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 耳に触れた冷たい、濡れた感覚が、先ほど飲み干したコーラなのだと気づいたのはそのすぐ後のことだった。萩原は何事もなかったかのように、他愛ない会話を続けながら私をマンションの前まで送った。
 私も何事もなかったように部屋まで帰って、自室に着いてから暫し耳の縁をなぞるようにして固まっていた。靴を脱ぎ散らかして、バタバタとソファまで走る。クッションに思い切り顔を埋めて、声にならない叫びを柔らかなビーズ素材のそれに押し付けた。

 ――ど、どういうことだろう。
 彼女と間違えたとか――。でも、彼女はいないと言っていた彼に嘘はないような気がする。萩原は決して、その場限りの感情で手を出したり、そういう人ではないと思っている。いや、あるかもしれないけれど、少なくとも友人にはしないだろう。たまたま触れただけだろうか。それなら、すぐに謝ってきそうなのに。
 あの引きつった笑顔は、何を考えていたのだろう。それを思い出すだけで、ぐるぐると思考が巡り続けてしまう。

 もう一度、よく薄っぺらいと言われる耳の縁を自分の指でなぞった。柔らかかった。ふに、と食むような、冷たい感触だった。あの優し気な触れ方が、駅前で見掛けた彼のキスシーンとはどう考えても合致しない。心臓がうるさい。全身に血が巡って、頭が沸騰してしまいそうだった。

 人にする行動は自分の感情の鏡だ。自分が好きで振り向いてほしいときは、アピールをするように。萩原が知らないフリをしたということは、私に気づいてほしくなかったということじゃないだろうか。だとすれば、やっぱり間違えただけ――?

「わ、わかんない……」

 独り言ちて、ごろんと寝返りを打つ。
 一番驚いたのは、その行動に対して、少なからず好意的に捉えている自分の心のうちだ。触れても、嫌だと思わなかった。間違いだったとしても、その一瞬の接触を、私の心は是としていたのだ。
 私は悩みに悩み、緩く連絡を取り合っていた降谷にメールを送った。以前のキスシーンの一連を知っているのが、彼しかいなかったから――。すぐに返って来た返信には、【明日、〇〇駅に来れる?】とあった。私はそれに了承の返事をした。


 ――その夜は、妙な夢を見た。
 口に出すことも憚られるのだけれど、萩原とセックスをする夢だ。彼のことばかりを思い浮かべていたからだろうか。そんなにも欲求不満なのか、自分の心にげんなりとした。こんな夢を見るなんて、最低だ。

 でも、どうして嫌とは思わないの。夢の中の私は、なんでこれっぽっちも嫌がっていなかったの。その答えはすぐ身近にあるような、とても遠いような、奇妙な感覚だ。むずむずと心が痒くて、しょうがない。誰か、医師のように診断を下してくれたのなら、どんなに楽なのだろうか。それがないから、私は感情と衝突し続けているのだけど。





 待ち合わせの駅は、通勤で通る道のりよりも少し都心に寄った駅だった。デパートの地下で買った手土産用の茶菓子を手に、指定されたオブジェの傍で待っていると、数分後に降谷が顔を見せた。ダッフルコートを羽織った彼は、ネックウォーマーからぷはっと顎を出して、分かりやすいように少し遠くから手を振った。

「これ、この間のお礼……。本当はどこかご飯でもご馳走したかったけど」
「気にしないでくれ。僕、あんまり高いものと安いものの違いが分からないし」

 彼は本当に何も気に留めた様子もなく、腕時計を覗くと、すたすたと歩みを進めた。しばらく進んでから、ちらりとこちらを振り返って首を傾ぐ。「なんだよ、行かないのか」――、そうぶっきらぼうに言う降谷に、私は少しだけ小走りになって着いて行った。

 彼が向かっていたのは、チェーン店の居酒屋だ。私も学生の頃はよく通っていた。通しの枝豆を頬張りながら、降谷は「前の奴と同じ?」と藪から棒に尋ねた。
 その前後の言葉がないので、一瞬固まったが、すぐに私のメールの内容についてだと分かった。私は頷き、謝った。年下の、会って間もない青年に打ち明けるには恥ずかしいが――だからこそ、打ち明けることができたような気もする。言っては何だが、私はプライドが邪魔をしてしまうほうだから。

