21

 時は少し過ぎ、もうすぐ、二月にさしかかる頃になる。寒さは緩和されるどころか、ちらちらと雪が舞うこともあったりと、さらに厳しさを増していた。そうなると通勤の道も辛いものがあり、以前着ていたコートよりもう一つ厚い生地のものになっていた。
 萩原や松田とは、ここ二週間ほど連絡を取っていない。曰く、卒業論文がいよいよ差し迫っているらしい。萩原の家に缶詰めになるから、なかなか会えないのだと言われた。私も大学を卒業した身だ。その季節の忙しさは身に染みて分かる。友人も、みんな泣きそうになりながら図書館に籠っていたっけ。
 数年前の自分たちを懐かしみながら、駅前を通る。季節は早いもので、シーズンはすっかりバレンタイン一色に染まっていた。可愛らしい包装たちを横目に、差し入れくらい良いかもしれないと思い立った。幸い今日は金曜だったし、疲れた脳には糖分が要るとも言うし。
 なるべく甘味の強くない、『男の方への贈り物に』とポップが立ったチョコレートを購入し、私は萩原にメールを送った。部屋に邪魔しても良いかと尋ねれば、【散らかってるけど……】と部屋の写真が送られてきた。

「……うん、やっぱ行こう」

 その散乱した室内に、私は差し入れを――否、正しくは彼らの周辺を片付けるべく足を向けた。最寄りから、たった一駅。その一駅に向かうのが、なんだか嬉しい。お節介かもしれないが、見慣れた道のりに少しだけ心を躍らせていた。




 インターホンを押すと、向こう側から「どうぞ」と簡潔な声が聞こえた。いつも部屋を訪ねるとギャアギャアと騒がしい彼らにしては、珍しいことだ。しかし、その答えは部屋に踏み入れてすぐに察することができた。
「や、本当にごめん。片付ける時間なくてさ……」
「別に良いけど、ひどい顔色。大丈夫?」
 リビングに転がった栄養瓶の数や、現在ノートパソコンに突っ伏して寝付いている松田の姿を見て、尋常ではない修羅場を感じた。萩原も、以前二日酔いに魘されていたときよりよっぽど顔色が悪かった。松田はともかく、彼が部屋着のまま身支度も整えていないのは、切羽詰まった感情をひしひしと感じさせる。

「なんか飲む? 栄養剤ばっかりは体に良くないし」
「あ〜……。じゃあ、コーヒー。ココアとか飲んだら寝ちゃいそう」

 本当はカフェインの摂取しすぎも良くないのだけど。今はそうも言っていられないのだろう。私は彼のキッチンからカップとケトルを借りて、インスタントコーヒーを淹れた。ちょうどチョコレートもあることだし。ついでにカップ麺やらが積まれているキッチンを掃除して、浴槽に湯を張っておくことにした。きっと、終わったら一番に入りたいだろうと思ったからだ。

 カーペットの上に無造作に脱ぎ捨てられていく服たちを回収しながら、山積みになった資料を少し寄せてコーヒーカップを置く。礼は述べたものの、視線は画面に向いたままの萩原は私の目に珍しく映った。キリの良いところまで仕上げると、ゆっくり息をついて彼はコーヒーに口をつける。
 寝こけてしまった松田を揺らして起こすと、彼は男にしてはぱっちりとした目つきを浮腫ませて、眉間を強く揉んだ。
「死ぬ……」
「なんか食べる? 適当に作ろうか」
「ん……」
「こーら、甘えんなって。マジでヤバいんだから」
 ぐいっと松田のよれよれなスウェットを、萩原が引っ張った。普段は茶化して松田に声を掛けることが多い彼だが、今日ばかりは声色が真剣そのものだ。夜食を摂る暇もないとは、どれだけ追われているのだろうか。使い終わった資料なのか、ソファにバラバラになって捨てられたプリントや蔵書を整えながら、私は萩原のほうを一瞥した。
「そんなにまずいの? 〆切までどのくらい?」
 太い首をゴキンと鳴らしながら肩を回す青年に尋ねると、彼は気まずそうに人差し指を一本立てた。
「一か月? ならそんなに急がなくても……」
「いやあ、そうじゃなくて」
 まあ、それもそうか。一か月後だったら、こんなにも慌てていないはずだ。ならば、一週間――一週間か。それだと、かなり不味い。山積みになっているということは資料探しこそ終わっているのだろうが、見る限り夏季の中間発表から三分の一も進んでいない。相当急がなければ間に合わないペースだろう。


