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「うお、人すごいな」

 車を降りた神社への道のりは、人で溢れている。顔色の戻った萩原が、外の空気を大きく吸い込みながらぐぐっと伸びをした。松田はあの後の渋滞で眠気に誘われてしまったらしく、今しがた欠伸をしながらのろのろと車を降りてきた。

「この辺りで一番大きい神社だから。さすがに新年はね……」
「行列もすごいね。並んどいて、何か買ってくるよ」

 参内列に私と松田を残して、萩原はさっさと出店のほうへ足を向けた。「はぐれるよ」と言ったけれど、彼はニコニコと笑って自分の頬を指す。確かに、少し離れていても人より一つ飛び出た頭はよく目立った。
「おお……人間広告塔……」
「何を宣伝してんだ、そりゃ」
 松田は私の言葉に子どもっぽい顔をクシャリとさせて笑った。それからポケットを叩き、煙草を取り出そうとしたが――。すぐに思い直したように、ポケットへ突っ込んだ手を離してがしがしと頭を掻いた。さすがに、この人混みで喫煙はしないのか。その様子を眺めて――すぐに、他のものが目に付いた。
 彼の傍には、幼い子どもが両親とともに手を繋いでいたのだ。その姿を見て小さく舌を打った様子を、恐らく隣にいる私だけが聞いていた。

 人混みだから、とかではないのだ。
 彼にとって、その行動をセーブするものは、ただ一つその良心なのだと思った。松田のその些細な行動があまりに警察官らしくて、私はつい感心してしまった。
 松田は恐らく、私の視線を感じ取ったのだろう。煩わしそうに、気恥ずかしそうに、こちらをジロリと睨んだ。
「何だよ」
「ううん。何でもない」
 ふふ、と零れた笑い声に、松田が鼻を鳴らした。寒いところは苦手なようで、ネックウォーマーの中に顔を半分ほども埋めながら、松田は行列の先を眺めた。

「ったく、よくやるぜ。んなに神様にお願いごとがあるのかよ」
「松田くんはないの?」
「あるに決まってんだろーが。じゃなきゃ来ねえ」
「なら言わなきゃ良いのに……」

 苦笑いしながら、私も冷えてきた指先をコートのポケットへ入れた。萩原は、この人混みの中で私たちを見つけられるのだろうか。携帯の着信履歴を確認しながら、私はそわそわと彼が背中を向けた方向に視線を向けた。

「……橘」

 ぽつ、と呟くように呼ばれて、私は松田の方を振り向いた。彼は少し口ごもるように口の端をひん曲げると、頬を掻いた。

「なんでもね」
「……珍しい。え? 今日どっか変?」
「そういうんじゃねえよ。ただ、もうすぐ入校だろ」

 ――入校。聞き慣れない言葉だった。そうか、警察学校は入学とは言わないのか。耳馴染みのない言葉に曖昧に頷く。
「警察学校は寮暮らしだから、今みたいに頻繁には会わなくなる」
「……寮なんだ」
「やっぱ知らなかったのか」
 そもそも、警察官になるために警察学校というものに入る――だなんてことも、ついこの間知ったところなのだ。最近はよく会う――と言ったって、たかだか一か月もない付き合いだ。私だけ仲間外れになるとでも思ったのだろうか。やっぱり優しい青年だと感じた。

「大丈夫。別にまた会えるわけだし……」
「ちげ……っ。お前、だって、あの萩が一か月かそこら会えなくなんだぞ?」
「え、あ、まあ……」
「警察学校には女もいるんだぜ」

 さすがに寮は違うだろうが、そりゃあ、いるだろう。女性警官だって今は珍しくないのだから。「そうだね」なんて相槌を打てば、松田はその口元をポカンとさせて、それからむしゃくしゃとしたように頭を掻きむしる。

「だっからよぉ、萩が……」

 彼が声を荒げた瞬間、その口元に何かが押し付けられて、松田は「もご」と文字通り言葉を呑みこんだ。焼き串だ。良い香りにつられて振り向くと、串とポテト、それから綿あめを買い込んだ萩原がにこやかに立っていた。

