13
「いつも通る道だから大丈夫だって」帰り道を送ると頑なに言い張る萩原に、私は苦笑いを浮かべる。
気持ちは嬉しいが、もう夜も遅い。私はいつもの通勤路なので、残業が遅い日はこのくらいになるけれど、男とは言え遠回りさせるのには罪悪感のほうが勝ってしまう。確かに、彼との時間が長ければ良い――だなんて願ったけれど、まさかこんなにも直ぐ叶わなくとも。
しばらくの間改札前で押し問答をしていたが、次第にその時間の方が片道時間を上回ってしまうのでは――と思い始めた。ちゃちゃっと送ってもらった方が、互いのために良いかもしれない。私が折れると、萩原はまるでその結果を見透かしていたように、ニヤっと笑う。
なんだか、負けた気分だ。
拗ねながら、私は先ほどの街中よりも大分ポツポツとしたまばらなイルミネーションを見た。シャンパンゴールドの電球が、街路樹にぐるぐると巻き付くように飾られている。駅から離れるごとに、その電球の数も少なくなっていくのが分かる。けれど、そのイルミネーションが、私は嫌いではなかった。
「……綺麗だね」
――萩原が、白い息をハア、と零しながらつぶやいた。それが、嬉しいと感じる。暗闇の中で道を示すような灯りを、私も綺麗だと思っていたからだ。うん、と相槌を打つと、萩原もぼうっとその道を眺めるようにしていた。「行こう」と彼の袖を引こうとした時だ。
「みずき?」
とん、と軽く肩を叩かれて、振り返る。ずいぶんと聞き覚えのある声色だった。私はそのよく馴染んだ顔を見て、体を強張らせる。「やっぱり」、彼はどことなく嬉しそうな顔をしていた。それが、私の鼓動を大きく打つのだ。
「髪切っちゃったんだ。一瞬人違いかと思っちゃった」
へらっと笑う表情に、グツグツと、心の底で静まっていたマグマがぶり返すような気がした。目の前にいるのは、数か月前まで、私の一番近くにいると思っていた人。きっと今頃も、一緒にいるのだと、私が信じてやまなかった人。
――どのツラを下げてる。と顔が歪んだのが自分でも分かった。
どうして、彼はこんなヘラヘラとした風で、私を見かけて声を掛けることなんかができるのだろう。
行き場のない想いが腹の中やら体の中をグルグルと巡って、それが溢れるように涙の膜が瞳に掛かる。断じて悲しんでいるわけではない。これは憤りの涙だ。
「……この人は、新しい彼氏?」
どうも、と萩原のほうを一瞥した顔が、ニコリと笑う。
――なんて奴だ。彼氏だったとして、そう思いながら話しかけるなんて頭が湧いているんじゃないのか! 心の声は滅茶苦茶に荒れて、近くの石でぶん殴ってやりたいくらいに怒っていた。けれど、現実には言葉の一つも漏れない。
言葉を吐いたら、そのまま涙も一緒に零れてしまう気がした。それは悔しくて、コイツの前で涙なんか流したくなかった。『ほら、俺のことが好きだったんだろう』――という、勝ち誇ったような感情を一ミリと与えたくない。
私は一文字に結んだ唇を震わせて、彼に応えることもなく顔をついっと逸らす。
私の態度を知ってか、知らずか。そんなことを気にもしない素振りで、彼は萩原にヘラヘラとしながら話しかける。
「コイツ、面倒くさいでしょ。大丈夫? 俺の時も本当に重たくてさあ……、付き合った時は料理なんてからっきしで男メシみたいのだったのに、料理教室なんて通って洒落たもん作りだしたんだよ。俺が言ったわけじゃないぜ? なのに残すと折角練習したのにだとか、そんな風でさ……」
「――ちょっと、やめてよ」
萩原は関係ないのだ。妙な過去の話で困らせないでほしい。私が精いっぱいに振り絞って零した言葉は、少し揺れていたと思う。付き合っている時は好きだった、その明るい笑顔を睨みつける。
「まあまあ、被害者二号出すのは可哀想じゃん」
――ああ、彼にとって、私と一緒にいた期間というのはその程度のものなのだ。
