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 友人とは早めに別れることになっていた。何度ももう少し一緒にいると言われたけれど、さすがにそれは友人の彼氏にも悪い。ここから帰るのに時間が掛かるし、こうして会ってくれただけでも嬉しいのだ。
「でも、みずきのこと一人にしていけない〜」
「気持ちだけで十分だって。夜は約束してるんでしょ?」
「……うん。一応ね」
 一応、とは言うけれど、彼女がずいぶんと前から身の回りを整えていたのを知っている。普段はずぼらな彼女が、掃除をして手料理の材料を買って――今日という日を楽しみにしていたのだろう。
「もともと一人で過ごす予定だったんだから。気にしないで」
 とん、と彼女の肩を押し、私は新幹線口までこちらを気遣う背中を見送った。その背中に手を振って、私も小さく肩を落とした。

 見送ったのは私だが、やっぱりお喋りな彼女がいなくなった穴は思いのほか大きい。周りを歩いているのは、たいていが旅行者だったりカップルだったり、家族連れだったり。私のように一人でいるのは、仕事着を着たようなサラリーマンたちくらいだ。彼らの手にも、家で待つ家族へのプレゼントか、彩りのあるリボンが飾られているのが分かる。

 少しだけ、寂しかったのは確かだ。
 自分が一人だけ、ポツンと姿を消しているような気分になる。周りは、浮かれた空気に一人の自分のことなど見えていないようだった。私は小さくため息をついて、デパートを見上げた。久しぶりに、買い物でもして帰ろうかな。冬のボーナスも出たことだし、ちょっとくらい贅沢をしても許されるだろう。

 


 少しよれた財布を新調したくて、ショーウィンドウの中を覗き込む。今使っているものが嫌いなわけではないのだが、大学のころから使っていたので、最近少し皮の痛みが気になっていたのだ。鞄の中もスッキリするし、小さめの財布でも良いかもしれない。

「こちらの商品が気になられていますか?」
 声を掛けてきてくれた店員は、私が眺めていた皮財布を二つショーウィンドウの上に並べてくれた。どちらも外に出ると、色に深みが出て綺麗だ。並んでいるのは、ベージュとブラックの二色。前までだったら迷わずにベージュを選んでいたけれど――。

「あの〜……。この色のデザインって、もう一つありますか?」

 傍らから声を掛けてきた女性がいた。女性――といっても、化粧をしていて少し大人っぽくは見えるが、まだ年若い。ちょうど女子大生くらいだろうか。私が彼女を振り返ると、大人しそうな眉が下がって、大きな目つきがこちらを見上げるように覗いた。
「あ、ごめんなさい。お姉さんが見てたのに……。雑誌で見て、欲しいと思ってたから」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 にこりと、女性に笑顔を浮かべると、店員が申し訳なさそうに「すみません」と断りを入れた。

「こちらのデザイン、どちらも人気な冬の新作でして……。現品はこちらで最後になっているんですよ」
「そうなんですか」
「ああ、気にしないでください。お姉さんが先に見てたわけですから」

 彼女は両手を振って、ニコニコと愛想良く笑った。私はその姿を軽く一瞥し、悩んだ。鞄についたイチョウのシンボルは、このブランドのものだ。きっと、本当にこのブランドのファンで買いに来たのだろう。
「……あの、多分欲しい色違うので。大丈夫ですよ」
 私は先ほど彼女が視線で追っていた色を思い浮かべながら、肩を竦めて笑う。ぱちぱちと瞬いた女性は、嬉しそうに頬を綻ばせた。
「本当に? ありがとうございます!」
「……ちょうど、違う色も良いかなって思ってた所なので」
「でも、よく分かりましたね。私……そんなに顔に出てました?」
 一直線にベージュのほうへ視線を向けた女性に、私は苦く笑ってみせた。明るい雰囲気はあるが、不思議と下品な風ではない、女性らしさの漂う人だ。黒く背中の辺りまで伸びた髪が、笑うとサラっと揺れた。
 その髪に、つい一人の男を思い浮かべていた。

『みずきさんの凜とした感じによくあってる』

 ――その言葉を思い出しながら、私は黒色の財布を指さした。口角が勝手に持ち上がってしまって、店員から「プレゼント用ですか」と尋ねられたのは、恥ずかしかった。先ほどの女性のことなど、指摘している場合じゃないな、なんて思うのだ。





