柔らかなキスが、心を焦がすほど皮膚の感触を痺れさせた。
ずっと、いつ言い出そうかと思っていた。俺は、彼女のそばにいられれば良い。それだけだと、思っていた。――諸伏が姿を現したなら身を引くつもりだったし、それでも余りあるほどの幸せを味わったと思った。
その気持ちに、嘘はない。しかし、いざその時がくると、うまく言葉にできなかった。彼女が諸伏に再会した日。危ないよと掴んだ手を大きく振り払った背中を、見送ることしかできなかった。手のひらに血が滲むくらい、錆びついた扉を叩く姿を、支えることしかできなかった。
「――諸伏くんッ!」
悲痛な声だった。
名前しか呼ばないその声だけで「どうか開けて」「顔を見せて」と、彼女の願いが俺にまで届くくらいだ。扉の向こうにいた諸伏には、殊更だっただろう。その姿を見たとき、ああ、やっぱり俺じゃダメだと思ったのだ。
どれだけ俺に合わせて恋人らしいことをしてくれたって。
どれだけ好きだよと言う俺に応えようとしてくれたって。
高槻の心情の奥底に、申し訳ないから、悪いから、という気持ちがある時点で、諸伏へ勝ち目などなかった。彼女は、まだ諸伏のことを本気で思っているのだ。あんなに必死に扉を叩いて、今までにないくらいに魘されて。
眉間に皺を寄せて、ひくっときつく閉じた目元を痙攣させる、彼女の寝姿。今でもよく思い出せる、一緒に住んで三年間、一度と見せたことがない表情。頬を軽く撫でると、苦しそうに諸伏を呼んでいた。
「まって、あけて」
と、何度も、何度も魘されていた。
その感情に蓋をしていたのは――間違いなく、俺だ。
分かっていた。身を引こうと、思っていた。
けれど、うまく言えなかったんだ。長くこびり付いた彼女への想いが、俺の行動にまで蓋をしてしまったようだった。
最大の理解者である仮面をかぶって、名残惜しくて、愛おしくて、離れることができなかった。
だって、好きだったんだ。
彼女に出かけようと提案したのは、例の場所に張り付きがちなのを一休みさせたかったこともあるが、俺の中で一つケジメがついたからだ。もう、やめよう。諸伏のことを必死に助けようとする、高槻の邪魔にならないようにしよう。そう思っていた。
「だ、だから! 諸伏くんに恋してたっていうなら、萩原との間には、その……愛が、あったような気がする」
その言葉に思わず身が固まってしまった。
声にならない声で反復すると、彼女の小さな頬が僅かに色づく。その華奢な姿が映る世界だけが、ぱっと鮮やかに色を灯しているようだった。
高槻が、そんなことを思っていたことに、これっぽっちだって気づいていなかった。気まずさや罪悪感だけで隣にいたわけじゃあ、なかったのだ。俺との日々を、少しだって軽んじてなんか、なかった。
自然と、視界が揺らいだ。
ぼろぼろと涙がこぼれた。俯いた顔に伝うことはなく、粒になって足に落ちていく。急に、やっぱり離したくないと思ってしまった。ずっと一緒に、傍にいてほしい。諸伏のことを好きだって良いから、俺の手を繋いでいて。俺よりも少し冷たい肌に、触れさせて。
思わず零れそうになった言葉を飲み込んだ。
駄目だ、それでは今までと同じだ。俺のこの気持ちは、恋だ。彼女が俺に抱くような心地の良い愛情とは違う。もっとビリビリと痺れるような、欲があふれているような、汚いような、綺麗なような感情。きっと、高槻が諸伏に抱いているのと、同じもの。
だから、手放してあげなくては。感情を塞いでいる蓋を、俺が退けてあげなくては。
「最後に、ちゅー、しても良い?」
なんとか切り出したその一言に、彼女は何ということはなく、猫のような気まぐれそうな目つきをきょとんとさせた。
観覧車も終わりに近づいていたから、きっと観覧車の中で最後に、という文脈と勘違いしたのだろう。「良いよ」だなんて、軽く微笑むその顔が、俺の感情を益々溢れさせた。
好きだ、君の笑った顔が、好きだ。
俺の願うことは、あの時から変わらない。少しだけ、欲張りになってしまっていただけ。本当は、初めて好きだと思った日から、君の笑顔だけを望んでいた。泣かないで、笑ってほしいと、それだけを願っていたはずだった。
これから先のぶんをすべて先取りするように、できるだけ長くその唇を重ねた。もっと深くキスをしたかったけれど、そうしたらもう自分が戻ってこれない気がした。名残惜しく、寂しく、軽くその薄くやわらかな上唇を食みながら唇を離す。
その体温を感じたら、溢れたものが止まらなかった。喉の奥が痛い、嗚咽を我慢したせいだ。目の奥が痛い、これ以上ないくらいに涙を絞り出したせいだ。
でも、もう、止めてはいけない。歩ませてあげないと。彼女が本当に行きたい道へ、行かせてあげないと。
「――行けって!!」
怒鳴り上げた声は、自分の震えと嗚咽をごまかすためだった。
だって、思い出してしまったのだ。
初めてキスを受け入れてくれた日のこと。ひどく気恥ずかしそうで、彼女はその薄っぺらな耳たぶを掻きながら、一瞬触れるだけのキスをした。
初めてセックスをした日のこと。まるで男の仕草みたいに、こちらの服を脱がそうとしてきて、痛みに耐えようとギュウっと瞑った瞼が可愛かった。
初めて手料理を作ってくれた日のこと。料理のセンスなんかほとんどなくて、ソーセージを焼いてレタスをむしっただけの夕飯。
すべてを一度に消化しようだなんて、無理な話だ。
それにしては、長い月日を一緒に過ごしすぎたと思う。でも、月日がなくたって、俺はきっと――。
このゴンドラから降りたら、高槻の手助けをすると決めている。心から笑って、自由に感情を震わせられるように。諸伏のもとへ、何の足枷も持たず駆けつけてゆけるように。
俺は一度しまい込んだ煙草を、口に咥えた。
ゴンドラの内扉には、煙草にバツ印が書かれた『NO SMOKING』のマークがこちらを見つめている。俺はふ、と片側の口角をあげると、その先に火を灯した。
「許してくれよ、こんな日くらい……」
ふ、と軽く揺らぐ視界を誤魔化すように煙を燻らせた。――「悪い刑事だなあ」と、高槻がニヤニヤしながら言ってくるのが、目の前にいるように想像できた。それもまた俺の目の奥を熱くして、自爆してしまったなあと後悔するのだ。
もしも――もしも、諸伏のことを助けて、すべてが終わって。そのあとまだ彼女が傍にいてくれると言うのなら、その時は。
だなんて考えている時点で、俺の心は未練でいっぱいだと自覚させられる。胸ポケットに入れていた携帯灰皿に煙草の先を押し付けて、ゴンドラの扉を浅く開けた。まだ降りるには高い位置にある入り口からは、ビル風が吹き込んでいた。