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 季節は、少しだけ巡る。
 秋風の涼やかな時期から、鋭く冷たさが肌を刺すような空気に変わる。
 萩原とは、本当に前と変わらない関係だった。ただ、この数か月、キスを一度もせず、あんなにピッタリとくっついた体温が離れたことは確かだ。寂しいかと聞かれたら、そりゃあ、寂しい。今までそれが、私たちの中で当たり前だったのだから。ただ、肌寒い季節に、彼が初めて好きだと言ってきたことを思い出した。「そばにいてくれ」と泣いたことを、思い出した。
 ――追うことは、しなかった。
 彼は見た目や語り口とは裏腹に、誠実で臆病な男だった。たぶん、萩原なりに、考えたのだ。それで彼がその結論に辿り着いたのだったら、私はその背を押してあげなければ。曖昧な答えばかりで、ただ彼の優しさに縋るように傍にいる私から、彼を自由にしてあげなければ。そう、思った。

 かといって、彼は気まずそうに毎日を過ごすわけでもなく――例えるなら、あのクリスマスイブよりも前と同じだ。あんなに友達ではいられないと思ったのに、再び友達に戻ったようだった。

「百花ちゃん。行ってくるね」
「はーい、行ってらっしゃい」

 ベージュのジャケットを肩に掛けて、彼は革靴を鳴らした。私は非番だったので、冷たい空気から逃げるようにカーディガンの袖を伸ばしながら、大きく欠伸をして玄関に手を振る。

『萩原君、何かあったの?』

 ――佐藤から、心配そうな声色で電話が掛かってきたのは、ずいぶんと前のことに感じる。確かに互いに友達と同じ距離に気まずさを感じていた時期で、でも意外だった。基本的にプライベートを仕事に持ち込むような男ではなかったから。
 私は軽く肩を摩り、ふるっと体を震わせる。今年の冬がこんなにも寒いのは、きっと傍にその体温がないからだ。

 ふう、と吐いた吐息が、冷え切った天井に白く染まる。
 それでも、しっかりと進まなければ。私は昨夜纏めていたまま投げ出されている書類を寄せ、部屋着をスウェットとデニムに着替えた。寄せてできたスペースに鏡を置くと、黒く染めなおした髪を適当に梳く。萩原がやるよりも、全然綺麗にセットはできなかった。




 自動ドアを潜ると、けたましい音が耳をがんがんと鳴らす。もう日課となっているので、その音にも慣れてきた。いつものルートを潜り抜けて目的の場所に向かい、気だるく歩いていると、頭の上に何か固いものが乗せられた。やや温かな感触に、ぱっと振り向くと、缶コーヒーを手にした松田が小さく手を挙げる。

「飲むか? 当たった」
「松田がくれるなんて珍しい。どうしたの」
「別に、微糖嫌いなだけ」

 なんだ、と私はまだ温かさの残った缶コーヒーに手をつける。プルタブに指を引っ掛けた。――否、まだ缶は温かい。彼の手に持ったコーヒー缶はすでに灰皿代わりにされていて、たぶん私が貰ったものとは別だ。
 そうなれば、結論は一つ。私の姿が見えて、彼が自販機で買ったのだ。数年経とうが素直になれない小学生男子のような態度なので、それが可笑しくも、しかし嬉しく、私はニヤニヤと持ち上がる口角を隠すように飲み口に上唇を乗っける。

 しかし、それもバレていたようで、松田は小さく舌を打った。こんな態度をしているが、彼の根っこは熱く真っすぐで、友達想いなのを知っている。それは幼馴染である萩原にも、私にも伊達にも諸伏にも、降谷にも。彼は友達≠ニいうものに、平等だ。

 萩原から何か聞いたのだろう。いや、彼が察しただけかもしれない。あの観覧車を降りた次の日に、『あんまり気にしすぎるな』と、淡々としたメールが送られてきたことを忘れはしない。

