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「お、終わった……」

 萩原が倒れ込むようにキーボードに項垂れたのは、既に陽が傾きかけた頃だった。もちろん、卒論をはじめてから次の夕方だ。私もようやく大きく息をつき、彼らがしっかりメールで提出したのを確認してからソファに雪崩れ込んだ。
 全員労いたい気持ちは山々だったが、すでに目が寝ぼけてしょうがない。瞼がくっついて、早く眠りたいと体が訴える。昔は散々徹夜したこともあったはずだが、やはり年々無理がたたるようになっている気がする――。なんて、考えたくはないけれど。

 ふー、と大きく息をついて、微睡ながら天井を見上げた。二人はとっくに力尽きたらしく、すうすうと穏やかな寝息が私の耳を揺らす。マンションのすぐ前の通りは車通りも多く、時折聞こえるエンジン音。風の音。パソコンが起動する音。そういったものが全て入り混じって、さらに眠気を誘ってしまう。
「……はあ」
 次第に間隔が空くようになる瞬き。こんなに穏やかに眠りにつくのは、なんだか久しぶりに感じた。自分の鼓動の音が、心地よく聞こえる。自分の意識が、優しく泥のように沈んでいく。





「みずきさん」

 体を揺すられて、奥底にあった意識が表面へと浮かび出る。僅かに声が漏れて、それが自分のものだと分かった瞬間に、ぱちっと瞼が持ち上がった。真上には、萩原がこちらを覗き込む顔がある。長い髪が、私の顔を僅かに擽るくらいの距離だった。私はその近さに驚いて思わず彼の名前を呼ぶ。

「ごめん、まさかそんなに目覚めが良いとは……」
「私こそ……。ごめんね、どのくらい寝ちゃってた?」
「もうすぐ八時かな」

 しまった、寝すぎた。眉間の皺をほぐしながらゆっくりと上体を起こすと、掛かっていたらしいブランケットがぱさりと落ちた。彼の家の匂いがするブランケットだ。掛けてくれたのは萩原だろうか。
「ありがと、これ……」
「いや、それは掛けたの陣平ちゃん」
「あれ? 松田くんは」
「実は俺もさっき起きてさ。置手紙して先帰っちゃったみたい」
 ほら、と彼が差し出した置手紙(――と言って良いのか。レシートの裏だったが)には、【バイトの時間がやばいから帰る】と書きなぐったような字が並んでいた。なんだか、意外だ。彼も、女性にはブランケットを掛けたりすることがあるのか。そう考えてから、私は失礼なことを想っているのではとも。

「暗くなっちゃったし、送っていこうか」
「そんなの良いよ……って言いたいところだけど、じゃあ、買い物の荷物お願いして良いかな」
「よし来た。ちゃちゃっと準備するから待ってて」

 そういって彼が洗面台へ向かう最中、私も近くに置いてあった鏡で軽く髪を整えた。あまりに寝ぐせがひどくて、私は先ほどまでこの顔で萩原と話していたのかと悲しくなってきた。口元を摩りながら、涎は垂れていないかとか、逐一確認をしていると、部屋着から適当なスウェットとパンツに着替えた萩原が顔を出した。先ほどまでぴょんっと立っていた寝ぐせは、ニット帽で隠したらしい。

「何か飲んでく? 暖房つけっぱなしだったから喉乾いたでしょ」
「水とかで良いよ」
「そう言いなさんな。萩原くんに任せときな」

 萩原はご機嫌そうにキッチンに向かい、取り出したのは市販の炭酸飲料だった。ペットボトルの底から、細かな気泡がぷつぷつと浮き出てくる。グラスに氷を入れて、とぷっと中身を注ぐと、耳を炭酸が弾ける音が擽っていく。
 ただの、透明なガラスを通しただけなのに、なぜだかその飲み物がひどく透き通ったように見える。乾燥していた喉がゴクリと音を立てた。萩原が少し悪そうな顔をして、茶化しながら「飲みたいだろぉ」と笑った。

