95

「失礼します!」

 私は翌日出勤すると、すぐに佐々木のもとへコツコツと作りためていた調査資料を提出した。大丈夫、伊達たちにも散々中身を校正してもらった。手のひらに滲む汗を誤魔化すように拳を作り、目の前で資料に目を通す佐々木を見据えた。

「高槻、お前……」

 驚いたように、佐々木はこちらを見返す。
 ――当たり前だ。私が独自に調べたとは言え、それは捜査が打ち切られたはずのクラブの一件の調査資料だからだ。正直、賭けではある。ここで彼が話に乗ってこなければこの作戦の意味がない。――が、どこか確信もある。あれほどに捜査の打ち切りを悔やんでいた彼ならば、と。その一警察官としてのプライドが、きっとこの話を掘り下げるはずだと踏んでいた。

「他の客からの目撃情報もあります。……追わせては、貰えないでしょうか」
「――……そりゃあ、クソッ」

 厳ついスキンヘッドを掻きむしりながら、彼は数十秒ほど考え込んでいた。
 ごく、と生唾を呑む。高明のことを信用はしていたが、目の前にすると話は別だ。罪悪感も、あった。私は今から、彼を――彼らを巻き込んで、盛大な嘘をつこうとしているのだから。

 資料に貼られた長髪のグリーンアイを見下ろして、私はもう一度拳を固く握る。時間がない。彼がどういう形であれ連絡をとるだけの猶予はあるはずだ。まだ、あの子が話していたような状況では――きっと、ないはず。そう信じることしか、私にはできない。
 
「……分かった。こんだけ目立つ男だ。調べりゃ一つくらい落ちるだろう」

 重たいため息とともに吐かれた言葉に、私はパっと顔色を明るくした。そして、鋭くこちらを見る佐々木の視線にギクリと体を固まらせる。

「やるからには、お前も来い――。だが、あくまで一警官であることを忘れるなよ」
「は、はい!」

 敬礼を額に当て、私は背筋を伸ばす。佐々木の視線は、私の思惑を見抜くようで、顔が引きつるのを必死に堪えていた。




 
 ソタイ――もとい、組織犯罪対策部。特に薬物・銃器を取り締まる第五課は、ドラマでは『マトリ』と呼ばれる麻薬取締官と混合・対立されがちだ。
 実際捜査対象が被ることも多い。麻薬取締官は警察以外に拳銃の携帯とおとり捜査を許された数少ない職業だ。麻薬取締官は、薬学部出身者が多く、その名の通り麻薬のエキスパートであった。――ならば、警察の第五課とは。

 マトリの強みがエキスパートによる、専門的な捜査だとすれば、ソタイの強みはその数と取り締まることのできる範囲だ。まず、動員できる人数が違う。検問を敷くことも、他の部と連携を取り更に深い所まで叩くことも可能だ。


 端的に言うと、ソタイの捜査力は、チープな言葉で表せば凄まじい=B

 例の男は、もとより外見がよく目立つ方だったし、潜伏しやすい物件を捜査するにあたってそれは仇だった。その男を見つけるまで、時間は掛からなかった。きっと彼も、気づいていたのではないだろうか。それでも逃げ出さなかったのは、もしかすると、嗅ぎまわる輩を一掃したかったのかもしれない。

 私はそのマンションの階段を上がる。
 突入は、明日の朝。今日は闇に紛れるのにちょうど良い新月だった。目的の部屋に辿り着くと、曲げた針金の先で軽く鍵穴をこじ開ける。萩原と松田に伝授された、簡易的なピッキングだ。重たい扉を押し開けて、後ろ手に閉じた。部屋の灯りは点いていない。

 間取りは、前日にしっかりと確かめてある。リビングまでは廊下が真っすぐ繋がっているはずだ。足を滑らせるようにして、廊下を歩く。


「やっぱり、お嬢さんか」


 聞き覚えのある、ややハードボイルドとも言える声色が糸を張り詰めるように言い放った。後頭部に、ぐっと固いものが押し付けられるのが分かった。

 両手を挙げる。――ここまでは、高明の予想通りだった。

 押し付けられた固い鉄の塊に、ドクドクと鼓動を不規則にしながら、私は一つ深く息を吸った。

「――あなたと、話をしにきた」
「……話? する必要はないね」
「明日、家にガサ入れする予定がある」

 前を向いたままそう告げると、ぎゅうと押し付けられていた銃口が、僅かに緩む。恐らく、彼は思ったはずだ。――『妙だな』と。そして頭の切れる男ならさらに思うはずだ。『何か取引があるのか』と。

