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「――あれ?」

 ドアベルを鳴らして店に入ると、ちょうど目線の合った猫目が、穏やかに微笑んだ。私は見覚えのある顔に、小さく会釈をする。「こんにちは」――、黒髪の店員も、頭を下げた。
「一名様ですか?」
「いえ、あとから友人が……」
「分かりました。こちらにどうぞ」
 大きな窓に近い、端の席に案内してもらって、私はウッド調のチェアに腰を掛ける。以前とは異なり、テーブルの上には白いクロスが敷かれており、赤いポインセチアが飾られていた。カウンターを彩る模造のヒイラギも、今日という日を思わせる。

 手拭きと水を運んできた青年は、穏やかな声色に少しだけ喜びの色を咲かせて「また来てくれたんですね」と笑った。申し訳程度につけられたトナカイのシールが、彼の名札でキラっと光っている。私はそれを見て、少しだけ頬を緩ませた。
「クリスマスケーキがあるって聞いたので……」
「そうなんですよ。ショートケーキとミルクレープ、イチゴのタルトからお選びいただけます。どうしますか」
「ううん、ショーケース見ても良いですか?」
 青年がツンとした目つきを和らげて「どうぞ」と頷いたので、私はレジの横にあるショーケースへ足を運んだ。光を受けて、真っ赤なイチゴが宝石と見紛うくらいに輝いている。普段はショートケーキが好きだけれど、たまにはタルトも良いかもしれない。
 バラを模したようにイチゴが薄く切られて並べられているタルトは、遠くから見ても一層目を引いた。友人は、イチゴが苦手なので恐らくミルクレープを頼むだろう。私はミルクレープとタルトを一つずつ注文して、友人が来たら持ってきてもらうように頼んだ。

「髪型、変えたんですか」

 青年は待っている間にと、いつもはコーヒーに付け合わせるビスケットを持ってきてくれた。ちょうど客足が少ない時間だったらしく、私はそれを有難く受け取って、彼の方を見上げた。
「はい、ちょっと髪が痛んじゃってて」
「女の子は大変だな……。あ、いえ。すみません、女の子なんて言って」
「ふふ。若く見られる分には歓迎しますよ」
 慌てたように項を掻く青年が微笑ましく、私は首を横に振った。口に放った今日のビスケットは、いつもよりバターの味が強い気がする。いつもは塩味が効いているけれど、バターのもったりとした味わいは、クリスマスらしくて良いなと思う。

「でも、良いですね。前より表情がよく見えて」
「ありがとう。……ねえ、ちょっとだけ変なことを聞いても良いですか?」
「えっと……俺で良ければ……」

 私は声のトーンを落として、青年をちょいちょいと手招いた。
 彼はきょとんとした表情を浮かべた後、不思議そうにこちらに耳を寄せる。黒髪の丸っこい頭が、腰を屈めて近づいた。

「……本当に正直で良いので……。男の人が女の髪形に犬っぽいって言うのって、悪口では……ないですよね?」

 ぽそぽそと、心の奥でずっと燻っていたことを尋ねると、彼は薄っぺらな唇から分かりやすいほどに「ぷっ」と堪えられない笑い声を噴き出した。それから咳ばらいをして、にやける口元を隠すように何度か顎を摩った。

 それから、腰の位置をぐっと戻して、涼やかな顔つきを苦く笑ませた。照れくさそうに頬を掻くと、彼はようやくニッコリと笑った。

「たぶん、その人は本当にお客様を可愛いと思ってるんですね」
「……トイプードルっぽいって言われても?」
「う〜ん……。じゃあ、今度試してみて。犬の写真とか見ながら、可愛いなあって話題でも振ってみてください。きっと、表情で分かりますよ」

 まるで名探偵のように人差し指を立てて提案する青年に、私は小さく頷いた。ややあって、ドアベルが新しく鳴る。姿を現した友人に、ひらひらと手を振った。





 友人に、先日の元恋人の話をしたら、彼女はひどく憤った。まるで自分のことのように腹を立てる姿に、私の腹の中の鬱憤がどんどんと消化されていくのが分かった。甘いタルト生地に口をつけながら、彼女に礼を言うと、どこか毒気を抜かれたように友人は息をついた。