「それだと、悪い薬みたいだよ」
「ある意味わる〜い薬。一回飲むとペットボトル空にするまで飲んじゃうっていう……」
「あはは、確かに、この時間にそれはまずいかも」

 何せ砂糖の塊だし。私は笑いながらグラスを受け取り、口をつける。カラン、と氷がぶつかる音がした。口の中に入ると、先ほどまで目で楽しんでいた炭酸がパチパチ、と舌の上を踊る。それが爽快で、心地よくさえ感じた。
「寝起きのジュースってこんな美味しいもの?」
「初めて? 逆に信じられねえわ」
「そういうのは、親が止めてたからね……」
 苦笑いしながら、少しだけグラスを握る指先が強張った。
 親の話題は、いまだに少し気まずい。親への嫌悪感も然ることながら、そんな親に愛されようと、一生懸命に約束事を守っていた自分へうんざりしてしまうのだ。そういった感情を押し流すようにぐっとグラスの中身を呷ると、萩原は「お、良い飲みっぷり」と野次を飛ばした。

 それから、萩原自身も炭酸飲料を飲み干して、プハ、と息をついた。それから、いつもよりわずかに声のトーンを落とす。萩原の声は、常にゆったりと低いから、トーンを落として囁くようにすると、急に色気が増した。

「……あのさ、ありがとう。これに限っては本当に自業自得だったと思うんだけどさ」
「良いよ。私がやりたくてやったの。もちろん、卒論に関しては自分が悪いとも思うけど」
「おっしゃる通り」

 私としては、彼らがそんなに無計画だったのは意外だった。確かにチャランポラン――といえばそうなのだけど、一方でどこか要領の良さを見せる青年たちだったから。たとえば、テスト勉強をしていないと嘯くくせに、優良な成績をとってくるような。彼らにも大学生らしい抜けどころがあるものだと、私は一人納得していた。

「まあ、自分に必要なものかどうかは考えなきゃってことだね」
「だねえ。まさかここまで追い詰められるなんて……」
「思ってなかった?」

 肩を竦めたら、彼は眉を下げて情けなく頷いた。
 その表情に、私は声を上げて笑った。「正直でよろしい」なんて偉そうぶっていったら、彼も応えるように恭しく頭をぺこりと下げてみせる。

「さ、行きますか」
「うん。ご馳走様」

 キッチンにグラスを戻しに行こうとした時だ。
 ――私はすっかり、先ほどまで眠ってしまっていたことを忘れていた。立ち上がった拍子に、血行が悪くなっていたらしい足先に力が入らず、足がぐにっと横向きに逸れた。もう片方の足で踏ん張ろうとするけれど、よろめいてキッチンのカウンターに手を着こうとした。
 その手を、何か暖かいものが先に触れた。大きな手。カウンターに体重を掛けようとしていたものだから、私は思い切りその腕に凭れかかってしまった。「うわ」――どちらともない声が、驚きの声を漏らす。

 ぼふ、と大きな毛布のような――彼の家の匂いがする――それに、鼻をうずめた。なんだ、これ。トクントクンと、脈がこちらまで聞こえてくる。はっとして顔を上げて、そこにある密度の濃い睫毛の束が見えた。その隙間から、真っ黒な瞳がキラっと煌めいて見える。

 艶やかな髪が揺れて――私はその瞬間に、以前彼のキスシーンを駅前で見てしまったことを、その風景を鮮やかに思い出した。高い鼻筋が、分厚い唇が、しっかりとした輪郭が――すべてが、目の前にある。
 声を奪われてしまったのかと思った。そのくらい、「ごめん」「ありがとう」、たったそれだけの言葉が出てこなくて、私はただ沈黙した。彼の顔を見つめたまま、ジっとその視線を合わせることしかできなかった。

「……いこっか」

 す、と肩を支えられて、私の体勢を整えてくれる。その手つきで、私はようやく現実へと引き戻された。「あ、うん」。私は数年ぶりに絞り出したような小さな声で相槌を打つ。心臓が、時を戻したようにドクッドクッと急に全身に血を送り出した。

 その動揺を誤魔化すように、髪の毛を耳に掛けた――その瞬間だった。チュッ、とリップ音が耳元で聞こえて、私は再び時を止めた。

 ゆっくり、ブリキ人形のように彼を振り向く。柔らかくて濡れた何かが触れた耳の縁が、じわじわと熱を持っていく。火傷をしてしまったくらいに、熱くて痛かった。萩原は、私の機械のような目線に向けて、口元を引きつらせて笑っている。その仕草の意味が、私にはよく分からなかった。