18


 ――年末、大抵の職場というのは、この時期に繁忙期を迎えるものではないだろうか。我が社とて例外はなく、クリスマスの浮かれた雰囲気などどこへやら。殆どの人間が只管に年末年始の休暇を求めて働く社畜に成り下がっていた。

「づかれた〜……」

 目の前のデスクに倒れ込んだ桐嶋の姿に、私は給湯室で淹れたコーヒーを差し出した。「お疲れ様」と苦笑い交じりに告げれば、彼女はのろのろと上体を起き上がらせ、長い前髪をサっとかき分ける。それから大きくため息をついて、礼を述べながら紙コップへ手を伸ばした。
「ほんっと、仕事に関しては疲れ知らずね」
「いや、普通に疲れてるよ」
「私のこと見てもそう言えるの?」
 げっそりとした彼女の顔つきを見て、私は苦笑いを深くするしかなかった。いつも身だしなみには気を遣っている彼女だが、今日は眉と下地くらいしか化粧をしておらず、マスクをつけてそれを隠していた。最近帰りが遅いのをよく見るので、朝が起きれないのだろうと思う。
「まあ、大学受験に比べれば……」
「確かに。ありゃ出口の見えない地獄だわ」
「あ。それ、彼氏から?」
 彼女の首元に光るペンダントは、まだ新しい光をキラキラと反射する。いつもクールな装いの多い彼女にしては、可愛らしいデザインのものだった。ペンダントトップには、シルバーの細かい装飾でハートが象られている。
「そう。もう、センスないんだよねえ」
 指で摘まみながら、彼女は呆れたようにため息をつく。しかしその表情には、決して嫌悪が現れてはいなかった。なんだかんだと、職場までつけているのだ。桐嶋にとっては、他のどんなデザインのものよりも身に着けたいものなのだろうと分かる。

「そういえば、忘年会は? 二次会までくる?」
「二次会かあ〜……」

 そんな季節かと忘年会の面子を思い浮かべる。会自体には参加するけれど、問題は二次会だ。以前萩原を盾に逃げた社員たちも参加するだろうし、あまり気は進まない。私が唸っていたら、桐嶋は少し意地悪そうに目元をほくそ笑ませた。

「聞いたよ〜。高身長のロン毛イケメンなんだって?」
「……心読んだ?」
「みずきが分かりやすすぎるの。すっごい悔しそうだったもん」
「まあね。だって、元彼のことずけずけ聞いてくるから」

 つい、と言葉を漏らしたら、桐嶋は可笑しそうに声を上げて笑った。彼女も例の社員をあまり好いてはいないので、恐らく相当面白がっているのだろう。はあ、と重たくため息をついていると、携帯が震えた。メールを開けば、萩原から画像付きの文面が送られていた。そこには茶色一色のカレーと共に【具が溶けた】と一言。堪えられないまま口角が持ち上がって、桐嶋からあらぬ誤解を受ける羽目になった。




「お邪魔します」
「あ、はいはい。松田〜、スリッパ出して」
「良いよ。自分で出すから」

 私は仕事帰り、具の溶けたカレーを消費するべく、萩原の部屋に集まっていた。先に我が物顔で雑誌を読んでいた松田が、私の姿を見てとことこと玄関まで出迎えに来る。良かったのに、ぽつりと漏らすと、彼は後頭部を掻き、ちらっと大きな目つきでこちらを見上げた。彼の方が視線が高いのに、見上げた――というのは変な言い回しだが、落ち込んだように顎が引いていたので、そう見えた。
 私はコートを脱ぎながら首を傾げる。いつもだったら「おー」とか、そんな適当な挨拶で済ませそうなところだけど。

「……その、ごめん。萩に聞いたからよ」
「……あ! もしかして酔っ払ったこと?」
「ん……髪も汚しちまったって」

 もごもごと口元を小さく動かしながら喋る様子は、まんま子どもだ。急に彼らが年下だったという実感が湧いて、なんだかその姿が可愛く思えてきた。なんというか、子ども――は失礼か。弟がいたらこんな風なのかも、と考えるのだ。
 私はできるだけ明るく笑いながら首を横に振った。萩原は優しいし、何よりレディーファーストな所があるから、よっぽど口酸っぱく松田に言ったのだろうと予想できた。