「……それって」

 降谷はぎゅっと眉間に皺を寄せる。私は彼を覗き込むようにして見上げた。彼こそが、私の求める医師なのだろうか。小さく唾を飲み込むと、降谷はジョッキを呷って言った。

「そいつ、相当軽薄だな……」
「……それは、まあ、話だけ聞いたらそうかもしれないんだけど」

 彼は生真面目そうな表情を歪ませる。確かに、彼と萩原や松田では同じ大学生でも雰囲気が異なるような気がする。降谷は少し話しただけでも伝わるほど、真っすぐで鋭いような雰囲気があった。きっと、間違っても前日まで卒論に追われるようなことはないだろう――なんて苦く笑った。

「でも、結局その男に聞くのが一番だと思う」
「……その人に、直接?」
「人の感情なんて人には分からないし、人の思惑だって人には分からないよ。外でどんなに推論したって、推論に過ぎないんだから」

 真っすぐな言葉は、淀みなくそう言い切る。私はその真っすぐさが少し眩く感じながら、しかし美しく、格好いいと思った。私は小さく頷く。確かに、そうだ。私がどんなに考えて、他の人が助言をしてくれたって、それは萩原の意思とは違うかもしれない。
 でも、それを言葉にするのは、怖かった。
 だって、萩原は知らないフリをしたがった。私がそれを掘り返したら――都合が悪いと思ったのなら、今までのような関係すら崩れてしまうのではと。三人で、温かい部屋の中手を合わせた――そのひと時さえなくなってしまうのではないか、と思うのだ。

「君は、その……前言ってた、親友が――もしだけどね。もし、そういう聞きづらいことがあっても、聞ける?」
「もちろん。寧ろ、隠し事してるほうが傷つくだろ」
「確かに」
「――人には添うてみよ、馬には乗ってみよ」

 降谷は割り箸をパキンと二つに割りながら、小難しそうな言葉を並べた。私が首を傾げると、「その親友からの受け売りさ」と降谷は答える。

「人は接してみないと、物は試してみないと分からないってこと。何事も一度やってみることは大切だ。まだ試す前から怖気づいてちゃしょうがないよ」
「でも、試してもし戻れなくなっちゃったら?」
「……友人って、そんなに希薄な関係じゃないはずだ」

 降谷は、信じて疑わない、澄んだ朝日のような声色で、あっけらかんと告げた。彼はそう思っている。心から信じているのだ。私は、「そっか」と自分に言い聞かせるように彼の言葉を繰り返す。
 希薄な関係――そうかもしれない。そうだと思うから、怖いのかもしれない。私は彼らのことを知らないから。一つ拒否をされれば、もう二度と会えないかもしれないような間柄だから。

「……携帯、貸して」
「え? う、うん」

 私が黙りこくっていると、降谷が手をこちらに差し出す。私は言われるがままに携帯を差し出すと、彼はカチカチと操作をして、暫くするとこちらに携帯を返した。画面には呼び出し中という無機質な白文字が浮かんでいる。
「……えっ!?」
「着歴から辿った。ここ一か月で急に履歴が増えてたから。違うか?」
「そ、うだけど、これでどうしろって……!」
「聞けば良い」
 さらりと、言い放つ彼を他所に、携帯電話から萩原の声が響いた。私は電話越しだと大人びて聞こえる声色に、冷や汗が垂れるくらい青ざめながら、「もしもし」と応える。萩原は、間延びした声で「は〜い」と返事をした。
 ――聞く、聞くって、何を! どうやって!
 目を白黒とさせていたら、居酒屋の部屋を区切っている暖簾がぺろりと捲れた。

「ゼロ、ごめん。お待たせ……あれ?」

 黒髪の青年は私を見て、猫のような目つきを丸く見開く。通話の向こうでは萩原が話をしていて、降谷は黙々とおひたしを食べていた。情報量が多すぎて、私は頭を抱えながら重たくため息をついた。