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 鍋の中身もなくなり、テーブルの上には空になった小皿と、ビールの空き缶が数本。すべて松田が空けたものだった。私としては折角の手土産なのだから飲んで貰って構わないが、萩原はやや渋い顔をしていた。――その理由は、今なら分かる。そういえば初めて会った夜もそうだったし、以前も萩原に置いていかれてたっけか。どうやら、酒はあまり強い方ではないらしい。萩原が苦く見守ったのは、それをよく知っていたからだろう。

「いつもこう?」

 こくん、こくん、と船を漕ぎ始めたクルクルの頭に、私は少し声のボリュームを落として尋ねた。萩原が、太い眉を下げて深刻そうに頷く。
「他のことは要領良いんだけどね。なんでかお酒はダメみたいで」
「良いんじゃない? こんなふうに潰れるまで飲むなんて、社会人ではそうそうないし……」
「そういうもんかねえ」
「男の職場は違うかもしれないけどね」
 警察官は体育会系の人も多そうだし、飲む回数も多いかもしれないな。私は萩原がマグカップに注いでくれたルイボスティーに口をつける。萩原は呆れたように後頭部を掻きながら、しかしその表情は満更でもないように見える。本当に仲が良いらしい。

「さ、陣平ちゃん退かそうかな。鍋が危ないし」
「確かに。おーい、松田くん」

 とんとん、と彼の肩を叩いてみる。前と違って熟睡しているわけじゃなかったからだ。私が声を掛けると、松田はうとうととした瞼を持ち上げて、まるで子どもが午睡から起きた後のように「んん」と鈍く声を出した。
「ごめん、片付けるから。ソファのほうに行ける?」
「ん……おお〜……」
 あたりを見渡し、背後にある大きめのソファへと足を掛けた。――その瞬間だった。立ち上がった時に寝ぼけていたのだろう、彼の手に持たれたままのビール缶が、その足がバランスを崩すと同時にポオン、と宙を舞ったのだ。

 べちゃべちゃ、と液体が零れる音が耳に入って、次に萩原が私を呼ぶ声。頬を伝う冷たさを感じたのは、それよりも大分後のことだった。

 かん、とテーブルに空き缶がぶつかり、カーペットに滴った黄金の液体に、私は呆然としていた。ぽたん、と髪の束の先から、べたべたとした水滴が滴り落ちる。

「みずきさん、大丈夫!?」
「……うわ、やっちゃった」

 私は彼が慌ててタオルを持ってきてくれたのを見て、ようやく自分の状況を把握した。髪の毛を触ると、ビール缶から零れたビールでびっちゃりと湿っていた。まだ残量が少なかったので、服から何から汚れなかったことを救いだと思おう。
 萩原が持ってきてくれたタオルで頭を拭きながら、ばたんとソファに辿り着く前に倒れた松田に怪我がないかを確認した。
「いや、ソイツそんくらいじゃ死なないから。てか、髪べたべたじゃん」
「お風呂入れば大丈夫だよ」
「だぁから飲むなっつったのに……」
 ごめんね、と何度も謝る萩原に、私は笑いながら首を横に振った。松田のことを悪く思ってもいないし、萩原なんて尚更だ。彼には一片の罪もない。彼の高いカーペットやらが汚れていないかは気にかかったけれど。

「でも、みずきさん今日電車乗るんでしょ」

 心配そうに言ってくれた一言に、私ははたっと思考をストップさせた。そうだった、車で帰るつもりでいたが、仕事帰りに寄ったので帰りも当然電車だ。――さすがに、匂うか。私が拭いた髪を嗅いで悩んでいたら、萩原が一言提案した。

「良かったらシャワー使って」

 ――と。わー、うん、ありがとう! どうしてそう素直に言えなかったのだろうか。覗き込んだ彼の顔が、年下には見えない色気に溢れていたからかもしれない。私はどきまぎとした気持ちを隠すように下を向いて、「ありがとう」と固い声で言った。
 顔が熱い。どうか、それが萩原にバレていませんように。違うのだ、別に下心とか、そういうのじゃない。自分でも分からないけれど、一度熱くなった顔はなかなか元の温度まで下がってくれない。
 タオルを被って顔を隠すように、私は彼の案内でシャワールームへ向かった。




「お風呂も入れてあるから、寒かったら入って良いよ。タオルとかはここ置いておくね」

 ――片付けしながら音楽聞いとくから、音も気にしないで。
 彼の見事なまでのエスコートに、私はもう一度先ほどの自分を責めた。こんな親切な青年に、一ミリでも煩悩を抱いたのが恥ずかしい。髪をシャワーで洗い流しながら、私は静かにため息をついた。浴室には、私の独り言がよく響く。
 良い匂いがする。シャンプー、トリートメント、ボディソープ、どれも同じラインのものだ。彼が使っているのだろうか。確かに、女でも可笑しくないような長さをしているから、気を遣っているのかも。
 この季節だったから、シャワーだけを浴びると肌寒くて、私は萩原の言葉に甘えて浴槽を借りることにした。髪の毛が入らないように、先ほどビールを拭いたタオルで濡れた髪を纏める。