「全然気にしてない。二日酔いとか大丈夫だった?」
「だいじょーぶ、陣平ちゃん後に引きずらないから……。ちゃんと謝った?」
「っせえな。聞こえてたろ」
「あはは……本当に気にしてないよ。それよりお腹すかない?」

 ひょこりと顔を出した萩原が私に向かって指で輪っかを作って見せた。スパイシーな香りが食欲を刺激する。私は松田の背を軽く押して、リビングの方へと向かった。






「三時間も煮込んだの? あはは、道理で野菜が一個もないのね」
「いやあ、カレーって煮込めば煮込むだけ美味い感じしねえ?」

 どろどろなカレーには野菜の欠片も見当たらなかったが、時たま豚肉が混ざっていた。寝かせると美味しくなる、というのを勘違いしたのだろうか。萩原も、どこかそんな失敗を楽しむように笑っていた。
 確かに具は乏しいけれど、味はカレーなので、仕事終わりの空腹にはよく染みた。スーパーで買ったらしいヨーグルトまで添えられていて、そういう細やかな所に気がいくのは萩原らしいと思った。

「うん、でも美味しい」
「マジ? やった。最近自炊も回数増えたからね」
「カレーで失敗するほうが可笑しくね?」
「松田くんは自炊するの」

 尋ねれば、松田はスプーンをくわえたまま「ほこほこ」と言った。たぶん、そこそこ、と言ったのだと思う。ぱっと見た印象だと、萩原のが細やかで、松田のが大雑把な印象があったので、意外だ。
「すげー器用だからね。面倒くさがり屋だけど」
「お前も手先は器用だろ。女に作らせてばっかなだけで」
「ひっでえ、家庭的な子が好きなだけです」
 食わせねえよ、と皿を奪い取ろうとする手を、松田はひょいっと躱した。――家庭的な子か。前の彼氏もそう言っていたっけか。それで料理教室に通い始めたのだよなあ、と私は懐かしみながら、カレーを掬った。
 しかし、ふと萩原が気遣わし気にこちらを見遣ったのが、視界の端で印象に残った。そうだ、以前、元彼が言ったことを覚えていたのかもしれない。

「……俺は、みずきさんの作った料理が好きだよ」

 萩原は、ニコリと口角を緩ませて言った。
 ――こう言っては何だけど、少し意外で。彼は、空気が読める男だ。人が気まずそうだったりとか、踏み込んでほしくないことをしっかりと察することのできる人。だからこそ、ちらりとでもその話題に触れたことに驚いた。
 でも、嬉しかった。それも、萩原の優しさだと感じた。ゆるゆる、と彼の笑顔が移っていくように、私の頬もほころぶのが分かる。少しばかり、だらしない笑顔になってしまったかもしれない。

「あのくらいで良かったら、また食べに来て」
「俺は肉が良い」
「じゃあハンバーグでも作ろうかな」
「待って、なんでお前までおこぼれにあずかろうとしてんの」

 褒めたの俺なのに、と萩原はくるくるとした髪の毛を、大きな手のひらでグシャグシャにした。松田は鬱陶しそうにしながら、しかしその手から皿とスプーンと手放すことだけはしなかった。


 私は、その空間が好きだった。
 松田も萩原も、会ってそれほど経っていないが、すっかり気が置けない相手になっていた。友人や同期とは少し違う、他人だからこそ、彼らに見せることのできる顔があった。この関係が、少しでも長く続けば良いのだけれど。
 そんなことを考えながら、食後のヨーグルトに口をつけた。甘さは控えめだが、口の中がまったりと優しい味に染まっていく。話はすっかり新年へと向かっていた。卒論がやばいだとか、そんな話を懐かしく感じながら、私は彼らと一緒に声を上げて笑っていた。