92

 
 彼の、温かな体温を知っている。
 人よりも少し肌が温かいらしい萩原は、その左手をよく手繰り寄せるように繋いだ。手首から先のない右手を、そっともどかしそうにこちらに寄せて、冬なんかは足を挟むと心地いいと笑っていた。

「さみしいんだ、離れてちゃあ」

 彼と一緒に住んでから、別の場所で寝た日はない。もちろん、仕事で帰らないような夜はあったけれど。
 シーツの中に長い足を泳がせて、最後は居場所を見つけたようにひっそりと寄りそうのを知っていた。それが母親を見つけた子どもみたいで、心の中では少し笑っていた。だって、あんなに大人びた風貌の男だから。そんなところだけ子どもっぽいなんて、変な人だなって思ったのだ。


 ――思えば、その足が私のほうにぴったりとくっつかなくなったのはいつからだっただろう。気にする心の余裕もなかったけれど、昨日も、その前も――思い出す限り、隣で寝た彼の体温が、ほんのりと遠かったような気がした。

 そんなことを思い返していたのは、店を出て手を繋ぎ、ショッピングの続きをしているときだ。ぎゅうと絡めた指先に、わずかな違和感を抱いたせいだった。大きな手のひら、つい、繋いだ指がぎこちなく強張る。
 もしかして彼は、私の気持ちを何らかで勘付いているのではと思った。
 ただでさえ、人の感情には一際鋭い彼のことだ。三年間、心の奥底へ沈めていた気持ちだった。

「百花ちゃん」

 ぎゅっと、繋いだ手が引かれる。私ははっと追いやっていた思考を取り戻して、萩原を見上げた。彼は苦笑を浮かべると、「大丈夫」と尋ねる。私は慌てて何度か頷いた。正直上の空だったことは、見抜かれているだろう。

「疲れたなら、ゆっくり帰ろうか」
「え、別にそんなんじゃないよ」
「……良いよ。歩いて、帰ろう。夕食の買い物でもしてさあ」

 映画でも借りてみるかあ、と彼は少し上を向いて歩き始めた。なんだか申し訳なくて、その長い脚のゆったりとした歩調に食い下がるように小走りで追いついた。

「せっかく同じ日に休みとれたのに、なんか食べいっても良いし」
「うーん……。あ、じゃあ、一個だけ」

 と、彼はショッピングモールの窓から外を指した。指先を辿ると、ここから見るとレゴブロックのように、色とりどりのゴンドラが回っている。萩原はいつもと変わらないゆったりとした口調で、「あれ、乗りてえなあ」と言う。
 断る理由なんてなかった。むしろ遊園地のほかのアトラクションも乗ろうかと提案したが、萩原はゆるやかに首を振る。

「腹いっぱいだし、ゆっくりしたいから」

 まあ、彼がそう言うなら。二人でチケットを買うと、ゴンドラに乗り込んだ。赤色のゴンドラだった。
 先に乗り込んだ私の向かい側に、萩原は腰を下ろす。彼はやはり子どものように、嬉しそうに外の景色を眺め始める。明るい日差しが、彼の黒髪を背後から差して、そのシルエットを際立たせた。ふと横を向いた時の高い鼻、広い肩幅、きらりと光る眼幅の広い瞳。

「お、すげえ。あそこ、百花ちゃんが前いた交番でしょ」

 ゴンドラが上がってくると、周りの景色が目に入る。まだ陽も高くて、ロマンチックとか、そういうのじゃあなかった。けど、私も彼と同じ方向を見た。

「本当だ。懐かしい」
「こうやってみると、やっぱ交番ってチッポケだね」

 懐かしい、といっても、つい去年までは勤めていた場所だ。今度顔を出しに行こうかな、と一人思い出に浸っていると、頬を刺すような視線が射抜いた。ゆっくりと振り向く。萩原は、外ではなく私のほうを見つめていた。

 ぎく、と心が動く。
 錆びた歯車が、ゆっくりとひとつ回ったようだった。そんな心地がした。
 
 萩原は一度煙草を咥えて、ライターを手に取った。そして禁煙の表記を見て、きょとんと眼を瞬かせると、気まずそうに煙草を齧る。湿ってしまった一本をケースの中に戻しながら、萩原は笑った。


「――百花ちゃん、まだ、好きだよね」



 間延びしているのに、固い声色が言った。やっぱり、だなんて、どこか確信めいた心がある。私は小さく、首を縦に振った。

「どうしたい?」

 そのどうしたい、というのが、私たちの関係のことを表しているのを知っていた。萩原のことを見つめると、彼は沈黙を気まずいと思ったのか、首筋を掻きながら口を開いた。

「前とは状況が変わっただろ。諸伏ちゃんの姿が、百花ちゃんには見えている。例えば――だけど、アイツのことを無事に助けられたら、そのあとはどうしたい」
「萩原、あのさ、ずっと話したくて……」
「俺はさ、百花ちゃんのこと好きだけど、できたら背中を押してあげたいし……。元はと言えば、諸伏ちゃんが帰ってくるまでって話だったから、覚悟はできてるっつうか」
「萩原!」

