03


 一つに括った癖毛が、歩くたびに機嫌よく揺れた。
 大和はそれを見上げながら、自身の重たい足を持ち上げる。ちょうど、その特徴的な音に気付いたのだろう。上段を上がっていた女が、くるりと背後を振り返った。丸っこい、犬のような目つきが大和を捉えて、小さく会釈をした。大和もそれに軽く手を挙げ応える。

「捜査会議お疲れさまでした。報告ですか?」
「まあな。内偵調査についてはこの後追って話すぞ」
「了解です。皆さんにも声を掛けておきますね」

 にこりと、愛想の良い笑みが返って来た。
 彼女がここまで機嫌が良いことに理由があることを、大和は重々に承知している。勿体ない人材だ。その一点さえなければ、高槻は言葉そのままに、若きキャリアであった。やや驕りの気はあるものの、頭脳明晰であったし、何より大和のような強面にいくら怒鳴り散らされようが泣きごと一つ言わない根気がある。今も足の悪い大和を見て、何かあった時に手が伸びるよう、自然と彼に手すり側を譲って歩いているのを知っていた。
 勿体ない、とこれほど短期間に言われる人間も珍しいだろう。
 いくら嘆いても仕方のないことだが、高槻自身はこのうえなく幸せそうなので、周囲も本人には何も言えまい。

 高槻が声を掛けて集まった面子に、大和は次の捜査方針についてを説明し始めた。とあるホテルの会食にて、共犯者と思われる人物と接触する可能性があること。勘付かれないよう、上手く近づき聞き込みやあわよくば言質をとるようにすること。面々が真剣な表情で話をする中、諸伏が口元に指を置きながら告げた。
「しかし、外国からの来賓も多い会場です。多少なりとそちらの知識が多いほうが良いでしょう」
 まさか、全員がホテル内に入り込むわけではない。その意見は真っ当で、大和も頷きながら唸った。
「ああ、だから高明――お前に頼むつもりだった」
「なるほど。私一人では接触に限界がありますが……」
「分かってる。もう一人は――高槻」
 大和が振り返ると、高槻はキラキラとした瞳を諸伏に向けて、大和の呼びかけには一切反応がなかった。囲む面々の空気が固まるなかでも、一身に諸伏の横顔をウットリとした瞳で見つめている。
 隣にいた上原が慌てたように肩を揺らす中、諸伏が一つ咳ばらいをする。

「――高槻くん、呼ばれていますよ」
「あ、はい!」

 ぱっと顔を諸伏に向かって持ち上げたその足を、大和は杖の先で軽く小突いた。ようやくのこと現実に戻って来た高槻は、きょとんとして大和を振り返る。
「あれ、大和警部。どうしたんですか、怖い顔して」
「高槻〜……」
「あはは……まあまあ。丁度今回の内偵捜査にね、翻訳者がもう一人欲しいって話をしてたの」
 隻眼で思い切り睨みつける大和との狭間に、上原はすすっと体を捻じ込ませた。高槻は別段空気の読めない女ではなかったが、まずもって話が頭の中に入っていないので、素っ頓狂な表情で「ああ」と頷く。
「成程。もちろん大丈夫ですよ。英語、ドイツ語、フランス語、中国語……」
「あんまりペラペラでも怪しまれる。ほどほどにな」
「はい。……あれ? もう一人ってもしかして諸伏警部なんじゃあ」
 翻訳者、と聞いてピンと来たのだろう。
 今集まった面子で、自分と同じだけの言葉を操る者を、彼女は目ざとく見極めた。高槻は良い所に気づいたと言わんがばかりの顔をしているが、正直先ほど大和が決定したばかりで、彼女の浮つき具合が露呈されただけである。
 
 ――諸伏が帰ってくるまでは、高槻と共に仕事をしていた者たちだ。「あれ、今までの彼女はどこに」なんて目を擦る様子もしばしば。それとは裏腹に高槻は年齢にしては幼めの顔つきをキラキラとさせて、諸伏のほうに肩を寄せた。

「ですって、諸伏警部!」
「一つ言いますが、喋れる者が二人でくっついていては意味がないでしょう」
「ああ、俺と高槻。上原と高明でホテル内を担当する」
「私やっぱり外国語喋れません」

