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 眩い朝日は、いくら自分が避けようと寝返りを打とうと強く部屋を照らし込む。
 鳴りつづける目覚ましから逃げようと布団を被り、唸りながらようやく上体を起こした。新居に引っ越した時に買った目覚まし時計を押さえて、大きく欠伸を零す。ぐぐっと伸びをして、携帯を開くと、一件のメールが届いていた。差出人には、降谷と書かれている。
 降谷――先日会った青年の名前だ。
 外人のようなブロンドに、褐色の肌、少し色素の薄いブルーの瞳。すべてが小説の中の登場人物のような――映画の中の主要人物のような。妙にフィクションがかった見た目をした、親切な青年だった。
 あの後、私はお礼がしたいからと彼の連絡先を尋ねた。もしも会うのが億劫であったら、郵便受けに入れておくから――。そう言えば、降谷はあっけらかんとした様子でメールアドレスを交換してくれた。こちらが拍子抜けしてしまうほど――寧ろ自分から提案しておいて何だが、心配してしまった――、降谷にはほとんど異性として接しているという感覚がないのだ。

 内容は、昨晩送ったお礼のメールに対する返信だった。
【気にせずに。目が腫れたらよく冷やして、カモミールティーがおすすめ】
 まるでネットのQ&Aである。私はぷっとそのメールの内容に噴き出しながら、ぐるりと首を回し、お湯を沸かしにキッチンに向かった。もちろん、カモミールティーを淹れるべく。


 昨晩のことだ。冷静になって考えれば、情けないことだった。
 友人のキスシーンを見て、動揺で泣いてしまうだなんて。とてもじゃないが誰かに言えた話ではなかった。けれど、出会ったばかりの青年には、ついぽろりと悩みが零れてしまった。その生きづらいまでな真っすぐさが、どこか昔の自分と重なったのかもしれない。私の泣いた経緯を聞いた彼は、やはりサラリとした態度で言った。


「そりゃあ、友達がキスしてるのが嫌だったんじゃないか」
「でも、友達でしょ」
「……僕にも親友がいるけれど、今日も彼女と会うって聞いて腸が煮えるくらいムカついた。そもそも嫉妬っていうのは自分の社会的立場を守ろうとする生存本能だ。悪い事なんかじゃないさ」


 人差し指を立てて、名探偵が謎を解き明かすような語り口調で彼は告げた。それにどこか既視感があるような、ないような。私は降谷の言葉を聞いて、その言葉がどこか腑に落ちた。確かに、仲の良い友人に恋人ができて、少し寂しく思う気持ちは分からないこともない。

「相手にとって、自分が特別だと思っていればいるほどそうなる。自分の立場を確立してくれている人が、他に目を向けているから、自然と嫉妬が芽生えるんだよ」
「……そういうものかな」

 私は考えた。萩原が自分にとって、特別――。確かに、特別だったかもしれない。最近では一番身近に会っていた人だし、どことなく親近感が湧いていた。偶然が積み重なった出会いが、尚更特別と思わせた。
 そうか――友人の恋愛事情に嫉妬することは、普通なのか。
 そう結論を出した私は、思い出したキスシーンに、やっぱり視界を滲ませた。萩原が、遠くに行ってしまったような気持ちになった。今まで見せていた笑顔が、偽物のように感じてしまった。私は、それが寂しかったのだと思った。

 でも、しょうがないのだ。彼には彼の恋愛事情があるのだから、友人ならばそれを見守るべきだ。うん、と一人頷き、しかし小さく鼻を啜った。ひっそりと涙をこぼす私に、降谷は何も言わなかった。


 (――しかし、私は後に某人物に言われることになる。「なぜ降谷に恋愛事情を相談した。それが大きな間違いだ」、と。今の私は、これで納得したので、この話はここまでだが。)





 休暇明けの仕事は、昨晩のことから目を逸らすのには丁度良かった。
 幸い年末ということもあり、クリスマス明けということもあり、仕事がなかなかに忙しかったからだ。忙殺される――とはまさにこのことだった。がんばって冷やしはしたが、やや腫れた目の周りは、然程良くない私の目つきを更に鋭くさせていた。いつも圧を掛けてくる上司すら、今日の私には触れなかったくらいだ。