 しゃべり続けるその声を遮るように、その名前を強く呼ぶ。萩原は、びくりと肩を震わせて、ついと逸らしていた視線をこちらに戻した。

「――私、諸伏くんのことがね、好きだ」

 静かに、ぽつりと呟いた。萩原は、「うん」と淡々と相槌を打つ。
 そうだ、私は確かに諸伏のことを好きだ。今も、そうだ。彼のことを思うと体が熱い、触れたところからビリビリとして、ほかにはないくらい感情が高ぶる。顔を見るとひたすらに触れたいと、その手に、体に触れたいと思う。
 諸伏がいるだけで、私自身の世界が色づくみたいだった。

「でも、萩原は……萩原のことは……」

 萩原のことが、嫌いかといわれると、それは違う。
 確かに、恋ではない気がする。彼を見てもドキドキとはしないし、ほかの人と歩いている姿に煮えくり返りそうな怒りも湧かない。触れた場所は痺れもしないし、たぶん私からキスをしてとせがむことは、今後もないかもしれない。

 それでも、だから諸伏がいたら彼とはいられないと、そう切り捨てるには――ずいぶんと、穏やかで優しい、長い年月を過ごしすぎたと思う。
 痺れるわけではないけれど、じんわりと温めてくれる彼の体温のような。一緒に笑いあうことの幸せのような。

 それは、例えば――一つ、言葉にするのならば。

「……あ、愛…………みたいな」
「へ?」
「だ、だから! 諸伏くんに恋してたっていうなら、萩原との間には、その……愛が、あったような気がする」

 あい、と彼の広い口が形だけで繰り返す。
 言葉にするにはあまりに恥ずかしい言葉で、私は二の腕をぽりぽりともう片方の手で掻きむしる。

「だから、ぱっと乗り換えたり……そういうんじゃないって言いたいんだ。すぐに結論が出せなくてごめん。もちろん、萩原が嫌っていうなら受け止める気持ちはあるけど……」
「待って、待って。ちょっと……待って」

 恥ずかしさを誤魔化すようにぺらぺらと話し出した私を、彼が止めた。なんだか気まずく思った時の対応が、二人とも被っていて、一緒に暮らすとそんなところまで似るのかと思ったりもする。
 萩原は目元を赤くして、口元を大きな左手で覆った。ゆらりと、涙の膜が揺れる。
 何度も言葉に詰まったように、口を開いては閉じて、そのたびに厚めの口をぎゅうと引き結んだ。それを何度か繰り返したあと、彼はぼろっと大きな粒を目の端から零して、ほとんど吐息のような声を切り出した。


「――ありがとう」


 ようやく見つけた言葉だと、それが伝わるような掠れた声だった。私が――私が、言わなければいけないことだった。私は彼のほうに、座席の前にひざまずくように体を寄せた。ゴンドラが、少し斜めに傾く。

「本当は、今日で最後にしようと思ったんだ」

 と、萩原は弱弱しく、震える声を抑えることもないまま告げた。一粒零れた涙が堰を切ったように、もう一粒、もう一粒と膝に涙を落としていく。私の頬にも、一粒、彼の体温と同じ温かな涙が落ちた。

「泣いてばっかで、ごめんなあ」

 彼はボロボロとこぼした涙を拭うこともなく、震えた口元を微笑ませた。ニコリと――、彼の笑顔は、綺麗だ。それは例えば、夏乃の笑みを見たときによく似ていた。彼は歪んだ綺麗な笑顔を浮かべたまま、私の頬を右手首で撫でた。


「最後に、ちゅー、しても良い?」


 ゴンドラが半ばより下に下がって来たことを一瞥して、私は良いよと頷く。確かに、観覧車から降りるにはその顔を拭う時間が必要だ。温かい唇が、柔らかく重なる。涙がこぼれたせいか、少ししょっぱく思えた。舌は入れない、重ねるだけのキスであったのに、ずいぶんと長く重なっていたと思う。さら、と萩原の髪が輪郭を擽った。
 最後に、名残惜しそうに上唇を軽く食んで、その顔が離れていく。

 体温を感じるほどの近い距離。ガコンとゴンドラが揺れて、私は慌てて膝を立たせた。係員ががちゃりと扉を開けて「気を付けて降りてくださいね」と。私が降りても、萩原が座ったままだ。

「ごめん、先行って」

 ――萩原は、鼻を啜りながら言う。係員に断りを入れてゴンドラから降りようとしない彼に、もう少し落ち着く時間が必要だろうかと。なら私も付き合おうと踵を返した時だった。


「――行けって!!」


 初めてだった。
 たぶん、周りにも聞こえるくらいの声だ。スタッフがちらほらとこちらを振り向くのが視界の端に見えた。そのくらいの声を上げた萩原を閉じ込めるように、扉が閉められる。

 初めて、だった。
 あの穏やかな声が、怒鳴ることなんて、聞いたことがなかった。大声を上げることはあっても、常に優しい人だった。萩原がどんな気持ちでそう怒ったのか、まだ、理解はできなかった。

 ただ――「最後のちゅー」は、もしかしたら、観覧車の中でということではなかったのだと、そんな気はした。まだ頬を濡らしている、彼の涙を指先で撫でる。

 
―――
――

 一周回ったゴンドラから降りてきた萩原は、目元こそ赤かったけれど、いつものように笑顔を浮かべて「帰ろうか」と言う。帰り道も、帰ってからも、その次の日も、次の日も。やっぱり、もうキスはしなかった。
prev さよなら、スクリーン next

Shhh...