私がしたことなど、全て彼にとってはお節介で、別に今は笑い話にできる程度のもの。一緒に過ごした時間が長いから分かる。彼には、悪意というものがなかった。本当に、彼はその昔話が面白いと思って話していて、私に声を掛けたのも、もう彼の中に思うところなど一つもないからなのだ。
悔しかった。
私がしたこと、過ごした時、あげたもの、貰ったもの。全部、本当に無駄だったのだと思い知らされた。同棲や結婚を考えていた私とは違った。それだけの単純な答えだ。彼への怒りと、萩原への罪悪感――そして、羞恥心。
萩原は敏い男だ。私が雨に降られていた日のことも知っているし、きっと想像がついているだろう。その愚かな過去を彼に知られるのが、恥ずかしかった。
「――こいつ、知り合い?」
フ、とあざ笑うような声が、萩原のものだと気づくまでに、私は数秒掛かってしまった。
萩原の口調はいつも穏やかで、ゆったりとしている。隣で聞いていると落ち着くような大人びた声。まるで、萩原のものではないみたい。
私が驚いて、バっと顔を上げると、彼は長い髪をかき上げて、太い眉を片方だけピンと吊り上げ、不敵な表情をしていた。
そして私のほうを一瞥すると――器用に私に向いたほうの視線だけ、いつものようにニコリとほほ笑ませる。何かを言ったわけではない。しかしそのアイコンタクトのような仕草が、私に「信じて」と訴えているように思えた。
「……知らない」
私は僅かに鼻を啜ってから、萩原に合わせるように、ややぶっきらぼうに言い放つ。萩原は興味なさそうに「へえ」と相槌を打ってから、私の手を取った。大きな指先が、私の指の間にスルリと絡む。こんなに冷えているのに、どこか温かい手だった。その手が触れると、私の体の震えも徐々に収まる。
「行こうぜえ。はやく二人になりてえし」
「ふ……うん」
ちゅ、と目じりに厚い唇が触れて、その拍子に伺えた元彼の表情に、私は思わず笑いが零れそうになってしまった。ぐっと我慢して、その腕に絡むようにもう片手を添える。元彼の顔には、子どもみたいに、気に食わない態度がありありと浮かんでいた。
萩原は私の手を引いて歩きだす拍子に、くるっと立ちすくんだ男を振り向く。そして、恐らく余程悪い顔をしたに違いない。後ろから息を呑むような音が聞こえたから。
「さっさとおうち帰れよぉ、ボーヤ」
坊や、という言葉はわざと一言ずつ区切るように発音していた。私たちはしばらくそのまま歩き、視線が届かないあたりまで歩くとやや駆け足にマンションのほうまで駆け込んだ。
「ふ、あはっ、あははは!」
私は駆け足になったせいで切れた息を、暗くなった空に躍らせた。先ほどの憤りなど吹き飛んで、すがすがしいくらいに笑いしか浮かんでこない。
「みずきさん、笑いすぎじゃねえ?」
「だって、あはっ、あのキャラ……! 萩原くんのが年下なのに!!」
「ふは、似合ってたろ」
と、先ほどのニヒルな表情を浮かべた萩原を見て、私はもうこれ以上ないのではというほど大笑いした。息が苦しくて必死に吸い込む息は冷たくて、肺の奥の方までヒンヤリと体温を冷やしていく。まさか彼にあんな演技力があったとは夢にも思わなかった。
はー、と苦しい息をつけば、白んだ煙がポカポカと浮かんでいく。
信じられない、あれほどに会いたくなかった人と会ったのに、こんなにも笑いながら去ることができるなんて。私の人生がひっくり返るくらいの驚きだ。萩原は、私の顔を見て安堵したように眉を穏やかにさせた。
「……余計な一言かもしんないけどさ、俺は好きだよ。みずきさんの頑張り屋なところ」
短くなった髪を、するりと大きな手が撫ぜていった。笑いすぎだろうか、じわっと浮かんだ涙は、今度こそ我慢することなく睫毛を濡らした。少し走ったせいか、胸の奥が少し早い鼓動を打っていた。