16

 空気を吸い込んだ肺が冷たくて痛い。
 この感情をどうしたら良いのかわからなくて、ただ恥ずかしくて、ただ心が重たかった。私は萩原に何の幻想を抱いていたのだろうか。聖人だとでも思っていた――それは違う気がする。けれど、じゃあこの苦しさは何。どうして息をするのも苦しいくらいに、彼のキスシーンを見たことがショックなの。

 手に下げた紙袋が馬鹿らしく感じる。
 彼のたった一言に、あんなにも心を躍らせていた自分自身に嫌気が差す。しばらく走って、どこまで来ただろう。ビルの間を走っているうちに、踵に痛みが走った。ちらりと足元を見たら、ストッキングにじわりと血が滲んでいる。この様子だと、今擦り切れ始めたばかりではなさそうだが、全く気付かなかった。

「はぁ……」

 駄目だ、一旦落ち着こう。私は周囲を見渡して、人がいないことを確認してから、ビルに凭れるように座り込んだ。バックからポーチを取り出して、バンドエイドを探したが――ちょうど、ストックを切らしていたらしい。いつもポーチに必ず一枚はいれているのに。重たくため息を漏らす。
 ビルに挟まれた小道は、風が勢いよく吹き込んで寒かった。次からどんな顔をして彼に会えば良いのだろうか。いつも通りにすれば良いのだろうけど、逃げてしまった手前グルグルと頭の中に言い訳が渦巻いてしまう。
 瞼を少し閉じるだけで、萩原のあの顔を思い出してしまう。
 俯きがちで高い鼻筋が際立って見えた。気だるそうな仕草と視線がゆっくりと持ち上がり、口についたリップを鬱陶しそうに拭う姿が――。

 心の奥の自分の本能が、がむしゃらに叫んでそれを止めようとする。やめて、嫌だ、思い出したくないの。くしゃりと髪の毛を掴んで掻きむしった。ぐっと深く眉間に皺を寄せ、顔を隠すように抱えていた。


「――どうかしましたか」


 気づかわし気な声が、もしかして自分に掛けられているのかと思ったのは、先ほどまであれほどに寒いと感じていた風が止んだからだった。最初は不思議に思ったけれど、そうか、人が目の前に立っているのだと合点がいって、私は慌ててじわじわと表面に浮かんでいた瞼を誤魔化すように何度か瞬きをした。

「ごめんなさい。ちょっと靴擦れしちゃっただけで……」

 ぱっと初対面の人に向けるための愛想笑いを張り付けて、顔を上げる。
 ――しかし、私は瞬いた瞳から再びツウと涙がこぼれるのが分かった。その滲んだ景色の中で、街灯と、目の前にいる男の髪が光っていた。それがあまりに綺麗な景色だったから、その先の言葉を失って、口を僅かに開いたまま固まってしまう。
 目の前でこちらに向けて腰を屈めた青年は、赤くした鼻先をスヌードに埋めながら、首を傾ぐ。「具合でも?」と尋ねるから、首を振ったら、幼いように見える顔立ちが僅かに微笑む。

「良かった」

 キラキラ、と光った青い瞳が、後ろで輝くどのイルミネーションより美しい。まるで小説の登場人物のように、周囲から際立って華を咲かせる男を、私は他人事のように見上げていた。
「歩けますか、ここは女性が一人でいるには危ない」
「あ、すみません……」
 すくりと立ち上がった拍子に、踵を固い靴の縁がずりっと掠っていった。思わず眉を顰めるのを隠せずにいたら、目の前の青年が手を取った。そして自らの肩に私の手を回す。私より幾らか高い位置にある肩に、足がつんのめるのを感じた。
「少し我慢していて」
「あの、少し休んだら歩けますから」
「……正直に言いますが、これは貴方のためを思ってしているんじゃない。僕が、ここで蹲った女性を置いて行ったという行為に対してあとから後悔しないようにやってるんだ」
 ふん、と彼は軽く鼻を鳴らす。
 ずいぶん、ハキハキとした口調の青年で、私はその圧に押されるままに「はあ」と相槌を打っていた。私が頷けば、彼は満足したようで、私の体をずるずると引きずるようにして踵を返すのだった。