 私はその気持ちが嬉しくて、ぐっと缶コーヒーを飲み干すと、財布から取り出したコインを投入口に入れた。よし、と意気込んでシートをまたぐ。それは、私の日課だ。バイク型のレースゲーム。これだけ長い期間打ち込んでいるというのに、いまだに一位のスコアを抜かせたことはない。

 カーブでハンドルを切りすぎてクラッシュした。
 いつもよりも大幅に遅れてしまったタイムにため息をつきながら、画面を見つめる。私が見たいのは、最後に表示される画面だった。このゲームを競う僅かな人の、ランキングが表示される画面。
 ちなみに、二位は私。三位は秋からこのゲームを始めた萩原だ。そして一位は――。


「おい」


 ぐっと、松田の手が私の肩に力強く乗った。
 私も、その画面を見ていた。一度嫌なほどに鼓動が跳ねて、すう、と息を呑んだ。何度瞬きをしても、画面に表示される文字は変わることはない。松田のサングラスにも、反射して、よく見えた。

 一位は、いつだって『ヒカル』だ。彼のタイムが抜かれることはない。それは三年間、ずっと同じことだった。

 そして、その『ヒカル』という男が誰なのか。今隣にいる――松田本人が、私に教えてくれたことだった。ちょうど高明と連絡を取り始めた頃だろうか。なんとか彼に、上手く伝えられる方法を考えていた時、松田が言ったのだ。
 諸伏は、いつもああいったゲームをするときにカタカナで『ヒカル』という名前を使うこと。それは――松田が、親しくしていた降谷から与太話で聞いたらしい。そして、降谷と諸伏が、学生の頃からずっとプレイしているレトロなレースゲームの名前。それが、このゲームだった。

 確証はない。絶対にそうだとは言い切れない。
 自信家な松田には珍しく、何度か弱気にそう告げていた。それでも良かった。だから、あの名刺に記したのだ。住所をお間違えなく、と。


「二分、十五秒……」


 ヒカルのタイムは、三年間抜かれることはなく――しかし、変わることもない。恐らく、昔プレイしてからずっとそのままなのだ。ただ、そのタイムが変わっていた。そのことは、私が一番よく分かってる。

 ただ、その事実に体が芯から冷え切っていくようだった。
 
 諸伏は、正しく読み取ってくれたのだという嬉しさ。そして、彼があちらからそうしてサインを出したということは、彼の身に何かあったのだという動揺。

 じっとその画面を見つめることしかできない私の肩を、ぐっと乱暴な手つきが引き込んだ。画面から無理やりに目を逸らされ、目の前に焦った表情の松田がいた。両肩をぎゅうと掴まれて、言い聞かすように名前を呼ばれた。

「お前が、助けるんだろうが。そんなんでどうする」

 両肩を掴んだ指先が僅かに震える。
 きっと、彼も動揺はしていた。焦りの底に、僅かに私を叱咤する怒りも覗いた。私は鼓動を落ち着けるように深く息を吸い、こくりと彼に向って頷いた。

「ごめん、携帯借りてもいい? 私の携帯からかけないように言われてて」
「じゃ、そっちの携帯貸せ。萩たちに伝える」

 私たちは携帯をトレードし、画面に指を滑らせる。私がかけるのは、もう嫌というほど暗記した電話番号だ。2コールの呼び出しのあと、受話器越しに聞くと一層低く聞こえる声色が、『はい』と返ってくる。

 私はもう一度、しっかりと深呼吸をする。
 高明から何度も言われていた。内容は周囲が聞いても分からないように、しかし簡潔に。

「高槻です。お忙しいところすみません。明後日、お伺いしても良いですか」
『明後日ですか……。失礼、その日は都合が合わなくて。明日なら空いているのですが』
「承知いたしました。では、また明日――」

 短い通話を、指一本で終わらせる。
 私は連絡を終えたらしい松田と、顔を見合わせた。この日が来なければ良いと、思っていた。全部私の気休めだった、と冗談めかして笑えたら。しかし、彼が助けを求めているのなら、その手を取りにいかないと。
 ぐっと、口を引き結んで、携帯を握る力を強くした。

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Shhh...