「お先に失礼します」

 残業、一時間。溜まった仕事を気合で片付けて、よし、と携帯を握った。彼女がもしできたのなら、萩原から距離を置こうと思った。そうでないのなら、それでも良い。駅に向かって歩きながら、かちかちとボタンに指を滑らせていた。クリスマス飾りは、まだ先日の名残で至る所に飾られ続けている。

 外の気温は昨日からグっと下がって、手袋をつけていない指先が無機質に触れて冷たかった。送信ボタンを押すだけ――というタイミングで、どんっと後ろを通った誰かにぶつかった。危うく携帯を落としかけて、慌てて持ち直す。今のは、携帯を見ながら歩いていた私が悪かっただろう。軽く反省をしながらぶつかった肩を押さえると、背後から「ごめん、痛かった?」と声がした。

 私は勢いよく振り向く。ベージュのダウンを羽織った萩原が、口角を持ち上げて私に向かって首を傾げていた。


「俺、みずきさんのこと見つけるの上手でしょ」


 ニ、と歯を見せて悪戯っぽく笑う青年を見たら、やっぱり涙が浮かびかけた。心臓が、嫌な軋みをたてるのが分かる。距離を置くには、少し親しくしすぎたのかもしれない。この顔つきと見合わない、青年らしい笑顔を見ることもなくなるのかも、と思ったら心がキュウと狭まった。
 私が言葉を返さなかったからだろう。不思議な様子で萩原はこちらを見つめていた。

「悪い、本当に痛かったかな。強くぶつかりすぎた?」
「……あの、萩原くん、彼女できたの?」
「へ?」

 キョトンとした表情を浮かべた彼に、気まずくなった。何と説明したら良いのやら、言い淀んでいると、萩原は小さく息をつく。
「――やっぱり、みずきさん、あの場所にいた?」
「……うん」
「見間違いかなって思ってたんだ。そっか、見ちゃったんだ」
 太い眉が下がって、やや物寂しそうに、萩原は笑って見せた。それから視線を左右に泳がせ、今度は彼のほうが気まずそうに切り出す。

「こういっちゃなんだけど、あの子は彼女じゃないよ」

 私が顔を上げると、長い指先で頬を掻きながら、うーんと恥ずかしそうに唸っている彼がいた。
「いや、彼女じゃないからどうってこともないか……。あの日は大学の連中と飲んでてさ、潰れちゃった子たちをタクシーまで連れてってたのよ。そうしたら酔っぱらったあの子が俺のこと彼氏と間違えちゃって……ぶちゅっとね。倒れないように支えてはいたけど」
 歩行者信号が青になった音がした。ぴよぴよと可愛らしくなる音に合わせて、人混みが動く。萩原は私の肩を軽く引いて、端に移動しながらそう言った。
 しばらくの間、彼の顔をジッと見つめていた。――彼女じゃないのか。彼女はおろか、一夜限りの相手というわけでもなかった? ということは、全部私の思い込みということ?

『みずきって思い込み激しいから』

 シチュエーションは違えど、長年の付き合いの友人の言葉が脳裏に蘇った。そして、みるみるうちに顔が熱く染まっていくのが、自分でもありありと分かる。私は、こんなことでクリスマスの一晩を悩みつくしていたのか。あんなに泣いて、年下に心配までさせて――。
 恥ずかしい。穴があったら入りたいと言うが、私は今すぐに穴を掘ってでも隠れたい。萩原が苦笑いを浮かべながら「すぐに連絡すれば良かったね」と言った。

「で、なんで俺の彼女のこと聞いたの?」
「だって、そりゃあ、彼女がいるのに私と仲良くしちゃダメだと思って……。あんまり直接会うのはやめようと……」
「何それ、寂しいな〜。さすがに俺だって、彼女いるのに女友達と絡んだりしないよ」
「そうだよね……。そっか、そうなんだ」

 なんだか心のつっかえが取れて、私は一晩ぶりに呼吸ができたような新鮮な空気を吸った。その日は、萩原と地元の駅まで並んで歩いた。焼き付いた記憶の中にいた彼とは異なる、へらへらとした笑顔が、やっぱり好ましいと感じた。