 彼の真っすぐとした足取りは、駅から少し離れた方向に向いていた。
 恐らく彼のマンションだろうエントランスに着いたときには「さすがに断らなくては」と思ったけれど、青年は私が思う以上にずっと真っすぐで邪念がなく、私が妙な口を挟むのは逆にやましいと思わせるような雰囲気をしていた。
「だって、家に帰らないと治療できないだろ」
 私に向かって、彼はさらりと言い放ったのだ。
 ああ、そうですか――。もう、そうとしか返しようがなかった。彼に担がれるままにマンションに入り、あれよあれよと彼の部屋に着いた。ワンルームのあまり広くない部屋には、ギターと本棚だけがぽつんと置かれている。

「待ってて」

 彼はそう言うと小さな棚を開けて、救急箱を取り出す。そしてティッシュまで持ってきたところで、私がストッキングを履いていることに気づいたのだろう。その小麦色の肌が、僅かに色づくのが分かった。
「ごめん、自分で脱ぐから」
「あ、ああ……。悪い、飲み物か何か用意してくる」
 お構いなく、とは思ったが、彼が私の姿を見ないように気遣った台詞だと思ったので、礼を述べた。リビングの扉を閉じて玄関の横にある小さなキッチンに向かう背中を見送った。
 手をストッキングに掛け、するすると足から抜いてから、彼の取り出してくれた救急箱を引き寄せる。消毒液を掛けて、絆創膏を一枚拝借した。そして部屋をぐるりと見渡し、色のない家具たちを眺めていた。
 どれも、量販店で手に入る安価なものだ。萩原の、こだわりきった家具や照明とは真反対のような部屋だった。

 出会ったばかりの男の部屋に上がるだなんて、数か月前の私の耳に入ったら卒倒するだろうなと苦笑を零す。だけれど、どうしてか彼らのことは信用できるような気がしてしまう――ただの勘で、根拠はないのだけど。

 しばらくすると、コーヒーを百円均一のシンプルな白いマグカップに入れて、青年がキッチンから帰って来た。良い香りだ。コーヒーが好きなのだろうか。
「これ、ありがとう。助かりました」
「……」
 救急箱を差し出すと、形の良い眉がきゅっと顰められた。彼はしばらく、なんだかムシャクシャしたような表情を浮かべて救急箱と睨めっこを続けていた。コーヒーから立つ湯気が少なくなってきたころ、沈黙に耐え切れず「あの」と声を掛けると、彼はようやく口を開く。


「……う」
「な、何ですか?」
「貼り方が違う。そんなのじゃ、またすぐ剥がれるだろ」


 むっとしたような口調で言うや否や、青年は救急箱から少し大きめの絆創膏を取り出した。そして付属されていた小さめのハサミでそれに切り込みを入れ、バッテンのような形にする。
「へっ」
 横に流していたつま先をぐっと掴まれて、そのまま彼のほうに足を引き寄せられた。青年は決して優しくない手つきで今貼られている絆創膏をベリっと剥がすと(ちょっと痛かった――)、ティッシュでしっかりと傷跡を押さえてから、切込みを入れた絆創膏を貼り付けた。

「これで良い」

 と、満足そうな声色が呟いた。
 私は解放された足を動かしてみる。なるほど、踵の皺が寄るところにしっかりとフィットしてくる。これならば、歩いていても簡単には剥がれてこないだろう。その知識に感心しながら、もう一度礼を述べると、今度こそ青年は少し笑った。

「……僕のほうこそ、急に家まで運んでごめん」
「一応、気にしてるんだね……」
「そりゃ、そうだろ。でも、コンビニより家のほうが近かったから」
「ありがとう。歩くの辛かったから、正直助かったんだ」

 明るい場所で見ると、暗闇の中で見るよりも一層髪や瞳が輝いた。とてもじゃないが日本人のものとは思えない特徴を持った青年は、その真面目そうな瞳を僅かに和らげた。「どういたしまして」、なんて、真正面から言われたのは小学校以来かもしれない。

「でも、その……お兄さん格好いいから、あんまり人は呼ばないほうが良いよ」
「……泣いてただろ」

 私が苦笑交じりに言えば、彼はジっとこちらを見つめながら言った。綺麗な瞳の中で、私が驚いたように目を丸くしている。
 コーヒーからのぼる湯気は、もう細く薄いものになっていた。彼にそう言われて――私は初めて、零れた涙は自分のものだったと確認できた。紛れもなく、萩原の姿を見て泣いたのは私自身なのだと――、彼の言葉が、そう突き付けていた。