「――明日」


 と、その声がどこから聞こえたか、よく分からなかった。
 何に対する返答だ、それは。不思議に思って萩原のほうを見遣ると、彼は瞼を伏せてまずそうにコーヒーを啜った。渋かっただろうか、彼はブラック派だと記憶していたが――。そこまで思考を巡らせて、そうじゃないとハっとした。
 萩原は、味に対してまずいと思ったのではない。発言に対してだ。「明日」と言った、自身の発言に対して――。

「あ、明日……?」
「うん。明日の十七時〆切厳守」

 一瞬、明日という単語も十七時が何なのかも分からなくなってしまった。十七時――腕に着けた通勤用の時計を見る。今は、夜の七時だ。萩原のほうを見ると、彼は澄ましているように見えて僅かに指先を震わせていた。

「う、うそでしょ!? 君たち、草稿提出とかなかったわけ!」
「あった。あったよ。まあそれは適当にパパーっと……」
「ちょっと、見せて」

 私が手を出すと、彼はおとなしく私に草稿を差し出した。なるほど、確かに要領の良い彼らしい草稿だった。粗はあるが、大まかな流れはしっかりとできている。対して松田のほうは、しっかりと書き上げている個所と大雑把に流している個所の差が激しすぎた。いや、それにしても一日だ。
 
 私はコートを脱いでソファに掛けると、その資料を眺めた。松田は工学系、萩原は心理学と、よりによって題材も学部もまったく異なっている。

『俺らね、警察官になるんだ』

 そう、はにかむような、嬉しさをかみしめるような、複雑な笑みを浮かべていた萩原の口元が頭に過ぎる。自業自得なのは分かっている。私はこういったことを最後に残さない性質だ。年度初めからこつこつと、計画を立てて進める。そうやって積み上げたものは、裏切らないと信じているからだ。
 彼らが今こうして追い詰められているのは、それをしなかったから。――分かってはいるけれど。警察官になるとはにかんだ萩原の姿を、幼い子を気遣って煙草を吸わない松田の些細な優しさを。私には欠けた、夢を追う青年たちの背中を、こんなところで止めて良いわけもないと思った。

 草稿から顔を上げると、萩原の垂れた目と視線が合った。
 今まで何度も視線を交わしたことはあったけれど、その目にじわじわと涙の膜が張っているのは初めて見た。目に見えて分かるほど、その瞳がみるみるうちに潤んでいく。しかし、決してそれを悟られないようにと、いつもより多く瞬いているのまで分かった。
 
「……分かった。二人の序章の仮説は読んだから、それに必要な資料は一つに纏めてあげる。萩原くんは草稿の時と同じ感じで良いから最後まで書いて。松田くんも草稿の時流した間を埋めて。たぶんそれだと文字数足りないから、そこに付け加えれる……もう一個仮説を立てるか、深く掘れそうなところを調べてみる」

 私はニットを捲ると、彼らの積み上げた資料から付箋の貼られた箇所を読み漁った。萩原が驚いたように瞬いて「でも」と口籠るけど、小さくため息をついて一蹴する。

「反省は後にしよう。だって、卒業しないと警察官になれないんでしょう」
「……ごめん」
「良いよ。はい、チョコ食べて。ひとまず提出、あとは二人の器用さだったら、発表で巻き返せるからね」

 それに、こういった地道な努力は私の得意分野だ。先ほどの潤んだ目つきを思い返して、つい微笑ましい気持ちになってしまったのは、そっと心の奥に隠しておこう。私は資料を読む傍らで、船を漕ぐ松田の背中を軽く叩いた。