「お帰り。よく分かったね」
「陣平ちゃんのくるくるヘアは人間広告塔だからね。はい、ポテトあげる」
「ありがと、持つの大変でしょ」
「いーや? デカい手が活かされるのってこんな時くらいでしょ」

 萩原が手渡したポテトは、作られてから時間が経っているせいかふにゃりとしていたが、塩気がきいていて今の体にはよく染みた。松田が噛みきれない肉をもぐもぐと噛んでいる間に、萩原は少し伸びをして先頭のほうを覗いた。

「ま、食い終わるな。あれ、どうしたの松田、そんなこわ〜い顔して」
「…………はんへほへー」

 恨めしそうに萩原のほうを睨みながら、松田の加えていた串からはみるみるうちに具が消えていく。こういう、屋台の食べ物というのもたまには良いものだ。私たちは亀よりも遅いだろう、緩やかな歩みで前へと進んだ。





「……入校かあ」

 松田の言葉を思い出して、反復する。リビングでは松田と萩原がテレビを観ながらやいやいと野次を飛ばす声が響いていた。なんでも、モータースポーツにも新年記念レースというものがあるらしい。彼らが見ているのはその生中継だ。
 私は昨日のうちに仕込んでおいたハンバーグの種をフライパンの上に押し付けながら、考えた。確かに、少し寂しくはある。最初は躊躇っていた部屋だって、今や訪れるのも呼ぶのも二つ返事だ。もちろん、いつも三人で、だけれど。そこまで気ごころが知れた人と会えなくなると思えば、大なり小なり心に喪失感はあるだろう。

「みずきさん、手伝う?」

 ひょこりとキッチンに顔を出したのは萩原だった。まだレースは終わっていないだろうにと言えば、彼は悔しそうに「負けそうだから」と言った。松田の喜ぶ声が聞こえてくるあたり、応援している選手が違うのかもしれない。

「じゃあ、ソース作ってもらっても良い? 材料はもう分けてあるから」
「はいはい」

 もとから要領は良いのだろう。萩原は料理がへたくそなわけではなかった。単に、その頭に料理に関する知識がないだけだ。指示を与えればどんな初めてのものでも、それなりの物を作ることができる。

「……寮は、自炊なの?」

 ふと、私は彼に警察学校のことを尋ねてみたくなった。
 不便はないのだろうか、どんな場所なのだろうか。あまりに未知の場所だったから、彼にとってそれが良いのか悪いのかさえ分からない。
 萩原は驚いたようにラップを外す手を一度止めると、和やかに首を振った。
「いや、学食だよ。休みの日は買うなり作るなりあるみたいだけど」
「そっか、じゃあご飯には困らないね」
 良かった――、私は笑いながら答えた。その笑顔を作った頬が、やけに痛む。無理に口角を上げているみたいに、筋肉が強張る。自分でもよく分からなかった。うまく笑えない理由が、分からなかった。

 やはり、実は寂しいのか。気づいていないだけで、彼らに会えないことを余程残念がっているから、こんなにも表情を作ることが辛いのだろうか。
 じゅう、と肉が焼ける音。油が弾ける。その香りに、高い鼻筋を近づけながら、萩原は笑った。


「うん。でも、今日食べたら困っちゃうかな」
「……上手なこと言うなあ」
「真面目に言ってるよ。こんな美味しそうなんだから」


 彼はご機嫌に香りを嗅いでから、手元でソースをかき混ぜた。そのあとレースが終わってから松田がキッチンに顔を出し、白米をよそってもらった。私の部屋のテーブルは、萩原の部屋にあるものに比べると、少し狭いかもしれない。二人で向かい合って丁度いいくらいの大きさだから。
 そこに、三人分のハンバーグを用意して、三人で手を合わせる。少しだけ焦がした肉の表面が、今日はやけにこおばしいと思えた。