「銃を下ろして。顔を見て話をしたいんだけど」
「――なら、君が先に下ろすんだな」

 私は言われるままに、腰に取り付けたサクラを廊下に滑らせる。彼は滑って行ったそれを軽く足先で止めると、どうやらそれを持ち上げたようだ。男は自分の持っていた銃も、私と同じように床に滑らせた。

 軽く振り向くと、暗い室内で僅かな非常灯を反射するグリーンアイが、その銃を一瞥した。私は銃を拾い上げ、リビングの入り口にあった棚に置く。どうやら電気を点けたらしい。何度か点滅した蛍光灯が、暗闇に慣れた私の目を刺しぬく。

 くっきりとしたハーフらしい顔立ちが、私の顔を捉えて不思議そうに歪んだ。

「本当にじゃじゃ馬だな。捜査は終わったはずじゃなかったのか」
「そこまで分かってたんだ。まあ、再開させたのは私だし」
「……俺に、用ってわけか」

 サクラのリボルバーを軽く指でいじりながら、男はソファにどかりと腰を掛けた。黒い合皮のソファは、彼の体重を受けて軽く沈む。黒いハイネックに、黒のパンツ。ラインをしっかりと浮きだたせる服から、彼の体格の良さが分かる。

「変な真似をしてごめんなさい。諸星大さん、あなたに個人的なお願いがあって来ました」
「それをしたら、見逃してくれると? 願いによっては不公平だな」
「うん。分かってる、あなたが私をここで殺したら、終わるってことも」

 ワックスで固めていない所為か、その額からはらはらと零れる前髪。漆黒の奥から、独特な色彩が私を見上げる。一目で、彼が警戒していることが分かる、そんな視線。私は、彼が人殺しの一味なのを知っている。あの時男を撃ちぬいた、諸伏の仲間であることを――。それが彼にとっては、厄介なのだ。

「もう二度とあなたを追うことはしない。話だけでも聞いてもらえませんか」
「それで、俺に得があるか?」
「ない。でも、聞かないことで損はあるよ」

 私はポケットから携帯電話を取り出した。通話中になっているその電話の先には、マンションに繋がれた固定電話がある。

「私が帰らなかったら、録音データが知人にいくようになっている」
「かわいい顔に似合わない脅しだな――君の作戦じゃあないみたいだ」

 彼は口の片側をニヤリと持ち上げて、くるりとトリガーを弄ぶ。なるべく、表情は動かさないよう心掛けたが、男の前ではあまり意味がないかもしれない。髪の一本まで、彼のその翡翠の瞳が観察しているような――そんな感覚だ。

「そうだよ、脅し。それでも守りたいものがあるからね」
「……ふ、その録音データが、俺が困るようなものだと?」
「当たり前でしょ。そうじゃなきゃ言わない――FBIの、アカイ捜査官」

 その名前を飛び出させたとき、余裕に笑んでいた口角が初めてピタリと止まった。人形のネジが途中で切れてしまったように、先ほどまでニヒルに笑っていた顔が、そのままに時を止めている。

 率直に言うと、これが私の最大の切り札だった。
 夢の中で聞いた、ニット帽子のFBI。潜入中のコードネームは、ライ。――それが、私が知る彼の最大の情報だ。だが、それは悟られてはいけない。私は彼のことを知っているという風に振る舞うために、わざわざ彼の表情を真似るように、片側の口角を持ち上げて見せた。

「大丈夫。この部屋の盗聴器は全部解体済だし、新しく取り付ける間はなかったはず。この声が録音されているのは、この電話の向こう側だけ」
「……ずいぶんと、手慣れたもんだ」
「解体のプロがいたからね。あなたが警戒して帰宅の時間をズラしているのは知っていたし」

 こんなに余裕ぶっこいて見せているが、実際は時間すれすれだった。殆ど入れ違いにも近いほどだ。松田曰く、位置情報も含まれているものだから、盗聴部分だけ解体するのは至難の業なのだとか。急かす私に「うるせえ!」と松田が怒鳴ったことは記憶に新しい。

 だが、不遜に見えてでも、こちらが握らなければいけない。諸伏のために、私はこの男を利用するのだ。そう、決めたのだ。


「私が頼むのは一つだけ。スパイの邪魔はしない、裏切りを許せとも言わない。でも――ただ、見ないフリをしてほしい。スコッチを、殺してほしい」


 スコッチ、と口にした単語が、本物のアルコールのように喉の奥を焼く。男は――アカイは、もう余裕な笑みを浮かべてはいなかった。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...