12

 町並みはすっかりイルミネーションで彩られている。木々に装飾された電球たちが、チラチラと普段の季節よりも鮮やかに通りを照らし続けていた。吐いた白い息が、暗い空に消えていく。
 ――もうそんな季節か。
 この間、友達とクリスマスの話をしたばかりだが、ついこの間まで十一月だったのに。街中に流れるメロディーがクリスマスソングになっていることにも、先ほど気づいたばかりだ。

 私はチラリと腕時計を見て、時間に余裕があることを確認すると駅前のカフェでコーヒーをテイクアウトした。
 そして、もう一度財布の中にある前売り券を確認する。今日は工藤優作の作品が原作となった映画の公開日だ。松田と会った切っ掛けから、すっかり工藤優作にのめり込んでしまったので、こんなにも早く映画がお目に掛かれるとは思っていなかった。前売りを滑り込みで手に入れてから、この日を楽しみにしていたのだ。

 浮かれた想いでまだ温かいコーヒーに口をつける。ふう、と息を吐くと先ほどよりも白く大きな吐息が漏れた。待ち合わせをしている友人からの連絡を待っていたら、ブブ、とバイブが震えてメールが届く。

『ごめん、今日いけなくなった!』

 ――その文面に、私はぎょっと目を見開いた。なんでも、同棲している彼氏と修羅場なのだとか。

 正直に言う。怒ってはいない。
 怒ってはいないが――今までウキウキと踊っていた心が、一瞬で項垂れるのはよく分かった。一人で映画というのも悪くはないが、今日はそういう気分じゃなかった。折角の名作、終わった後は良い店でディナーでも摂りながら感想を語り合いたかったのだ。まあ、それは私の我儘か。
 しょうがない、前売りチケットは少し勿体ないけれど、一人で観に行くことにしよう。鈴の音とクリスマスソングを少し寂しく感じながら、私はコーヒーを傾けた。

 友人に『気にしないで、何かあったら言ってね』とメールを打っていると、もう一通新しいメールが届く。メールを送信してから、受信ボックスを開けば、送り主は萩原だった。

「……え」

 私はそのメールを見て、ぱちくりと瞬いた。そして、ぱっと後ろを振り返る。マフラーに首元を埋めさせた男が、私の驚いた顔を見て、歯を見せて笑った。『髪切った?』というシンプルな文面が、私の液晶の中で光っていた。

「やっぱり。色も暗くしたんだ、最初気づかなかったよ」
「わ、偶然……! 萩原くん、人を見つけるの上手だね」

 前にも、駅の喫煙室からコンタクトを取って来た覚えがある。私だったら、後ろを向いていたり横顔だったりすると、知り合いでも見逃してしまうことがよくあるというのに。髪形を指摘されて、私は少し恥ずかしく、ミディアムヘアーになった髪の端を触った。あの後美容室に行ってから、萩原の言葉が頭を過ぎり、まんまと色のトーンを落としたのだ。本人に見られると、なんだか気まずい。
 萩原は私が触っていた髪の先をちょいちょいと触って、満足そうに目を細めた。

「似合うね。みずきさん、肌白いからなあ」
「本当に? まだ見慣れなくて、芋っぽくないかな」
「全然。なんか……いや、なんでも」

 巻き髪を見つめて、彼は少し考えるように指を口元に持っていく。言いかけたことが気になって、首を傾げた。確かにスタイルブックと違わないヘアスタイルなので、美容師の腕が悪いわけではないだろう。今まで明るい茶髪で、髪を伸ばして巻いていたから、この髪の長さで巻くとますます短く見えるのだ。子どもっぽくはないか、ずっと不安だった。
「なんでもないですよ〜」
「……何?」
「あはは……言ったら怒るかな〜って」
「怒らないよ。怒ったことないでしょ」
 そう告げた口調が、最早やや荒々しかったけれど、そこは目を瞑ってもらおう。萩原は迷ったように視線を泳がせてから、頬を掻いて小さな声で言う。