 先ほどよりも強い力で、杖の先が背中を打った。高槻は今度こそ「いだ」と鈍い声を上げる。得心のいかない風ではあったが、彼女は足を摩りながら頷いた。
「分かってますけど……。でも、大和警部は目立ちませんか? スーツで誤魔化せませんし」
「それには一理あります。いくら身綺麗にしても身体的特徴が大きすぎるかと」
「身綺麗は余計なんだよ。ハァ、まあそれはあるか。……高明、一人でもいけるか」
 言えば、諸伏は薄い唇の端を得意そうに持ち上げた。涼やかな目つきが、うっすらと細められていく。


「もちろん。鞠躬尽萃――期待に応えましょう」
 
 その瞬間、ぎゃっ、と諸伏の隣にいた影が突っ伏した。それまでどれほど高槻が視線を飛ばそうが何をしようが、真正面を向いて気にもしていなかった諸伏も、さすがに僅かに広い肩を揺らした。
「格好いい〜……。うう、大和警部羨ましい……」
「――各自、立ち位置と流れを確認しておくように。また前日の夜打ち合わせるからな」
 大和は大きくため息をつくと、そのまま聞かなかったことにして輪になった同僚たちを見渡した。



「はぁ……」

 高槻は、大きくため息をついた。それはもう、先ほどの大和のため息にも張り合えるほどの重たいものだ。今日の不始末として、雑費の整理を任された仕事が、ようやくひと段落しようとしていた。
 敢えて言うが、彼女は決して阿呆ではない。頭は良いし、男が関わらなければ基本的には冷静で穏やかだ。だからこそ、高槻にも自覚はあった。諸伏が関わると、多少――いつもよりも少しばかり、浮ついた心が顔を出すことを。(正直、多少でも少しばかりでもないのだけれど。)
 そうは言っても、押さえられないのだ。すらっとした立ち姿、涼やかな顔つきに真剣なまなざし、後ろ手に組んだ指先のなんとも真っすぐ美しいことか。ツンとした目つきが、高槻を興味なさげに見下ろすと、彼女自身堪らない気持ちになった。

「迷惑だったかなあ」

 と、考えてしまうのは乙女心というものだ。
 悩ましく思いながらも、整理を終えたファイルを年度順に戻そうと踵を浮かせる。高槻は然程背が低い方でもないが、上の段はやや背伸びをしなければ届かない。本当は足場を持ってくれば早いのだけれど、今の彼女はぼんやりと考え事をしていたので、そのまま無理くりにファイルを押し込もうとした。

 あと少し。数センチ。中指の先でファイルを押し込もうとしたとき、するりとファイルの角が手を逃れた。重たいものではなかったが、十センチほどの硬質ファイルの角が目前へと降ってくると、つい声が漏れた。
 
 反射的に目を瞑る。やけに長く感じた空白と共に、肩に冷たく固い感触が振れた。瞼をゆっくりと持ち上げれば、高槻はすぐに目の前のそれが何か判別できた。先ほど熱く見つめていた指先。スラっと真っすぐで、男にしては爪が楕円、やけに長い親指が特徴的だった。

「また考え事ですか?」

 呆れたように、鼻から抜けるような息が零れた。ファイルをキャッチした腕を伸ばして、すんなりと棚の中にそれを戻す。高槻の背後から腕を伸ばして受け取ったせいで、必然的にその首元が高槻の目の前にあった。肩に触れていたのは、もう片手の指先だ。

 高槻は、それからしばらくフリーズしていた。
 何も言わず、どうにも動かず――瞬きすら忘れているのでは、という硬直から解けたのは、一分ほど後のことだ。高槻はすーっと勢いよく息を吸った。
「……諸伏警部って、香水、つけるんですね。」
 真っ白な耳たぶが、見て分かるほどに赤く染まっていく。俯きがちだったが、恐らく顔も赤いだろうことは諸伏にも想像がついた。「ええ、まあ」と返事をする。真っ赤な顔を上げた高槻は、アハハと愛想笑いをして首を緩く振った。
「すみません、今まで気づかなかったから……」
「ああ……ウエストにつけている所為では? 隣を通ったくらいじゃ香らないでしょうから」
「ウエッ……」
 これ以上赤く染まることはないのでは、と思っていた頬が、ますます赤みを帯びる。諸伏が控えめに「あの」と声を掛けると、ツンと小ぶりな鼻からツツ……と赤い液体が垂れだした。
 高槻は、確かにその時、鼻やら目の奥やらの血管が限界なほどに活性化して、ブツっと切れる音を聞いた――ような気がした。
 諸伏は、僅かに頬を引きつらせてから、しかし「またか」とでも言いたげに鼻を鳴らして、清潔そうな白いハンカチを取り出した。その真っ白な布地に染みていく赤色を、高槻はまるで幼子にでもなったような気持ちで眺めるのだった。