 小さな紙袋を持って駅の方面に出ると、日はすっかり沈んでしまっていた。この時間になると、出歩いているのは先ほどに増して甘い雰囲気を持つ男女の割合が増える。今から食事に行くのだろう、少しヨソ行きの服を着たカップルだったり、イルミネーションを見ながら夕飯の材料を二人で持ちながら家に帰る夫婦だったり。
 そんな彼らを見ていたら、友人のことが気になった。まだ地元には着いていないだろうが、素直になれるだろうか。見た目は女の子らしいのに、男が相手だとつい強気になってしまうところが彼女の欠点だ。(魅力ともいうが――。)また明日にでも、メールで様子を聞いてみよう。
 いつもは私が根掘り葉掘りと聞かれる側なので、それを想像したら少し楽しかった。どんな風に問い詰めてやろうか――なんて、この間見た映画の内容を思い出しながら歩いていた時だ。人混みが、少しだけ黄色く声を出した気がした。
 ずっと平らだったノイズが、一瞬ざわっと大きく高鳴ったような。私は反射的に、ちらりと視線を向けた。人が避けるような輪の真ん中に、二人の男女が立っている。

「うわ、キスしてるよ」

 近くを通った女性グループの一人が、そう笑うのが聞こえた。成程、きゃあきゃあというざわめきはこの所為か。確かに、いくら聖夜だからといって、あそこまで熱く口づけを交わすのは日本じゃあ珍しいかもしれない。男は背が高く、女をすっぽりと隠してしまうように、圧し掛かるように細い体を抱き寄せていた。

「……」

 少しだけ、ぎくりと心が軋んだのが分かった。
 けれど、それに気づかなかったことにしようとした。それは、その男の髪が男にしては長く、漆黒で、艶やかに流れたからだ。早く足を進めろと本能が訴える。足の裏が、接着剤で固まってしまったように床から離れなかった。

 男は、丁度私の向かい側の位置にいた。もちろん、すぐ傍にいるわけじゃなくて、人込みを挟んで――だ。女性の細い肩や上を向いたときに流れる巻き髪、覆いかぶさるような男の体と、その女性の髪から覗く長い指。髪の毛が、そのまま垂れたままであれば良かった。ずっとキスをしてくれてれば、私はそのうちに歩いて行こうと思った。

 長い前髪の隙間から、閉じた瞼が見えた。
 密度は濃いが短い睫毛が震えて、ゆっくりとその瞼を持ち上げる。垂れた目つきが、なんだか彼ではないような気だるさを持って女性を見下ろした。
 唇を離すと、その厚い唇に彼女がつけていたのだろう、ピンクのルージュが擦れていた。それを太い親指で拭う仕草から、私はなぜか視線を逸らすことすらできなかった。


 どうしてだろう。
 なんで、こんなにショックを受けたようになっているのだろうか。
 以前、ビンタされた彼を見たときは――、少なくても、ショックだったわけではない。言っては悪いが半分くらいは野次馬精神で、好奇心から彼を見ていた。
 けれど、今はどうだ。これは、好奇心なのか。今まで聞いた事がないくらい、それこそ――彼氏が浮気をしているのを知った時にも知らなかったくらい、ドックン、ドックン、と太鼓を揺らすような音が体全体を震わせる。
 
 当然だ、今日はクリスマスで、彼は普通の大学生。
 彼女だったとしても、彼女じゃなくても、男女で過ごすのに何ら違和感などない。いたって普通、健全な大学生である。

 気まずいだけ。最近少し仲の良い友達だと思っていたから、こんなシーンを見て気まずかったのだ。きっと、そう。だから、こんなに、足が重たいのだ。

 
 リップを拭ったその視線が、こちらを見たような気がする。
 間には人が何人もいて、彼らも同じように野次馬として好奇の目を向けていたはずだ。だけど、そんなものは見えなかったように、彼の視線は真っすぐに私のほうを見た――そんな気がした。

 私は、瞬きをした。
 それと同時に、今まで瞬きを忘れていた所為で乾いた目を潤すように、大きな涙が一粒押し出されていった。――「みずきさん?」、萩原の口元が、そう動いたように見えた。私はようやく離れた足先を、彼とは反対方向に向かって動かした。冷たい空気が、涙が伝う頬を嫌と言うほどに冷やしていった。