「なんか……ワンちゃんみたいだなーって。ほら、トイプードルみたいな……」

 ――多分、今日は細かく髪を巻いていたからだ。萩原と会った時はたいてい緩く大きめに巻いていたから。萩原は肩をちょいっと竦めて「可愛いよ」と言った。トイプードルが褒め言葉かどうかは置いておき、けれど萩原に褒められるのは悪い気はしなかった。
「目は猫ちゃんみたいなのにね」
「……それは、よく言われる」
 目じりをついっと触れられて、私はケラケラと笑った。吊った目つきは、よく気が強そうだと言われる所以だった。萩原の顔つきとは対極だろう。

 駅前の時計が、鐘を鳴らす。私はそれを聞いて、まるでシンデレラが舞踏会から帰る時のように――いや、それよりも遥かに慌てた。しまった、映画のことを失念していたのだ。彼に断りと入れようとして――私は少し思いとどまる。
 そして、ほんのわずかな勇気を絞り、萩原に尋ねた。


「ごめん、今日ってこのあと時間ある?」


 くいっ、とボルドーのニットの袖を引く。萩原は一度面食らったように目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑った。





「いや、急に付き合ってもらってごめんね……」

 羽織っていたコートを脱いで、膝に掛けながら私は小さな声で彼に話しかける。スクリーンには、まだ近くに公開される映画の予告映像が流れているところだった。萩原は肘掛に手を置きながら、ゆるゆると首を横に振る。
「どうせ暇だったから。それに、公開初日のチケット……ラッキーって思ったね」
「え、工藤勇作好き?」
「モチロン。こう見えて処女作から読んでるよ」
 私は顔を輝かせた。まさかこんな身近に、工藤優作ファンがいるとは。萩原がミステリー小説を読んでいるとは意外だと思ったが、確かに彼は歳の割に少し落ち着いているところがあるから、読んでいる姿は想像に易かった。

「私は結構最近ハマっちゃって。特にこのシリーズ、すっごい良かったから」
「確かにね。俺は王道にナイトバロンの新作が好きだったよ」
「あれも良かった! でも私はこの作品の叙述トリックが好きでね……」

 などと話をしていたら、ゆっくりとスクリーンの幅が広がる。非常灯以外の灯りは消えて、私は話の途中で口を噤んだ。萩原とぱちっと視線が合い、二人で僅かに笑い合った。彼は口を大きく動かして、ちょいちょいとスクリーンのほうを指さした。たぶん、読み取った言葉が間違ってなければ、「あとでね」と言っていたと思う。


 ―――
 ――
 ―

 私はエンドロールが終わった後、まばらに立つ人波を見送った。呆然としていて、しばらくは口を閉ざしていたが、映画館のライトの灯りに目が慣れたころ、ようやく萩原のほうに視線を向けた。だって、まさか、まさか――。
 萩原も何か言いたいことがあったのだろう、視線がかち合うと、すうっと息を吸い込む音が聞こえた。

「は、犯人が原作と変わってたよね?」
「すっげえ面白かった……このために小説書いたんじゃって思うくらいだ」

 途中までは原作通りだったのだ。しかし、途中で原作では犯人とされていた人物が容疑を掛けられ、一人部屋になったところを殺される――。まさに、映画の客を巻き込んだ叙述トリックのように思えた。
 しかも、小説がなくとも、一本の映画としてもしっかり完成されていた。私は沸々とした想いを押さえることができなくて、そのあとも映画館のスタッフが掃除に訪れるまで、しばらく萩原と感想を語り合っていた。

 彼が声を掛けてくれてよかった。
 一人この映画を観て、静かに帰ることは難しいかもしれない。二人揃って売店でパンフレットを買い、私たちはイルミネーションのちらつく駅前を歩いた。白い息が弾む。彼と帰るこの道は、今日はひどく短く感じて、私はあと三駅くらい最寄り駅が伸びて欲しいなあ、なんて馬鹿なことを考えた。