だ。いつ本庁から呼び出しがかかるか分からないので、思い切り外出できないのは、この仕事の痛いところである。世間的には平日のショッピングモールは人もまばらで、いまいち賑やかさに欠けた。

 萩原は、軟派そうな見た目に反して、案外細やかな趣味をしていない。
 読む雑誌は専ら車系のものくらいで、服装にも特段こだわりはないらしい。パーティや食事用のハイブランドもの以外は、いつも目についたものをまばらに買う。彼曰く「何を着ても同じ」だとのことだが、確かに彼の顔からすると、襟付きだろうがTシャツだろうが、チャラそうに見えるのは変わらなかった。

 それが可笑しくて、私はわざと彼が選ばなそうなオーガニック系の服を合わせてみる。コットン地のシャツを当てられて、彼は太い眉を情けなく下げていた。

「……面白がってるよね?」
「え〜? 全然、まったく。私の好みだから選んでるだけ」
「本気で言ってんの? しかも俺が着てもこれビッグシルエットにならないよ」

 私が持った服は、ゆるやかなシルエットが特徴的なブランドだった。確かに体格の良い萩原が着たところで、つんつるてんでピチピチだろう。それを想像したら、ますます面白く思えてしまった。

「萩原、デスゲームとかで初期装備にシャツ支給されたらもうダメだね」
「どういう例えだよ……」

 萩原は呆れたように、しかし嫌がることはなくクククと笑う。
 私がいつも鈴奈たちと寄るブランドは、もう秋色一色だった。まだまだ長袖でなど過ごせない気候だが、アパレルとは早いものだ。店の中、きっと熱いだろうにコーデュロイのジャケットを羽織った女性に尊敬の念を送る。

 セールになっていたロゴのついたスウェットと薄い生地のカーディガンを買うと、お腹がすいたねなんて話しながら歩く。ちらちらと、周りの目が萩原を見るのは、彼が目立つ風貌をしているからなのか、背が高いからなのか、その手の先がないことに気付いているのか。いずれにせよ、彼は群衆のなかでもよく目立った。
 高い位置にあった腰が少しかがんで、私に視線を合わせながら尋ねる。

「なんか食いたいモンある?」
「……ラーメン」

 ちらりと、私は客足のあまり入ってないラーメン屋を一瞥した。萩原は少し瞬いてから、良いよとほほ笑んだ。


 店の内装は変わっていない。一度しか来たことがないが、弱く回る扇風機さえそのままに思える。おいしそう、とメニューを眺めながら、私は一度萩原を見上げた。

 ――彼のことは、もちろん嫌いじゃない。
 だからこそこうして隣にいるのだし、触れることも、キスすることもできる。一緒に出掛けるのは楽しいし、二人でいると落ち着く。
 萩原は、それで良いのだろうか。私が諸伏をどれだけ追っても、彼は何一つ文句を漏らさない。寧ろ、大切な友人だからと彼も積極的に協力してくれていた。
 
 私は、まだ諸伏に会うと、鼓動がどくどくと五月蠅く鳴る。

 世界のなかでその場所だけ、色が変わったように、彼の姿が色鮮やかに見える。触れたいと思う。手を、握りたいと思う。彼と今まで行ったすべての場所が、忘れられない。今まで見ないフリを続けていた感情に正直になるのなら――私は、たぶん、まだ彼のことが好きだった。

 それで、良いのだろうか。そのままで――。


「百花ちゃん?」


 ぱっとメニューから顔を上げた視線と目が合った。私は慌てて表情を取り繕いながら、「味噌ラーメンにしようかな」と言った。萩原も「お」と喜びの声を上げると、店員に味噌ラーメンを二人前注文していた。

 彼は表情を強張らせた私を見つめると、ニコっと口端を緩める。――彼は、変わらない。傍にいてと願ったあのころから、変わっていない。きっと、私の想いがどこにあろうと、彼は変わらないのかもしれない。

 変わったのは、私のほうだ。
 彼に申し訳ないだとか、そうやって思うのも、全部自分の勝手な都合だった。諸伏への感情を隠したくて、それを本気にしたら今のこの関係が壊れるかもなんて、そうやって思っていた私のエゴだった。

 感情に敏い萩原の笑い方は、綺麗だ。私の心や考え方など全部見透かしたように、安心させるようにニコリと笑いながら、運ばれてきたラーメンを見て「うまそー」と顔を綻ばせた。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...