「……なんか、みずき、ちょっと変わった?」

 友人はコーヒーカップを軽く指で撫ぜながら、僅かに口角を持ち上げた。その表情から、『変わった』というのが決してマイナスの意味でないのがくみ取れた。「そうかな」と疑問形に語尾を持ち上げると、しっかりとセパレートされた睫毛の下でパチパチと大きな目が瞬いた。
「うん。良い意味で、力が抜けてるっていうか」
「力ねえ……」
「昔から真面目すぎるところあったじゃない。だから、彼氏と別れた時も落ち込んでるんじゃないかって、私連絡聞いてそわそわしてたのに」
 ――大人になったってことかなあ。友人は、どこか懐かしむようにしみじみとしながらコーヒーカップに唇を乗せる。こおばしい香りは、席の向かい側にも十分香った。

「人生うまくいかなくたって当たり前。なのに、上手くいかなきゃ、って……みずきって、そう思いこんでる気がしたんだよね。全部を上手くやらなきゃって、恋愛も趣味も勉強も、手を抜くところなんてなくてさ。もちろん、それが良い事だってあるけど、それで上手くいかなかったら、どうしちゃうんだろ、なんて……。これでも心配してたのよ」

 はは、と照れくさそうに彼女は笑う。そのコーヒーの温度のように、私の胸の奥にじわりと温かさが広がった。「うん」、と簡単な相槌を打った。友人の言葉が、今は何よりも指先を温めているような気持ちになる。


「ま、そう思うと噂の大学生くんに感謝かな」
「……待って、大学生って萩原くんのこと?」
「へえ、ありきたりな苗字。萩原みずきね、字面は悪くないけど」
「話飛躍してるよ……。もう、そういうミーハーなところ変わってない」

 ため息をついて、デザートフォークに手を伸ばした。友人は私の言葉にけらけらと笑いながら「これはミーハーじゃないよ」なんて言う。ちょっと憧れの先輩がいると、すぐにアピールをしろと背を押してきたり――そのおかげで、昔は付き合えた人もいたわけだけど。
 まあ、今回については的外れでもないのかもしれない。
 彼と別れた後にそれほど後を引かなかったのは、間違いなく萩原のおかげだし、その後も何かと顔を合わせる萩原や松田と話しているうちに、過去の話は過去の話として心の整理ができている気がする。
 この間も、萩原のおかげで辛いはずの想いを笑い飛ばすことができたし――。確かに、感謝をしなければと思うところがあった。

「――……良いんじゃないの、ひとめぼれじゃなくたって」
「……え?」
「みずきって、思い込み激しいから。ひとめぼれ以外は恋愛じゃない……なんて思ってない?」
「そんなわけないでしょ」

 呆れた、二度目のため息は、先ほどよりも小さいものになった。
 口にいれたイチゴは、タルト生地の甘さに負けず、口の中に甘味と酸味を広げる。友人は「冗談だよ」なんて、声を上げて笑う。
 ――ひとめぼれ以外は恋愛じゃない、なんて。さすがに子どもでもないのだから。
 確かに今までの恋人はたいてい私が先に憧れて、私が先に好きになって――ということが多かったけれど。私は萩原の顔を思い浮かべた。
 彼は、男のわりに色っぽい顔つきをしている。面長な輪郭、大きく垂れた目つき、太い眉、しっかりとした鼻筋に、厚い唇、筋の浮き出た首。大人びた顔つきなのに、笑うとちょっぴり子どものような色を覗かせる。

 ――それが可愛いとは、思うけれど。 
 私の今までの恋愛観のどれにも当てはまらないので、きっと違うのだろう。それに、あんなにも真っすぐ慕ってくれる彼をそんな風に見ては失礼だ。

「うん、違う違う」
「勿体ない。あ、私の彼氏の話も聞いてよ……」

 ころっと表情を変えて、彼女の話はいかに自分の彼氏がモテることが心配かという議題に変わった。私はその話を利きながら、ミルクティーに口をつける。まろやかなはずの味わいが、少しだけ棘があるような、喉がギシリと軋むような気がしてしょうがなかった。