 それほど広くない浴槽には、彼の体は小さいのではないだろうか。膝を曲げながら、薄緑がかったバスタブを眺めた。萩原は背が大きかった。たぶん、優に百八十はあるだろう。加えて肩幅も広く、しかし大男と名付けるには彼は優男すぎる。萩原は松田を一言で表すのは難しいと言ったが、萩原も、なかなか一言で例える言葉は見当たらなかった。
「警察官って、どうやってなるんだろ」
 一応公務員なのだから、公務員試験――になるのだろうか。
 だとしたら、それほど倍率が低いわけでもないだろう。一体、どうして警察官になりたいと志すのだろうか。彼らには、私にはないものが胸に灯っているような気がする。

 湯気がもくもくと立ち込める浴槽で、少しその温かさにぼうっとしていた。
 彼らといるのが心地よいと思うのは、私が彼らに少し憧れた節があるからかもしれないと思った。自由で、若くて、夢があって。

 ぱたん、とドアが開く音がする。
 私がふっと振り返ると、曇りガラスの向こう側に黒い影が見える。萩原がタオルでも置きに来てくれたんだろうか、あとで礼を言わなくては――。そう思っていた時に、眠たげな声で「ふろ……」と、呟くのが聞こえた。
 そのシルエットが、もそもそと服を脱ぐ。さすがに曇りガラスのこちらからでも、上半身の肌色がくっきりと見えた。

「わ〜!!!」
「ちょ、陣平ちゃん!? ダメだって!!」

 私の止める声と、萩原が止めるために脱衣所に入った瞬間はほぼ同時だ。「この酔っ払いめ……」と恨めしそうに松田の体を引きずっていく影を、私は見送った。
 そうだ、何を緊張することがあるのだろう。
 別にこの家には今、萩原と二人だけでもあるまいし――。何より、萩原は私の家でシャワーを浴びたことだってあるのだ。そう考えたら、なんだかスッキリとした。脱衣所には、柔軟剤の香りがするふかふかとしたタオルが置かれている。私はそのタオルに笑みを零して、着替えを済ませた。



 乾かした髪を軽く耳に掛けてリビングに戻ると、松田はようやく落ち着けるポジションについたのだろう。ソファに足を延ばし、クッションを抱いてぐうぐうと寝こけていた。言葉だけにすると何とも問題児といった印象を受けるけれど、これが彼と対面すると、どうしてか憎めない青年なのだ。それが、彼の魅力なのかもしれない。

 テーブルの上はすっかりと片付いていたが、一人で大丈夫だっただろうか。申し訳ない気持ちでキッチンの方を見ると、ちょうど萩原がひと段落ついたのか、ビールを二本手にこちらに戻ってくるところだった。
「はい、飲める?」
「うん。でも、良いの?」
「これ以上コイツに飲ませるぶん残しとくといけねえから」
 べち、と大きな手のひらが松田の額を叩いた。
 私はそれに声を上げて笑いながら、プルタブを開ける。そしてほどよい苦みと爽快感が、口の中を通り抜けていくのを楽しんだ。

「みずきさん、いつもセットしてるから雰囲気変わるね」

 萩原がビールを一度テーブルに置きながら、ちらりとこちらを見た。鎖骨に掛かる枝毛の増えた髪を自分の手で弄る。
「今ボロボロだから、セットしないと恥ずかしくて」
「そう? あんまり気にならないけど」
「そろそろ美容院行かないとね」
 ついでに、前の彼氏の影響で染めた髪も違う色にしよう。いっそのこと金髪とかにしてやろうか――。なんて、内心あくどい顔を浮かべていた。すると相槌を打った萩原が、私の拍子が抜けるような、柔らかな顔をした。

「俺は暗いのが似合うと思うな。みずきさんの凜とした感じによく合ってる」
「……今、心読んだ?」
「えぇ、なんで。そう思っただけだよ」

 彼は事も無げにそう言うと、ビールの缶を再び手に取って、ぐっと呷った。彼の髪が、サラっと流れる。染めては――ないのか。不思議な色。真っ黒だと思っていたけれど、灯りの下で見ると少し青みが強いような気がした。その髪質が太いからか。艶やかだ。

 私はひっそり、彼の浴室にあったシャンプーのラインを思い出す。今度美容院に行ったら、同じものはあるか聞いてみようと思った。